第12回
「そうだね」マクレガーが引いてくれた椅子に腰掛けながら、ゼンハイズは幾分口調を改めた。「じゃあ始めよう。先ず今回の事故について、最初の情報交換をしよう。それから、僕からみんなへ頼みたいことが幾つかあるんだが、その内容を全員に知っておいてもらいたいんだ」
身振りで促すゼンハイズに一礼して、危機管理部門のNo.2が口を開いた。報道に基づいたものではあっても、彼が事故のあらましを語ることでこの情報は全員に共通の認識になる。人員の派遣は、既に当局から本社に照会があったことを受けて、今後の捜査に協力を惜しまない姿勢を示すため、また、独自の情報収集に必要と判断されたために行われた。当局捜査本部の所在地が明らかにされ、社の対策本部はそこに隣接して置かれる予定とされた。物品の支援などは、その場所にほど近い社の支店、フェンサリサ東支店が行う手筈である。
ここで秘書室スタッフ数名が各役員の席を回り、新しい資料を配布した。
その新資料の参照を願いつつ、配送部門の最高責任者がゆっくりと説明し始める。問題の大型トラックに積まれていた、荷の内訳が明らかにされた。社の財産の損失額、荷主への賠償額、それら現時点で把握できる限りの、被害総額の見積もりも知らされた。
「その運転手、働かせ過ぎってことはなかったんだろうね?」
報告者の言葉が途切れた瞬間、ちょっと時間でも尋ねたような何気なさの、ゼンハイズの問い掛けだった。俄に空調の低い唸りが耳につく。人事部門の最高責任者が、僅かに身じろぎした。
「その懸念については、既に徹底調査を命じています」堂々とした態度で、人事の長は答えた。「あと2時間の内に結論が出るでしょう。しかし落ち度は無かったと、私自身は確信しています」
「うん」ゼンハイズは人事の長の痩せた顔を眺めながら、彼の顔面の陰影に球面幾何学的な解釈を試みているようだった。「膿があってもね、まあ、徹底的に出し尽くせばいいさ」独り言を言った。
人事部門の最高責任者は、すっかり白くなった頭を心持ち下げた。その仕草は始終穏やかな社長の口振りに応じ静かなものだったが、彼の頬からは、若干血の気が引いているようにも見えた。
「他に何か、伝えておきたいことがある人はいないかな?」ゼンハイズは気だるげな目付きで、会議の卓を囲んだ面々を一通り見回した。
「以上のようです」社長よりも素早く確認し、適切な間合いでマクレガーが頷いた。
その後も会議は粛々と進んだ。議論が白熱することは有りそうもなかった。それくらいゼンハイズの指示は断固としていて、他の役員より何手も先を読んだ理由により、常に裏付けされていた。もし社長との間に遣り取りが必要であっても、短い質問が幾つかあれば事足りた。
「さて、僕からのお願い事はこれで最後だ」ゼンハイズは、先程追加で配られた積荷のリストをもう一度見るよう、皆に促した。口を開きかけ、ふと戸惑い顔になる。「このはやり病のことは、みんなも知ってるんだったかな?」傍らのマクレガーに顔を寄せ、そう確認した。
「ええ。トップニュースとは言いませんが、こちらでも連日報道はされています。ですので、薬品名や現状など、前提となる話は皆さんもご存じでしょう」マクレガーは澱み無く答えた。
「さっきそう説明を受けるまで、うかつにも僕は山向こうで何が起きているか、とんと知らなかったんだ」ゼンハイズは気まずそうに肩を竦めた。「うん。非常に困ったことになった」ぼさぼさの髪を両手でかき上げた。
ゼンハイズがリストのどの項目を指して嘆息いるのかは、すぐに見当がついた。その荷については、カラも報告された最初から気になっていたのだった。それは、数週間前から山向こうの小さな町を中心に急に流行り始めた、危険な伝染病に対処するための物だった。事故車はその病を予防するワクチンと、唯一と言われる特効薬を運んでいたのである。
「困ったね、凄く」ゼンハイザーは頬杖をつき、繰り返す。
何も困ることはなく、直ぐにでも事故で灰になってしまった分の代替品を補償すればよいのである。その通りなのであるが、事情がそれを許さない所がある。先ず、件のワクチンと特効薬の製造が、山のこちら側でしか行われていないこと。それ故に、今それらを必要としている山向こうへはこちらから輸送するしかないのだが、その重要な輸送路の一つである大トンネルが、そもそもこの事故で不通になってしまった。また、このはやり病は時として死に至る、危険なものではあるのだが、発生頻度としては稀な部類で、その点が更に状況を悪くした。古い記録を基に定められた薬品備蓄量は、いざ急激に病が広がれば充分でなかったことが明らかになり、市場流通分というのもこれでは期待する方が無理で、あと数日で備蓄が底をつくとの指摘が報道されたのは、つい先日のことだった。事故車が運んでいたのはまさに焦眉の急も急、外箱など、今必要無いものは全て省いてとにかく数を揃えた、待望の補充分だったのである。
薬品は今も急ピッチで製造されている。事故で失われた分には足りなくとも、当座をしのぐ量ならそれほど時を移さずに用意されるだろう。問題なのは、それをどうやって大急ぎで運ぶかである。山向こうに一番早く行けるトンネルは塞がった。海路では、備蓄が底をついた時間を更にどれだけ山向こうの人たちに強いるのか、あまり考えたくない現実がある。
「トンネルを駄目にしただけでも大変なのに、僕らはもっと酷い非難に晒されそうになっている。ここだけの話、他の荷のことは後回しでもいい。けれどこの薬のことに手を打つのは、今すぐじゃなくちゃいけない」
社長は無理を言っているかのようである。他の役員は皆押し黙っている。カラの様子は少し違った。今、彼の脳裏には、かつて足下に眺めたフェンサリサの峰々が鮮やかに蘇っている。
「風乗りのことを思い出しているのかな?」
その言葉にはっとして目を上げると、ゼンハイズの視線とまともにぶつかった。
「申し訳ありません」重要な会議の最中に、一瞬でもそれを忘れたのは確かだった。カラは肝を冷やした。
「いや。それならば、かえって話が早くていいんだよ」
人懐こい笑みを向けられ、カラはある一つの可能性を思い付いた。そしてそれの確からしさ故に、むしろ戸惑った。
「君の昔の部下に、今でも風乗りを続けている男がいるそうだね」
それを何時、どこでお知りになったのですか。正当な驚きのはずだが、相手の尋常でない摑み所の無さを思えば、不思議がる方が愚かに感じられた。自身の思い付きが正しかったことの方に集中する。カラは気を引き締め、社長と向き合った。
「はい。社長は、その者に代替品を託そうとお考えですか」
「うん」その声は少し弾んでいるようにも聞こえる。「山向こうの人たちの不安を少しでも和らげるのに、風乗りはとてもいい薬だと思うけどね」
フェンサリサを挟んだ向こう側に速やかに荷を届けるのは、風乗りが最後まで託されていた、かつては彼らだけの使命だった。大トンネルが機能を停止した今、薬品を預かるのは確かに風乗りの仕事と言えた。しかし、事はそう単純でもないのだった。
「風乗りを利用しようとのお考え自体は、理に適ったものだと思います」カラは慎重に切り出そうとした。
「分かるよ。山の上の気流のことだろう」
「では今の時期、その気流が特に荒れていることはご存知ですか?」気を付けてはいたが、少し語気が強まったようだった。彼の大山脈上空には年間を通じ厳しい大風が吹き荒れていて、それは今もって、風乗りと渡り鳥以外に山頂を見下ろす目を許さないほどだった。以上は最早、一般常識である。しかし1年の今頃、丁度初夏を迎えてから1,2ヶ月の間のことだが、その乾いた嵐が更に猛然と勢いを増すという事実となると、こちらは気象に興味のある者や登山愛好家、風乗りなど、今でも限られた人々にしか知られていないことのようだった。
「うん。それも知ってる」
ゼンハイズは余裕のある穏やかな態度を崩さない。カラは戸惑った。指摘することはまだある、しかし重ねて良いものか。
「やあ、済まない。ちょっと意地が悪かったようだね」ゼンハイズが急に見せたのは相手を思い遣るような仕草と表情で、思い掛けない印象を与えた。「そして、如何に風乗りであっても、今の時期の山は越えられない。過去、試みは数多くあったが、未だ誰一人為し得た者はいない。そうだったね?」
「はい」カラは内心訝しんでいる。社長は風乗りにすら手に負えない、今の山の苛烈さを知っている。ならば何故、風乗りに代替品を託そうなどと考えたのか。
「結論から言うとね、確かに荷物は預けるが、その風乗りは別に、山越えに成功しなくたっていいんだよ」
そういうことか。カラは静かに息を吐いた。
「今回の事故に対して、僕たちは全力で事後に当たらなければならない」ゼンハイズはカラから視線を外すと、俄に力強く、手振りも交え滔々と語り出した。「薬品の次に出せる分は、既に船に積み込むよう手配している。これから暫くは船便が主要ルートになる訳だから、それに合わせた運送態勢全体の見直しも始めている。それだけやれば充分か? いや、まだやれることがあるだろう」ゼンハイズは続ける。言葉を浸透させていく。「船以外では飛行機が思い付く。今まで顧みられてこなかった海伝いの空路だが、場合が場合だけに開拓せざるを得ない。こちらの方も指示は出した」この社屋の何処かでは、今も関連部署が使命と交戦中で、精密な地形図の上にルートを引こうと必死になっているのだろう。
「更に僕らは、廃れたはずの風乗りの存在も知っている」ゼンハイズは、再びカラに目を遣った。「カラ君。この時期のフェンサリサが風乗りでも越えられないというのは、例外が一つも有り得ない、全くの不可能事かな?」
「いいえ」そう問われれば、こう答える外無い。
「ならば安全は充分に考慮した上で、二重遭難なんて馬鹿らしいからね、その例外にも賭けてみよう。その時初めて、僕たちは現時点で考えられる最大限の努力をした、そう胸を張れるんじゃないのかな?」
遅配が許されない物品の運搬については、HMLは既に負け戦に臨んでいる。船便では元より時間がかかりすぎ、空路もルート発見がそもそも成るのか、不確定要素が多すぎた。現時点で重要なのは、如何に少ない被害で急場を乗り切るかということである。ファードとフータは、要は社の“誠実さ”を引き立てるための、道化として引っ張り出されようとしているのだった。カラは口を開きかけ、慌てて言葉を飲み込む。彼は確かにファードとフータの友人だ。一方ではHML役員としての責任も、片時だって忘れたことがない。社の危機は、幾らかでも有利に転じて決着されねばならなかった。社長の考え自体に、誤りがある訳ではなかった。
「…私がその風乗りに、話をすれば良いのでしょうか」割り切れはしなかった。だが、それが自分に命じられることならば、引き受けねばならなかった。
「その人の名前はなんて言うの?」再びのんびりした口調に戻り、ゼンハイズが聞く。
「ファーボルグ・ファーディア。周囲からはファードと呼ばれる事が多いようです」
「じゃあ、これからすぐに出掛けて、先ずはそのファード君をここへ連れてきて」振り返り、秘書室スタッフの一人に合図した。頷いたその女性が、用紙数枚を綴じたものを手にカラに近付いてくる。「それは風乗り君と話す時に参考になりそうな資料。その他の指示は、君の朗報を聞きながら追って伝えることにしよう」
資料を受け取りつつ頷こうと目を遣ると、思い掛けず、ゼンハイズから楽しげな笑顔を向けられた。
「僕もささやかながら、君の交渉の手伝いをするよ。社の大事な時だからね」
何をするつもりなのか聞く事も出来たが、その前にゼンハイズは別の秘書に何かを耳打ちされ、マクレガーと言葉を交していた。頷くと立ち上がる。
「じゃあ、会議はこれでおしまいだ」役員一同をざっと見回す。「力を合わせてこの難局を乗り切っていこう。僕もこれから一仕事だ」
来た時よりはやや急ぎ目に、ゼンハイズは会議室を後にした。他の役員も立ち上がり、室内に再び多数の会話が満ちあふれる。中には風乗りが生き残っていたことに興味を示し、待ち兼ねた様子でカラに話しかける者もいた。広いガラスの向こうへ続く空は暮色を強め、世界は遠くの方から徐々に曖昧な光の中に溶け出し始めていた。使命を帯びた身であるのは知られている訳だから、気乗りしない会話を早々に切り上げるのは簡単だった。一礼をして、カラは足早に会議室を後にした。