第14回
「ほ?」
最近は随分日も延びたが、さすがに書店の閉店も間近となると外は暗くなっていた。売れ筋の雑誌新刊を特に並べた小型の移動書架も、もう店先から下げる頃合いだった。今日は殆ど一人でやることになったが、外回りはあとシャッターを閉じるだけという所まで、陽は店を閉める準備を進めていた。そこへ、この平凡な住宅街では見るのも希な黒塗りの大型高級車が、滑るようにやって来て店の前で停まったのである。何事かと手を休め、様子を窺う。ガラスには濃い色がついていて、車内の様子は分からなかった。運転席から40格好の男が素早く、かつ同乗者の格を傷付けない行き届いた動きで降りてきて、頭を下げながら後部座席の店側になったドアを開けた。礼を言う聞き慣れた声と、続けて現れた長身を見て陽は意外に思った。運転手によってドアはごく静かに、しかし確実に閉められた。
「ああ、今晩は」車中から自然と用意していた笑顔を向けて、カラは挨拶をした。「大変ご無沙汰しております。こんなお忙しい時間にお邪魔して、申し訳ありません」自分が相手のどのような場面に来合わせ、手を止めさせてしまったのかは、見れば直ぐに分かる。丁寧に頭を下げた。
「いいえ、こちらこそご無沙汰しています。片付けの方はもうあらかた終わっていますし、どうぞ、お気になさらないでください」相手の来意は一先ず置いて、陽も頭を下げる。「それよりも、この間は弥祐がご馳走になったそうで…お礼が今頃になってしまったことこそ、お詫びしませんと」
「ああ、いえ」カラは気まずさに体を小さくした。「あの時は私からお誘いしたのですし…それに実を言うと、弥祐さんには失礼をしてしまいまして」
「話は当人から聞いて、存じています」陽はゆっくりと首を振った。「悪いのはこちらの方ですよ。あの子の短気は昔から心配でしたが、さぞご不快だったでしょう」
「いいえ、決してそのようなことは」カラは神妙にうなだれた。「私の配慮が足りなかったのです。弥祐さんにはお詫びしたいと思っています」
「ええ、ええ。それならば、お越しいただいて好都合ですよ」陽は柔らかく微笑み、話を切り上げることにした。「色々とお話があっていらしたのでしょう。さあ、中へどうぞ」背を向けかけて、ふと思い付く。「カラさん、お夕飯は? 大したものはお出しできませんが、宜しければ済ませていってくださいな」
「つくづく時間を考えない訪問で、本当に失礼しました」そう言いつつ、カラは最初断りの言葉を探そうとしたが、結局は思い直した。「…そうですね。込み入った話になるかも知れませんし、お言葉に甘えさせて頂けるのなら助かります」
「ええ、勿論構いませんとも」
「では、30分くらい見ておいてください」先程から後ろで控えていた運転手に、カラは声をかける。「この辺りに待てる場所、ありますか?」
プロに向かって余計な気遣いには違いなかったが、運転手は微塵も変わらぬ慇懃な態度で承知した。「お任せください。では、ご指定のお時間にお迎えに上がります」滑るように車に乗り込むと、殆ど道幅一杯のそれを危なげなく、店先から退去させた。
「今日はまた、随分大きな車でいらっしゃいましたね」陽の知る限り、カラは大仰を好まない謙虚な男であったはずだが、役員に昇進したことも知っている。自然、皮肉に響いたかも知れなかった。
「社が急に回してくれたもので、やむを得ず…」実際、公共の交通機関を乗り継いで訪ねようとしていた彼を待ち構えていたのが、普段は上級役員しか利用の許されない、あの大型高級車であったのだ。社長の指示だそうで、彼自身戸惑っている。だが来意を考えれば時間が惜しい。こう言うに止めておいた。
「ファードはいますか?」陽について店内に入りながら、カラは尋ねた。
「ええ。奥で弥祐の手伝いをしていると…おや、来ましたかね?」
そう陽が言い、カラが何のことか分からないでいると、本当にファードが奥から出てきた。台所の方が一段落して、こちらに戻ってきたのだろうか。
「カラさん!」
こちらを見るなり目を見開き、詰め寄って来そうな勢いを見せた相手を、カラは先ず意外に思った。
「やあ、ファード」しかしカラは普段通り接しようとする。「くつろいでいる所を済まないね。ちょっと話が有ってきたんだが、時間はいいかな?」
「山越えのことですか?」
「え?」今度は驚きが素直に表に出た。「何処でそれを聞いたの?」
「いや」噛み合わない話に、勢いが行き場を失う。「さっき今の社長がテレビで会見していて、それで知ったのですが…」
「陽さん、その番組を確認させてもらってもよろしいでしょうか」カラはうろたえた表情で相手を見た。「突然不躾を言うようですが、大事なことでして…」
どやどやと大勢の足音が廊下をやって来た。目を上げると祖母とファード、それに何故かカラまでが、こちらに背を見せて身を寄せ合い、敷居越しに居間のテレビに注目しているらしかった。弥祐は、フライパンの野菜炒めを大きな深皿に移す最中の姿勢のまま、目を丸くして固まった。
「自分も途中しか見れなくて、会見が終わったのかまでは分からないんですがね」ファードは言った。画面は既にHML本社の会見場を映していなかった。今はスタジオの男性キャスターが、関連する他のニュースを読み上げている。
「他の局はどうなんだい?」
陽に促され、ファードは歩み寄ってリモコンを手に取った。順番に確認していっても目当てのものは見られそうにない。軽く溜息をついて、リモコンをテレビ台の上へ戻した。「あとは海伝いの空路を考えているとか、そんなことも言ってましたね」
カラは軽く頭痛を感じ、額に手をやった。先程の会議の場で社長の言っていた“ささやかな手伝い”の意味が、やっと分かったのだ。特例で上級役員用の公用車を仕立ててやったり、テレビで先に“交渉の事実”を公にしてしまったり。要は自分への、あからさまなプレッシャーだった。
「社長の策略、ですか」
「まあ策略というか、悪戯というかね」
居間の畳に出された座布団は、日に干したばかりだったのか良い座り心地だった。その上で勧められるままに足を崩したカラは、ちょっと疲れた声でファードに答える。陽と弥祐は台所で慌ただしくしていて、テーブルには二人だけがついていた。
「その交渉は僕が命じられて、今これから始まるんだ」出された緑茶の目に鮮やかな色合いをちょっと楽しみ、カラは一口啜る。
「…」
「不愉快に思われても仕方がないね」悪戯に巻き込まれたのが自分だけでないことを、実際気の毒に思う。相手の沈黙をカラはそう取った。
「いえ、そうではないんです」何処か寂しげにファードは答えた。「自分以外にも風乗りが残っていたのかと、そんな風に思ったものですから」
カラはそうか、と思った。自分にその事実が無いのに風乗りと交渉中と言われれば、誰だって他の風乗りの存在を思うだろう。カラは、ファードとフータの風乗りとしての孤独を知っている。社長に対し明確に怒りを覚えたのは、これが最初だった。
「ファード。ここで話を打ち切ってもいいんだ」この時、敢えてこう言うことにためらいは無かった。相手の目を見詰めた。
「いえ」ファードは表情を引き締めた。「お話は伺わせてください」
「そうか」相手がそのつもりならば、自分も仕事を思い出す外無い。少し間を置いてから切り出した。「じゃあ話そう。君に運んでもらいたい荷物があるんだ」
「物はなんですか?」
「薬品だ。山向こうのはやり病のことは知ってるかい?」
ファードは頷いた。病のことを大枠で、というのも問題無いし、ここでカラの話を引き取るためのもう少し細かい情報も、手伝いをしながらの見聞きではあったがニュース番組から得ていた。「代替品ですね。例のトラックが運んでた分の」
「まだ100%の補填ではないけどね。予防接種に使うワクチンが、5ミリリットルのガラス容器に600本。後は特効薬、こちらは液剤と錠剤になるが、それぞれ600人と800人分だ。これらは特殊な保護ケースに収められる。触れ込みでは、10mの高さからコンクリの上に落としても中身を守るケースだそうだ。フータで曲乗りしたって平気だ」
「それはどれくらいの大きさなんですか?」
「鞍の後ろに充分括り付けられるし、重量もスカーラル・シーには問題無いよ」車中で会議のおしまいに渡された資料に目を通し、風乗りの経験からそう判断した。「目的地はリアテリア。我々の希望は、船便や飛行機よりも早く、そこまでこの荷を運んでもらうことだ」リアテリアはフェンサリサにほど近い、山向こう最大の都市で、首都ヴァルチェリアとほぼ変わらない規模と比較して俗に西の首都とも呼ばれていた。そして、そこまで船便や飛行機よりも早くというのは、フェンサリサを越えていくことに他ならなかった。
「はい、お待たせしました」
そこへ陽がやってきて会話が途切れた。すたすたと居間に入ってきた彼女は、両手で大盆を持っている。上には湯気の立つ数々の料理や、取り皿が満載されていた。テーブルの前に両膝をつく時も、彼女のバランス保持は完璧だった。「さあさ、カラさんも遠慮なくどうぞ」
「やあ、これはごちそうですね」心からそう思った。一人暮らしが長いカラにとって、このような、素朴でも温かな手料理は本当に久しぶりのものだった。体に良さそうな香りが、食欲を刺激した。
「手は洗ったのかい」自分も盆の上の物をテーブルへ移そうと、手を伸ばしてきたファードに向かい、陽はぴしゃりと言った。
「さっきカラさんを案内したときに洗っただろう」洗面所に案内するように言いつけたのは陽なのだし、一緒に済ませてきたと思うのが当然だと思った。「子供扱いしないでくれ」
悪いとは思ったが、カラは声を立てて笑ってしまう。
「弥祐」陽は涼しい顔で振り返ったのだった。「ほら、大丈夫だよ。入っておいで」優しく言った。
ファードとカラが同時に居間の出入り口に目をやると、様子を窺うように半分だけ覗いていた弥祐の顔がびくっと引っ込み、壁越しに彼女らしい葛藤を感じさせた数瞬後、観念したように姿を現した。すでに私服に着替えていて、手には飯櫃を抱えていた。服装はいつもの気軽な部屋着と違い、場面と着ている少女当人に配慮の行き届いた、誰の目にも好ましい物だった。
「ああ、弥祐さん。お邪魔しています」カラは居住まいを正し、弥祐に向き直った。そして頭を下げる。「先日は弥祐さんのお気持ちも考えずに軽率な物言いをしてしまい、さぞご立腹だと思います。当日のこと、今日までお詫びが遅れてしまったこと、重ね重ね失礼しました。申し訳ありません」
「いえ! あのっ」飯櫃を抱えたまま、弥祐は畳にすとんと正座した。「カラさんはファードのことを心配してくださっているだけで、それは分かってたんです。でも私、ついかっとなってしまって…」膝に抱えた物のせいであまり深くは頭を下げられなかったが、精一杯気持ちを示そうとした。「私こそ、済みませんでした」
「弥祐さん」カラは静かに首を振った。「あなたは、こんなにも風乗りの傍で暮らしている方です。やはり私の不注意だったと思います」
「さ。二人とも、もう気が済んだでしょう」その間に食卓の準備をすっかり整えていた陽が、穏やかに呼びかけた。「冷めないうちに召し上がれ」
「はい。いただきます」もう一度弥祐に頭を下げてから、カラは遠慮無くそう言って食卓に向き直るが、箸は取らなかった。そそくさと自席に向かう弥祐を、ただ待っているだけではないようだった。「お食事を続けて頂きながらで、構わないのですが」改まった様子でそう切り出す。「陽さんも弥祐さんも、私の話をお聞きくださいませんか」