第1回
男と飛行妖精が、空を渡って行く。
耳覆いの付いた古ぼけた革製の飛行帽と、風除けのゴーグルとにほぼ隠されて、男の表情は良く分からない。だが、飛行時にはきっと理想とされる鞍の上での男の姿勢、アームレストにしっかりと添えられた、良く使い込まれた革製の手袋をはめた両手、それらが彼を経験豊富な飛行家と確信させる。無駄の無い平均的な体付きに、腕の筋肉がやや豊かなようだ。姓はファーボルグ、名はファーディア。それが男の名だ。ただ、彼は記憶の最初からファードと呼ばれていたし、だから彼自身、人からはそう呼ばれるのが自然だと思っていた。
背に鞍とファードを負っている飛行妖精は、スカーラル・シーだ。首から前肢、前肢から後肢、後肢から尾の付け根へと、両体側に四角く発達した飛膜、飛行時にそれをより広げる特殊な前肢軟骨、平たいへらのような形の尻尾。殆どムササビの飛び姿である。目立つ違いは先ずその大きさで、頭から尾の付け根までが2m程度、更に尻尾も同じくらいの長さを持っていた。額から2本長く伸びた、純白のにこ毛に包まれた触角状の器官もまた特徴的だ。これらだけでなく、この飛行妖精は全身が毛足の長い、真っ白な体毛で覆われている。
スカーラル・シーは風の妖精だ。その証拠に虹彩の色が、風の精霊力に関わりのある全ての妖精に共通する、瑞々しいレモンイエローだった。目全体の形はリス科を思わせ、丸くて大きい。この風の妖精は、飛膜の下に自ら力強く風を起こし、何処までも滑空していけた。なるほど、飛行妖精であった。
このファードの相棒にも無論名前がある。フータと言うのがそれだ。風の精霊にちなんだ、ファードのようにスカーラル・シーに背を借りる連中の間では、ポピュラーな名付けだった。
見渡す限りの豊かな森である。ファードとフータは、その上を気持ちよく飛行していた。ここ数日は汗ばむくらいの陽気もあり、今日も暖かだ。樹冠の緑は、この瞬間にも濃く深くなっていくようだった。自身が落とす影も濃い。その影が迫ったり遠ざかったり忙しなく、二人は高木の上を滑っていった。
この国の首都、ヴァルチェリアの郊外を飛び立って、既に小一時間ほど飛行していた。開発が進むこと目覚ましい首都ではあるが、高層建築や、密集した住宅地域は案外早く横切れて、飛行のかなりの部分、こうして緑に輝く屋根を眺めているのだった。
ファードは先程から手元と、周りの景色を見比べていた。視線を落とす先には、鞍に備わった飛行時計やコンパス、小さな書類を挟めるクリップなどがある。クリップに挟んであるのは、小さく折り畳んだこの地域の地形図だ。コンパスも逐一チェックしているし、方角は間違っていない。目的地の小さな村は、そろそろ見えてくるはずだった。
鞍から身を乗り出すようにして下に注意していると、木々の間にようやくその細道を見付けた。先へ辿れば森が小さく開け、通過の際、一軒の民家らしき建物の屋根を認めた。この道はこの辺りの山地を越え、南部地方へと出るもので恐らく違いなく、建物は道沿いに建っていた。比較的大きいようだし、宿屋や飲食店などと思われた。
ファードは相棒の鼻先を巡らせた。道を聞くために、下りてみようと思ったのだ。
建物の前が小さな広場のようになっていて、それが上からは開けて見えたのだった。フータは飛膜の下に風を溜め、垂直に、静かに舞い降りる。踏み固められ、乾いた土から、埃が渦を巻いて舞い上がった。
「おう、おう。風乗りとは、随分久しぶりに見るのぉ」
身軽に鞍から降り立つと、ファードはそう背中に話しかけられた。飛行帽を顎の下で固定する帯に手をかけたまま、体ごと振り向くと、建物の戸口に揺り椅子を出したじいさんが、肘掛けに両手をついて身を起こし、皺に半ば埋もれた目を大きく見開いて、こちらを見ているのだった。
「こんにちは。突然、空からすみません」
飛行帽とゴーグルを取ると、日に焼けた人懐こい顔立ちが表れた。短く刈った亜麻色の髪を素早く整えつつ、老人に歩み寄る。
「ここは食事処じゃよ」
老人はゆっくりと、静かに深く息を吐きながら背もたれに体を預け、揺り椅子を小さく、その様子は多分動きの化石を見ているくらい決まり切っていて、前後させ始めた。戸口の脇の手摺りに、馬が一頭繋がれ頭を垂れている。持ち主も彼と同じ様に食事中なのかも知れないが、開け放しの戸口の奥はしんとしていた。この細道は、長く延びるとはいっても主要な街道ではない。ここだけ時の流れが遅くなっているような、そんな印象を受けた。
「もし、あんたが宿を探してるなら、もう一山越えなきゃならん」
「その宿があるのは、白葉の村ですか?」周辺に葉裏の白い樹種が多いことから、そう名付けられたという小さな村の名を、ファードは口にした。
「そうじゃよ」老人はじっくりと肯定した。「その道を行けば、じきに着くじゃろ」
「そうですか」元より念のための確認だったが、それでもほっとする。
「旅行かね?」
「いえ、そこに届け物があるんです」ファードは愛想よく苦笑した。「ついさっき、急な依頼を受けまして。それで飛び出してきたんですよ」
「ああ。そうじゃった、そうじゃった」老人は頭頂部へ手をやると、掌を吸い付けそうなそれの印象に相違して、軽やかに二、三度撫でた。「風乗りっちゅうのは、そういう連中だったな。最近、さっぱり用を頼まなくなったから、忘れとったぞい」
「ええ、まあ」この一瞬は自然な愛想のよさも消えて、表情が少し翳った。でも本当に一瞬だ。「では、行きます。お時間を頂戴してしまいました。申し訳ありません」
「ご覧の通り、暇な爺じゃて」老人は全く気付いた風もなく、少し意外なくらい芯のある笑い声を立てた。「息子夫婦がやってる店じゃがな、新鮮な山の幸を使った料理なら、何でも出すよ。良かったら、届け物の帰りに寄っていきなさい」
「ええ、是非。そろそろ昼かって時に、仕事が入りましたからね」飛行帽を被りながら、これは心からの笑顔で答えた。フータの背に跨り、我が身を鞍に安全ベルトでしっかりと固定する。ゴーグルを下げる前に、老人に目礼した。相手は右手をちょこっと挙げ、応えてくれた。
一気に舞い上がる。強い日差しに些か漂白された青空へ、再び戻った。
「聞いての通り、あと一息だ」目指す方向へ鼻先を向けさせながら話しかけると、フータは低く一声唸った。このような単純な発声しかできないようなのに、スカーラル・シーは人語(分節を持った言葉)を良く理解することが出来、余談ではあるが、これは未だに脳科学者や言語学者たちを悩ませている問題でもあった。「お前の好きなミズナラもありそうな森だな」首を巡らせ、ファードは言う。「あの店なら好物を出してくれそうだぞ。まあ、時期的にドングリは無理だろうがな」
フータがまた唸った。不満げだ。
「そうぼやくなよ。さっさと仕事を終わらせて、昼飯にありつくとしよう」
それを合図に、フータの体がぐんと速度を増した。緑濃い山陰に隠れる一瞬、純白の全身が、陽光を涼やかに反射した。
風乗り。
スカーラル・シーの背に在って空を行く者のことを、この世界ではこう呼ぶ。だからファードは風乗りだった。初めて風に乗ったのは15の時だから、キャリアの方はもう20年以上になる。フータは初飛行のその日から相棒であるけれども、付き合いそのものは、彼が風乗りとして生きてきた時間より更に数年長かった。
旧い友人の背の上に在ることは、ファードにとって何よりも心安らぐ一時だった。けれど、今は例外のようである。瞳の色に本来の明るさがない。憂鬱に翳っている。
『おう、おう。風乗りとは、随分久しぶりに見るのぉ』
白葉の村を目指しながら、思い出されるのは老人の一言だった。なんだ、いきなりご挨拶だな、そんな風に不快に感じたのではない。それどころか、老人は率直に真実を述べただけなのであって、それがファードの眉を曇らせる。
かつて風乗りは、経済、文化、あるいは軍事、要は国家の根本を担う、国からも手厚く保護された重要な職業だった。スカーラル・シーの飛行能力は優秀だ、人や荷物を負いながら経済速力(飛行妖精に適用された場合、この語は最も体力が持続する速度という意味を持つ)は実に時速150km、一日に千数百kmの距離を飛べた。新鮮な情報を、重要な物品を、陸路、海路を行くよりも遥かに速く運んでくれる風乗りは、なるほど国を問わず庇護の元に置かれ、大切にされただろう。数千km四方の広大な国土を有する当国ならば、尚更のことである。
だが時代は下り、人類は技術を発達させるようになる。最初に風乗りの存在を脅かしたのは、飛行船だった。この空を行く船は、速度では風乗りに劣るものの、一度の輸送能力では遥かに風乗りを凌駕した。
やがて飛行機が実用化される。輸送能力についてはスカーラル・シーと大差無い、現時点でも小型の単発機が主流だが、この乗り物は飛行妖精よりもずっと速く飛べた。大型化への歩みも無論止まってはいない。数は少ないが双発機はもう飛んでいるし、より多発の大型機が活躍を始めるのも、そう遠いことではないと思われた。
陸上での革命は、何といっても自動車の誕生に尽きるだろう。木炭、石炭、最近はガソリンエンジンも急速に普及し、大型の車両もどんどん使われるようになっている。勿論、鉄道も陸上輸送の主力の一つだ。蒸気やディ−ゼル、電車はまだ各国とも、電力網の整った大都市圏での近距離輸送に限られるようだが、その敷設は盛んである。一方で海上に目を転じれば、かつての帆船に代わり、大型の自走船が普通になってきていた。
物品輸送のみならず、情報伝達の面でも技術革新は相次いだ。電話やラジオ、テレビはもうどの家庭でも見慣れた、ごく有り触れたものになっている。特筆すべきはデジタルデータ専用の広域ネットワーク網で、最初一部の大学や研究機関が築いたそれが民間へ開放されるや、それまでは低調とも言えた二値情報用汎用端末の各家庭への普及が、驚くべき伸び率で進行することになった。小型化の得意なメーカーが、携帯できる端末を開発しているとの噂もある。
これらの変化は、風乗りの長い歴史と比べればごく短い間の出来事だ。しかしその短い間に、風乗りはかつての有利さを坂から転げ落ちるように失っていったのだった。特にファードが風乗りになったのは、もうその落下は近々落ち切るのがほぼ明らかだと、誰からも思われていた頃だった。国策だった風乗りの育成も、その頃までには数社の民間企業が行う、私的で小さな事業になっていた。それに伴って風乗りの数も、全盛期の数十分の一にまで落ち込んでいた。仕事も緊急の物品・人物輸送など、飛び込み的な、全体からすればごく一部に限られたものになっていた。
それでも以前は、空を少し行きさえすれば、何人かの仲間と擦れ違ったものだった。
だがこの頃は違う。ファードとフータが、空で他の風乗りを見かけることは無くなった。先程の老人が好例で、人々からも次第に忘れられつつある。
ファードとフータは、彼らが拠点とする首都ヴァルチェリアを含む、この国の東部地方と呼ばれる一帯において、風に乗る最後の一組と言われていた。国土は広く、人々は風乗りを忘れかけている。本当のところはどうか分からなかった。他の地域には案外多く残っているのかも知れない。国中探しても、ファードとフータの一組だけなのかも知れない。
今日のように空を行っても、彼らは他の風乗りに出会わない。
ただ一つ、それは明らかだった。