戦いの渦と己の葛藤
吉田山から始まった運命の糸は、斬童丸と忍葉を苛烈な追手と戦闘の道へ引きずり込んでいた。
成房の屋敷を抜けた二人が息を整える暇もなく、甲賀の追手がその影を捉える。
深い夜闇に溶け込むような黒装束の一団が現れるたび、剣戟の音が響き、血の匂いが宙に漂った。
深い山道を進む斬童丸と忍葉。山肌を覆う樹々は黒々と茂り、月明かりすら遮られていた。夜の静寂を裂くように、甲高い口笛の音が響く。
「来たぞ。甲賀の追っ手だな」と斬童丸が呟く。
「ふん、儂を甘く見るとはな」と忍葉は低く笑うが、その声にはどこか自嘲が混じっていた。
音もなく現れた追手は三人。甲賀忍の中でも選りすぐりの冷血漢たちだ。彼らはかつて忍葉と同じ任務に就いていた仲間だったが、今やその瞳には一片の情もなかった。
「忍葉、命を捨てても任務を遂行する。それが甲賀の掟だろう?」
先頭の忍が冷笑する。
「お前がそれを破った以上、儂らが始末するのが筋だ」
忍葉は肩をすくめ、平然と応じた。
「筋のために顔見知りを殺すとはのう。お前らの非情ぶりには感心するわ」
「感心している場合か!」
斬童丸が短く言い放つ。
「来るぞ!」
忍葉が懐から煙玉を取り出し、地面に叩きつける。煙が立ち込めると同時に、追手の一人がクナイを放つが、忍葉は宙に跳びその一撃をかわした。
斬童丸は刀を抜き、甲賀の一人と斬り結ぶ。鋭い斬撃が交わされる中、忍葉は背後から迫る敵の一撃を感じ取る。即座に振り返り、忍術で巻き上げた砂を敵の目に浴びせた。
「助かったぞ、忍葉!」
「気にせんでもいい!」
互いに背中を預けながら、斬童丸の剣術と忍葉の奇襲が絶妙に噛み合い、次第に敵を追い詰めていく。最後の一人が倒れる頃には、二人とも泥まみれになりながらも何とか立っていた。
「どうやら、命拾いしたようだな」と斬童丸が息を整えながら言う。
「ふん、儂を助けたからには、責任を取るんじゃぞ?」と忍葉が冗談めかして応じた。
少し時を遡る。吉田山にある神社の境内で、惨たらしい戦の爪痕が残されていた。
神主が偶然見つけた血痕と大鎌。そして、埋もれた碓井貞光の遺体が犬により掘り返されたことで、頼光四天王の一角が無惨な最期を迎えた事実が明るみに出る。
頼光、坂田金時、渡辺綱、卜部季武がその地に集ったとき、重い沈黙が流れた。
坂田金時が遺体にすがりつき、声を振り絞るように泣き叫ぶ。
「貞光の兄貴! どうしてこんな姿に……!」
綱は震える手で貞光の大鎌を握り締め、無念を滲ませた。
頼光の背中がかすかに揺れている。
「朝廷絡みかもしれぬ。しかし……俺たちが貞光を一人にしてしまった……それが悔しい」
季武が苦しげな表情を浮かべながらも静かに言う。
「貞光殿は戦に生きた。最後まで、その武を全うされたのだ。あの表情をご覧なさい、安らかなものではありませんか」
995年、吉田山にて碓井貞光、無念の死。
しかしその最期は、朝廷の権謀術数を恐れ、秘された。
斬童丸と忍葉は、激戦の連続で身体の限界を迎えつつあった。
甲賀の忍びたち――かつては忍葉の同志だった者たち――が、容赦なく命を狙ってくる。
「甲賀の恥さらしが!」
「忍葉、甲賀の名を汚すな!」
同胞だった者たちの罵声を耳にしながら、忍葉はその刃を振るう。
だが、内心には苦しみが広がっていた。彼らと同じ道を歩んできた日々。16年間を共にした仲間を、今、己の手で斬り伏せる運命にあるとは――。
平安京から延暦寺へと向かう道は遠く、二人の疲労は極限に達していた。
その夜、斬童丸が足元をさらわれた忍葉を背負い、人気のない農家に身を隠す。
「……儂をおぶるとはな。お主は本当に分からぬ奴だ」
その背中に体を預けた忍葉は、苦笑を浮かべる。
家の中では、斬童丸が治療道具を広げ、忍葉の傷を手当てしていた。
背をはだけさせると、忍葉の身体には無数の古傷が刻まれている。
「さらしを巻いていたおかげで、骨までは届いていない。だが、これ以上無理をしてはならん」
「大したことではない」と気丈に振る舞う忍葉だが、傷を縫う針の痛みを隠せない。
斬童丸は話の端々に忍葉の戦士としての覚悟を感じつつ、自らの内なる葛藤を口にし始めた。
「俺は、人を斬るのが恐ろしくなった」
忍葉が振り向き、彼の表情を捉えた。斬童丸は震え、涙をこぼしている。
「碓井貞光の孤独な最期を見てから、命を奪うたびに、斬った相手を考えてしまう……俺は復讐に生きる愚かな男だ」
忍葉が少し黙り、ふっと息を吐く。
「儂ら甲賀の者に帰る場所などない。それは確かだ。だが、故郷を持つ者の無念まで、儂らが知らぬわけではない」
斬童丸の涙を拭うように、その声にはわずかな優しさがあった。
「問おう、斬童丸。これからお主はどうする? 朝廷に恨みを抱きながらも、この道を諦めるのか?」
その言葉に、斬童丸は静かに答えた。
「俺は――もう一度、自分の道を探す。その先に、何が待っていようとも」
忍葉の瞳に、一瞬の驚きと僅かな希望が宿る。