彼女の『仕事』は万全です。
百合華によるカウンターが決まってから1時間ほど経った、都内某所のとある室内にて。
「くそ、くそ、くそ! あのアバズレビッチ、クソ生意気なんだよ!」
一人の男が、バンバンとパソコンが置かれた机を両手で叩いていた。
おわかりかも知れないが、先程百合華によって論破された男である。
声紋の一致という彼にとっての切り札を、それ以上の情報技術によって一瞬で潰された屈辱に怒り心頭。
しかし具体的な行動に移せるでもなく、こうして机に八つ当たりするしかない様子。
普通怒りは5秒から6秒程度しかもたないと言われるが、それを1時間ももたせているのだから、悪い意味で大したものである。
だからこそ、吉祥サヤにあそこまで粘着することが出来たのだろうが。
ともあれ、彼は怒りに身を震わせている。傍から見れば滑稽な程に身勝手な理由で。
こんな終わりは許せない。何とかしてあの太刀奈百合華に、それよりも誰よりも、吉祥サヤに目に物を見せてやりたい。
彼の賛辞を受け取りながらどこか微妙な反応を見せ、最終的にはブロックという拒絶を見せた女。
そんなことは、許されずはずがないのに。
ブロックするだとかなんだとか、干渉するかどうかを決めるのは彼に権利があるはず。
そんな歪んだ認知で、彼は吉祥サヤを見ていた。いや、その前世を見ていた。
そんな彼女が、彼の許可なく引退し、表舞台から消えた。
それだけでも許しがたいのに、Vのガワを纏ってデビューした。彼の許しもなく。
言うまでもなく、これらは全て彼の身勝手な思い込みである。
けれども、思い込みが行き過ぎた彼にとっては、それが当然のこと。あくまでも、彼基準では。
だから吉祥サヤは報いを受けるべきだというのに、彼目線で最底辺の炎上女が邪魔をしてきた。
結果彼の真実は一笑に付され、馬鹿なリスナーの妄想と片付けられてしまった。
こんな理不尽が許されていいわけがない。何か次なる手を打たねば。
あくまでも自分は悪くない、周囲が悪いと身勝手に思っていたその時。
通知音が、メールの到着を知らせた。
「なんだ、こんな時間に。スパムか……?」
と、ぶつくさ言いながらメーラーを見た彼の動きが、止まった。
目を見開いたまま、徐々に荒くなっていく呼吸。
ダラダラと、冷や汗が顔中から滲みだしてくる。
差出人は『ジェーン・ドゥ』
件名は『声紋の君へ』
そして、本文内容は。
「な、なんで俺の個人情報が、こんなに書かれてるんだ!?」
悲鳴のような声を上げるのも、無理はない。
彼の住所や携帯番号、契約プロバイダ、性別、年齢、本名、本籍地、現在の勤務先などなど……。
ずらずらと箇条書き形式で、大量の個人情報が書かれていたのだから。
それはつまり、彼個人を特定したということ。
更には、彼自身すら忘れてしまっていたことまで掘り起こせるだけの情報収集能力を、相手が持っているということ。
屈辱と羞恥に震える指でスクロールして、膨大な個人情報の羅列をやっと通り過ぎて。
最後に書いてあった文言に、また動きを止める。
『人には、触れてはいけない領域がある。
ここで大人しく引けばよし。
でなければ、後は命のやり取りになると心得よ。
なお、当方に迎撃ならびに差し違える用意あり」
淡々としているようにも見える文章から滲み出る、殺意。
殺られる。
直感的に、男は確信した。
これは、そのために外堀は埋めきったという宣言。
突き付けられた情報を0チャンネルなどで公表されてしまえば、どうなってしまうことか。
……間違いなく、吉祥サヤのファンからの敵意を直接的に、下手をすれば物理的に向けられることだろう。
もちろん、本当に公表してしまえば個人情報保護法だとかに引っかかることではあるのだが。
男の思考は、そこに至らない。
他人の過去、吉祥サヤの過去をほじくり返しさらけ出そうとした男の思考は、あるべき方向へとは向かわない。
自身が持つ悪意を、他人にも当てはめていく。自分へと向けられる前提で。
そもそも大前提として、彼は、自分が安全な場所にいるという認識があった。
だから好き勝手に他人を傷つけ、貶めていた。
だがそれは、間違いだった。
彼は今、身バレした。
見知らぬ誰かに対して無防備な、いつでも殴られる立場になってしまった。
そうなれば、どうなってしまうことか。
彼は、彼の基準でしか考えられなかった。
つまりは……攻撃される。曝される。それも、ネットという全世界に広がっている場所へと。
そうなれば。
今まで彼が撒き散らしてきた悪意が全て、自分へと返ってくる。
偏執的なまでに吉祥サヤとその前世へと向けていた悪意が、それを押し付けられてきた彼女のファンからの反応として。
その人数は……数千、数万という数となることだろう。
不幸なことに、と言っていいのかどうかはわからないが……彼の頭は、そのことを理解してしまった。想像がついてしまった。
そして、想像もつかなかった。どれだけの報復が待っているか。
自身が他人へと容赦なく攻撃する人格だからこそ、いざ攻撃される側になってしまえば容赦なく攻撃されるという予測を立ててしまう。
それも、彼自身が考えつく最大限のもので。
途端、彼は背筋を凍らせた。
卑しい人格だからこそ、人として最低な攻撃が頭の中を駆け巡る。
そして、殴られることなど想像もしていなかった彼は、そのことに耐えられない。
「ひゅっ……」
小さな呼吸音を零しながら、男は座っていた椅子から転げ落ちる。
それから、浅く速い呼吸を繰り返す。
ストレスで今にも喉が塞がりそうな感覚を覚えながら、それでも必死になんとか空気をむさぼろうとするのだが。
もう終わりだ。
脳裏に刻まれた強烈なストレスが、彼の身体から自由を奪う。
そして。
極度のストレスが、限界を越えて。
男は意識を手放した。
「……ふむ。気絶したっぽい。ほっといてもいいけど、死なれでもしたら面倒だし」
乗っ取ったパソコンのマイクをこっそり起動して盗聴していたあたしは、救急車を呼んでやることにした。
気絶しただけならいいけど、うっかり喉を詰まらせてたりしたら一大事。
奴が命を落とすことが、じゃない。
もしそうなったら警察の捜査が入り、足が付く可能性があるってことが、だ。
もちろん辿れないよう念入りに手は打ってるけど、万が一ってこともあるし。
そして救急車が到着する前に、奴が見ていたメールを閉じて……削除は、しない。
救急隊員の人が開かれたままのメールを見でもしたら事件性を感じて警察に連絡する可能性もある。
しかし閉じてあれば、意識不明者をそっちのけでわざわざパソコンの中を見るようなこともないだろう。
まあ、搬入された病院で奴が色々しゃべる可能性もあるけど……今の精神状態で、自分がセクシー女優に粘着していたなんて赤っ恥なことを、リアルの人間相手に言えるとは考えにくい。
ああいう奴は、ネットの中でしか暴れられないもんだ。
仮に警察まで話を持って行ったとして、その頃には痕跡もほぼ完全に消しきれてる自信があるし。
で、家に帰ってきた時にメーラーを見れば、しっかりとメールが残っているわけだ。
夢でも幻でもない。
奴は、丸裸にされた事実を改めて思い知らされることになる。
……流石に二度目は気絶しないと思うけど。
死なない程度のトドメにはなるんじゃなかろうか。
「これにてお仕事完了、ってね」
そんな感情を込めてた吐息を、ふぅ、と零して。
それからあたしは、『撤収』を始めたのだった。
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