第16回
通常の業務時間帯はとっくに過ぎているはずだ。それでもHMLの本社ビルには全階に明かりが灯り、濃厚に人の気配が感じられた。自分が籍を置いていた頃から忙しい会社ではあったが、時が時だけに余計に残っている人が多いのだろう。だがそんな今の本社屋にも、ひっそりとした場所があった。エレベーターで上昇していくと、最初は満員だったそれは次第に空いていき、最上階に着く頃にはファード唯一人、ざわついた空気は階下へすっかり取り残されたようだった。
ファードは最上階の、以前は飛行妖精の厩舎だった場所へ向かっている。今は倉庫として使われていると聞いたその場所に、ファードとフータは1時間ほど前に到着していた。降り立つ際、壁面の巨大なHMLロゴがそのバックライトでぼんやり夜空に浮かび上がらせた、旧発着デッキを見下ろした。風雨が蝕んでいくのに任せたまま、偉容を纏った本社屋の中で、ここが見事に忘れ去られていた場所であることは明らかだった。これでは厩舎の中もどうかと不安に思ったが、有用な物も保管されている倉庫だと後から聞いた通り、最低限の手入れはされているようだった。大急ぎで保管物を片寄せて確保したらしい一角に、真新しい藁が敷き詰めてあったのには驚いた。フータの休憩用に用意してくれた物だろう。仕事を引き受けると決めてからここへ訪れるまで、そんなに余裕はないはずだった。今時の都会の真ん中で、これだけの量の新鮮な藁を速やかに用意したとなると、かなりの手際の良さだと思われた。
風野商店での食事の後、再び乗り慣れない公用車に収まって、カラは一足早く本社へ戻った。ファードも一通りの旅支度を急いで済ませ、弥祐を伴い向かうつもりだった。
「ファードの分も私が支度しておくから、先に行ってよ」
弥祐は右腕をぶんぶん振り回して張り切っていた。その様子をおかしそうに見ながら、陽がファードを安心させるように言った。
「山越えに必要な物は、私に任せておき」山越えには、普段の空とずいぶん違う所を飛ばねばならない。恐らくは弥祐の知らない、特別な装備が必要だった。「必要な物は、まだあのタンスの奥に押し込んであるんだろうね」
「ああ」ファードは頷いた。これなら自分は取り敢えず、夜間飛行の準備だけして出て行けば良さそうだった。「しかし、山越えの装備一式はかなり重いぞ。一人で持ってこられるのか」
ファードが心配すると、弥祐は不敵な笑みを見せたのだった。彼の二の腕に、いつか叩かれた時の鋭い痛みがよみがえる。なるほどと引き下がった。
本社に着いてからも、幾つか出来事があった。発着デッキに降り立つとすぐ、ファードとフータは数人の男女に出迎えられた。一人は両手に、恐らくは自分の部署で一番強力なライトを持って、デッキから二人を誘導してくれた男性社員だった。一人の女性は白衣を着ている。自己紹介で獣医だと述べ、伝染病が流行っている地域に赴く彼らには、予防注射を打ってもらうと説明した。もう一人の女性はファードを、人間相手の医者の所へ案内するために待っていた。
獣医はファードより少し若く見えたが、その印象よりはずっと穏やかな物腰でフータに近付いた。この場で仕事を済ませてしまうつもりらしかった。
「鞍を外した方がいいですか?」
「いいえ。このままで大丈夫ですよ」
動物の相手をするのが心底好きそうに、獣医は眼を細めて言った。別の病気の予防で注射なら何度かされているから、フータはその単語に覚えがあるようだった。近寄ってくる彼女に、ちょっと身構えた目付きを向けている。ファードもすぐに別室に案内され、顛末は見られなかったが心配はしていなかった。以前の何度かでも、別に暴れだしたりはしなかったからだ。実際、後でそういう話は聞かなかった。
予防注射を済ませると、ファードはまた別室に案内された。依頼内容のより詳しい説明を聞き、契約を結ぶためだった。商談用の応接室のような小部屋に通された。カラともう一人、中年の男性社員が顔を上げた。
「弥祐さんは?」
問うカラに、ファードは一人で来た事情を手短に説明した。相手は頷き、次いで男性社員とファードとを引き合わせる。これからの打ち合わせは、この男性社員が担当することになっていた。それが済むと、カラはちょっといいかな、と言ってファードに向き直った。
「さっき聞き忘れたけど、君の方は明日の仕事、大丈夫なの?」
しまった、という顔付きになった相手を見て、まったく聞いてみて良かったよ、とカラは苦笑した。
「そこの電話は外にもかけられる。差し支えなかったら使うといいよ」奥の小さなテーブルの上の電話機を指し、カラは言う。「それから弥祐さんが同行する件なんだけど、了承されたよ。ただ、君の私的な同行者じゃなく、僕をバックアップしてくれるスタッフの一人ということにしておいた。そうすれば、経費は会社持ちだからね」
カラはカラで色々やっているようだった。今度はファードが苦笑する番だった。「カラさんも、現地に行かれるんですか?」相手の言葉を解釈するとそうなるということにもふと気付き、聞いてみた。
「ああ、さっき通達があってね」風野商店から本社に戻った後、彼は秒刻みで人に会っていた。「僕が現場の責任者だ。まあ、この措置には正直ほっとしている」自身山越えの経験者で、元部下のファードとも気心が知れている。ごく控えめに言っても、自分以上の適任者が今の社にいるだろうかと思う。「君とフータの邪魔をしないように上手くやるつもりだよ。よろしく頼む」
「はい、カラさんなら安心です。こちらこそよろしくお願いします」
「うん。それで、弥祐さんへの連絡なんだけど…」
言いかけたカラにファードは頷いた。無論最終的な判断は契約書を見てからだが、彼は引き受けるつもりでここへ来たのだ。「引き受けた場合、やはり今夜中にここを発つのですか?」
「そういう依頼内容になってるね」契約の内容についてはファードが来る前、カラも男性社員から説明を受けていた。「説明を受けている間に正式に彼女をここへ呼んだ方がいいと君が思うなら、僕から彼女にそう連絡しておこう」
「よろしくお願いします」ファードは頭を下げた。
「じゃあ、君はなんとしてでも休暇を取らないとね」ドアのノブに手をかけながら、カラは微笑んだ。「ほら、早く連絡したまえ」
別の打ち合わせがあるということで、カラは部屋を出て行った。休暇の相談なら職場の総責任者、ファン・ミヨンに連絡しなければならない。男性社員に待たせてしまう詫びを言い、ファードは受話器を取った。手帳を見ながら、先ず“時の三精霊”にかけてみる。案の定、この時間では、いかに仕事熱心な彼女でも職場には残っていなかった。仕方がないので、緊急の連絡用にと教えられている彼女の自宅の番号にかける。プライベートな時間に申し訳ないな、とコールを聞いていると、3回目に彼女は出た。
「やっぱりファーボルグさんが行かれるんですね」ファンも夕刻行われたHML社長の会見を見ていて、もしかしたらと思っていたのだった。「大丈夫ですよ。どのように休まれますか?」
今回は、時間に制約のある仕事だった。明日の夕方までに山越えが叶わないのなら、海路で山向こうの港まで行き、そこからは空路か陸路という通常のルートでも、積み卸しのロスなどを可能な限り減らし、夜を日に継ぐような行き方をされれば(実際にそうするのだろうが)十中八九山越えよりも早いだろう。弥祐には一日二日と言ったが、現実には明日の早い内までがファードとフータにとっての勝負の時間だった。ただ、山越えが成功すれば日帰りでこちらに戻るのはちょっと難しい。勘案して、一応この場では明日明後日と申請しておいて、出勤可能なら明後日の分はキャンセルと、そのように相談することにした。
「そんなにお気を遣わずに。ファーボルグさんが頑張っている間は、私たちも頑張りますから」ファンは彼が遠慮していると思った。「大変なお仕事に向かわれるのですし、後数日、お休みされても構いませんよ。休暇の日数がご心配ですか?」
「いえ、それは大丈夫ですが」
「そうですよね。ファーボルグさん、あまりお休みされていませんものね」そう思い出して言う。几帳面な彼女の頭の中には、監督下にあるスタッフ数十名の休暇利用状況が、各人の正確な残り日数という細部に至るまで、完璧に記憶されていた。良く人から驚かれるが、折に触れてそういった情報に接している彼女なのだから、ごく自然と覚えてしまうのだった。
結局、ファンにやんわりと押し切られる形で明後日まで休むことになり、以降も状況を見て、必要なら遠慮せずに休暇申請すると約束させられた。
「あの、ファーボルグさん」何回か言いかけてためらっていたことを、ファンは結局聞くことにした。「今の時期の山越えが特に厳しいってこと、あの会見で初めて聞きました」元々知識欲は旺盛だし立場もあるしで、彼女は自分の職場で扱われている事柄なら、広く浅くではあっても概ね把握していると思っていた。風乗りコーナーの展示は、彼女も深く関わったものの一つだった。「このお仕事は、ファーボルグさんにしか出来ないものだと思います」
「それはどうでしょう」
「ご自分の意志で行かれるんですよね?」
「ええ」言い淀むこともなく答えられた。弥祐のことをふと思った。「何処まで行けるかは分かりませんが、やれるだけやってみようと思ったんです」
「そうですか…」相手は知っている人のようであり、知らない人のようでもあった。気を取り直し、他に連絡事項がないか聞いてみる。
「いえ、特にありません。ご配慮ありがとうございました」
「いいえ」今のは知っている人だった。自分の声が少し硬くなっていたことに、ここで初めて気が付いた。相手に悟られないように、ほっと息を抜く。「明日はスタッフ全員でファーボルグさんの応援をしています。頑張ってください。そしてお気を付けて」
「はい。おくつろぎの所を失礼しました」
相手が切るのを待ち、受話器を置くフックを、ファードは指で押し下げた。