第11回
ファードがバスに揺られている頃、カラは一人エレベーターに乗っていた。まるで静止したように上昇するそれは、HML本社ビルの、役員専用のエレベーターだった。これを利用できる者はさほど多くないのに、ゴンドラの大きさは一般社員用の物より余程ゆとりがあった。一人で乗るのが悪いような気がしてくる。彼は今、47階に位置する役員会議室へ向かっている最中だった。緊急の役員会議が招集されていた。
低い階から乗ったため、静止に身を委ねる時間も長かった。軽く押し付けられる感覚が来て、束の間の放心から復帰する。頭が切り替わる一瞬、自身が運動していたことを思い出す滑稽さについて、他愛ないと取るか新鮮と見るべきか、そんなことをちらと考えた。音も無く、扉が左右に開いた。
廊下が真っ直ぐに伸びている。照明の上質さからして、やはり一般のオフィスなどとは違うと改めて思った。器具が上等なだけでなく、照らされ方にも入念な配慮が感じられるのだ。けれどここは、普段から人気の無い廊下だった。カラの部下を初め、多くのスタッフたちはただ明るいだけが取り柄のような、もっと雑な光の元で一日の大部分を過ごしている。
廊下を進む。落ち着きが堆積したような真紅のじゅうたんは、一足毎に足首まで埋もれるほど毛足が長かった。雲を踏むようでかえって落ち着かず、何度歩いても慣れそうになかった。
ここを歩く時は常よりも大股になるようだ。気負っているとも、この細長い空間に馴染めないからともつかない。いつも落ち着かない気持ちを意識しそうになると、会議室の扉が見えてくるのだった。
壁に備え付けられた機器に、カードキーを通した。光は通しても視線は通さないガラスの扉が、すっと左右に開く。この本社屋で、各部署の出入りにカードキーが用いられること自体は珍しくなかった。しかし、ドアが自動という場所はそう多くなかった。
広さの点では20人前後の役員数に見合い、さほど無い会議室だ。だが、出入り口の向かいの壁面は全面がガラス張りで、見通しは周囲の同じような高層ビルに遮られる部分も多いのだが、一応空の続きにいるような気分になれた。室内中央に、その長楕円形の天板が樹齢数千年の古代スギの一枚板だという、巨大なテーブルがどっしりと据えられている。席はまだ半分も埋まっていないようだ。カラは末の自席に向かった。
椅子の一脚一脚が、一度座れば長身のカラもすっぽり包み隠してしまうような大きさだ。革張りの座面や背もたれは、体を預けると沈み込んでしまうほど柔らかい。彼が普段自分のオフィスで使っていて、一般社員にも宛てがわれている事務用の椅子の方が、ずっと座り心地が良かった。事務用といっても、作家など座業の人たちに昔から定評のある、座った人をフォローする機能に優れた椅子なのだ。
すぐに浅く腰掛け直し、各自の席に配布されていた書類を手に取る。表題を見ると、フェンサリサ大トンネルでの事故に関し最新の事実をまとめた資料で、第2版となっていた。だとすると第1版は、新聞社発行の号外に、何を裁断した余り紙かと勘違いしそうな“指示書”がクリップ留めされていた、あれのことだろうか。そのみすぼらしい紙片には、恐らくは秘書室の誰かの手なのだろうが、肉筆で「急ぎ通読し、現時点で為すべきことをせよ」との、社長の指示が書かれていた。自分のオフィスで、息急き切った秘書室スタッフからそれを手渡された時、準備不足に過ぎる“書類”に先ず驚き、直後、その正当性に言葉を失った。
営業部門に身を置く彼のその時点で為すべきことは、取引のある顧客から事実確認や苦情があった際の対応を、急ぎ取り決めることだった。各課のリーダーを集めた彼は、この事実を全スタッフに説明することを求め、現段階での受け答えのおおよその基準を話し合い、とにかく顧客に不信感を与えないように、先ず我々が落ち着き、しっかりした対応を行っていこうと確認し合ってきた。この場へやって来る直前のことである。
その第1版から第2版まで、置かれた時間は短かった。その間に付け加えるに値する、新しく知り得た事実はあったのだろうか。カラも念のため、現場に近い支店の営業責任者に問い合わせはしてみたが、やはり独自の情報は掴んでいないようだった。現時点では誰もが報道に頼る以外、術は無いように思うのだが。
第2版にざっと目を通し終わる頃、新たに入室してきた誰かが真っ直ぐこちらへ向かってくるようで、それを背中で感じた。足に力を込め、椅子を少し後ろへ下げると同時に、大きく重たい背もたれをくるりと回した。
「ごくろうさん」
そう挨拶してきたのは、営業部門最高責任者のダーナーという男だった。カラの直属の上司に当たる。カラは素早く立ち上がり、返礼した。
「何か新しいこと、掴んだかね?」性急な物言いのようだが、営業畑で多くの人々に接してきたこの人間の初老の紳士は、結局、相手に不快感を与えたりしない。柔らかな眼差しは相手に警戒心を抱かせず、いつの間にかその懐に入り込むのを手助けする。落ち着いた、それでいて良く通る声も、自然相手の心を捕まえた。
「いいえ。報道以上のことは私もまだ存じません」
「それは?」先程までカラが目を通していた資料に、ダーナーは目を遣った。
「事実関係をまとめた新しい資料だそうですが、今の時点で社はどのような手を打ったかなど、結局、報告がアップデートされているだけでした」
「そうか。まあ、信憑性も考えればね」ダーナーは頷いた。「場所が場所、事故の規模が規模だけに、やむを得ないのだろう」
「この資料によると、既に現地に人を派遣したそうですね」そこには社独自の対策本部設置や当局への協力のため、危機管理部門の最高責任者を頭に、必要な人員が先程出立したとあった。
「聞いてるよ」ダーナーはもう一度頷く。「善後策の具体的なことは、彼らが動き始めてからになるだろう」
「だとすると、この会議は具体的な案件の決定よりも、事実の共有と我々の意志統一が目的でしょうか?」
「それもあるが、喫緊の案件が無い訳でもない」ダーナーは微笑んで、「カラ君。今日の会議では、社長から君にお話があるだろう」
「私にですか?」理由が思い当たらず、意外に聞こえた。「特に新しい情報を持っていない事は、先程も申し上げた通りですが…」
「頼みごとがお有りだそうだ」そう言ってカラの肩越しに、卓の方をちらりと見た。そろそろ席も埋まりかけ、室内はそこここの会話でざわめいていた。ダーナーも席へ向かうことにする。「なに、難しいことじゃない。取り敢えず、そのつもりでいてくれればいいよ」
ダーナーの背を見送り、カラは首を傾げながら着席した。例えば今の情報量の差一つを取ってみても、役員とは言え彼は経営の最中枢にいる訳ではない。他の上級役員も今一つ身動きが取り辛そうな中で、社長は自分に一体何を命ずるのだろう。
会議室にはカラたちが入ってきた西寄りの出入り口とは別に、東寄りにも自動ドアがある。考え込んでいるとその扉が開き、二人の人物が入室してきた。場が俄に静まり返る。社長と副社長の二人だった。
先に立って歩く、少し猫背で別段どうと言うことのない体付きと顔立ちの男が、HML現社長、ゼンハイズ・ジーメンスだった。伸び放題の髪に櫛のあとは感じられず、白いシャツは清潔であっても皺だらけ、ネクタイもしていない。社長という割には若く見えるが、実際人間の男性でまだ48歳だった。就任3年目、40代で国内有数の大企業のトップまで上り詰めた切れ者ではあるが、服装を初め、何処かあらゆる物事に執着の無い風があった。
「やあ、おまたせ」ゼンハイズがおよそ緊張感の無い声で言う。「社長室を出たところで、マクレガー君にお説教されててね」
「社長がまたサンダル履きでおいでになろうとしたからです」付き従っていた副社長が、小さく溜息をついた。彼女はその姓からも察せられる通り、HMLの創業者の一人、マクレガー・フィリップに連なる者で、孫だった。「本来ならばネクタイもきちんと締めていただきたいのですよ」彼女の服装は50代という年齢、彼女の立場、どの点からも自然な、上等な仕立てのスーツだった。
「社内ならみんな身内のようなものなのにねぇ」誰へ言うのでもなく、ゼンハイズはぼやく。
「ここへ集まっていただいた方々は、どなたも一分一秒が惜しい方たちです」マクレガーは取り合わず、自分の席に向かう。「宜しくお願いします、社長」
まるで立場が逆の情けない遣り取りにも聞こえるが、マクレガーの口調や態度は至って真面目で、副社長という己の分を守っているように見えた。他の役員たちも一様に引き締まった表情を並べている。会議室の空気は、ゼンハイズの入室により変わったまま、ぴんと張り詰めていた。