第3章 初陣、歯車式強化外骨格
「これより、滅魔暦11793年度、春の花冠トーナメント1部、開会式を執り行う! 出場者、入場!」
魔法の拡声器なのか、まだ閉じている鋼鉄の扉の向こうからでもはっきり聞こえるほどの、大声が響いてきた。ケイ・ボルガは、〈エントーマβ〉の首元に開いている小さなのぞき窓から、前に立っている機体の鋼の背中を見つめていた。この開閉式の狭いのぞき穴は、機体頭部のペリスコープが壊れて視界を失ったときのための、非常用だ。ケイが頭にかぶっているペリスコープの反射鏡は、ハーフミラーになっていて、かぶったままでもガラス越しに外界を見ることができる。
(さて、やっとで開会式か。これに出れば、僕の役目は終わりだ)
シオンが自分を実戦に出すつもりなのではないかというケイの危惧は杞憂に終わり、代役の魔剣士はあっさりと見つかった。シオンの友人の紹介で契約したその魔剣士は、慣れない機体での出場を断り、自前の機体に搭乗する、と言ってきた。これで、白く塗られた方の〈エントーマβ〉は必要なくなったのだが、機体のセッティングはケイに合わせたままで、開会式だけはそのまま彼が行進することになった。これは、開会式くらいは自国の新型機が2機そろっていた方が見栄えがいい、という理由だった。
(『戦列の香気』かあ……ひどい臭いだなあ、気分が悪くなりそうだ)
汗と機械油と鉄錆が混じり合った戦列機の臭いが、ケイたちの機体が待機している暗い通路を満たしている。その窒息しそうな臭いを、魔剣士や整備士たちは皆、「戦列の香気」と呼んでいた。それは、軍馬に乗った騎士たちの時代に戦場に漂っていた血や馬糞の臭いとは隔絶した、新しい時代の臭気だった。
鋼鉄の分厚い扉が、重りを使った機械仕掛けでゆっくりと開いた。新鮮な空気とともに、昼前の日差しがまぶしく差し込む。前の方から順番に、居並んだ鋼の巨人たちが歩み始めた。ケイも、シオンの青い機体と肩を並べて、慎重に足を踏み出す。ここ数日、戦列機を操縦する練習をして、歩かせるくらいのことには慣れたものの、まだ自信はなかった。
(オートバランサーがあるとはいうものの……最初は、歩かせるのさえ大変だったもんなあ)
機体の股間に内蔵されている「機軸ジャイロ」が作動する、間欠的な唸り音が、ケイの足元から響いてくる。機械式制御のオートバランサーは、機体が転びそうになると、倒れるのと反対側のばねが硬くなる、という感じで動作した。最初はその動きに戸惑ってしまい、少し歩いては硬直して立ち止まる、といったみっともないありさまだった。だが、そのうち「バランサーによる硬直が始まる少し手前ぎりぎりの角度を保って歩かせる」感覚をつかんで、今では小走りくらいはできるようになっていた。
ケイはハッチの内側についているレバーを引き、のぞき窓を閉じた。操縦席の中が暗くなり、頭にかぶっているペリスコープに、外界の様子が鮮明に映る。この方が、視界も広く、二つのレンズで両眼立体視ができる。戦列機が自分の身体になったような感覚で、自然に機体を操れるのだ。視界の上部には、黒い枠に囲まれて、後方視認用ペリスコープの視野が投影されている。その小さな枠の中には、ケイたちの後ろを歩いている、アンドリューの鎧の姿が映し出されていた。
(生身で見てると巨体だけど、戦列機と比べると、やっぱり小さいなあ……いくら巨人族でも、アンドリューさん、生身で戦列機と戦って、大丈夫なんだろうか?)
ケイはそう思ったが、実のところ、あの緑色の板金鎧の中身が本当に巨人族なのかどうか、確信があるわけではなかった。ただ、伝説の「地獄の騎士」だと思っているわけでもなかった。彼は毎日、テアロマ姫心づくしの料理を、大量に平らげていたからだ。
(メシを食うってことは、あの鎧の中身が生身の生き物であることは、間違いないんだが……)
ケイはそう思いながら、前の機体に合わせて機体を一歩一歩歩かせ、闘技場の入場門をくぐった。フィールドの地面に足を踏み出す。観客で満員の観客席が、ペリスコープの視野いっぱいに広がっていた。フィールドから見ると、観客席は高くそびえていて、闘士たちが逃げられないように取り囲む壁のようだ。機体の頭部にある伝声管から、外の歓声がよく聞こえた。まだ開会式だというのに、興奮して殺気立っているような、不穏な響きだった。
(こ、こいつら、僕たちが死ぬところを見物しに来たのか?)
ついそんなことを考えてしまい、ケイは下腹が冷えるような、いやな感覚に身をよじった。小さなサドルの上の尻の位置を直しながら、自分が厚さ10センチの、焼入れされた硬い鋼鉄の箱の中にいるのだ、と考えて、落ち着こうとした。
ガン、と、機体の右肩辺りで音がした。ケイがペリスコープのヘルメットを動かすと、精密感のある歯車の駆動音とともに機体の頭部が作動し、横にいるシオンの機体が視野に入る。青い〈エントーマβ〉が、手を伸ばしてケイの機体に触れていた。
ケイは驚いた。分厚い鋼の装甲を通して、自分の精神の動揺が彼女に伝わったとでもいうのだろうか?
「ちゃんと歩け。右手と右足が同時に出とるぞ」
「す、すいません……」
行進はすぐに終わり、トーナメントに出場する戦列機は、フィールドに大ざっぱな隊列で並んだ。ケイは、その数十機もの色とりどりの機体を見て、感心するというよりも呆れていた。
(すごいな。同じ形の機体が一つもない……中身のエンドスケルトンは共通してることが多いとは聞いてるけど、装甲の形も、武器も千差万別だ)
自らの装甲強度やエンジン出力を誇るかのように立ち並ぶ戦列機たちは、その大きさも形もさまざまだった。ケイの〈エントーマβ〉のように、鎧を着込んだ人間のようなシルエットの機体が一番多い。しかし中には、四角い箱から手足が生えているような重装甲型や、人間のように動作する脚部がなく、巨大なサスペンションと複数の大型タイヤが下半身を形成しているタイプもある。ペリスコープ式の「頭部」がなく、ガラス窓から直接外を視認するタイプの機体もあり、鉄の窓枠の中に、緊張した面持ちの魔剣士の顔が見えていた。
居並ぶ機体の中には、手に持つ武器だけでなく、肩や股間に何か角のような突起や、複雑な仕掛けの弩らしい装置を取り付けているものもあった。どの機体も、ケイの乗っている〈エントーマβ〉よりも大きく、重装甲に見える。やはり、この機体は、どちらかといえば軽量級になるようだ。
(何だか、どの機体も〈エントーマβ〉より強そうに見えるなあ……この闘技場で、最新型の戦列機のテストをしているのは、イクスファウナだけじゃないそうだが)
ケイは、食堂でコロネットから聞いた話を思い出した。今やどの国でも、戦列機が軍備の要となっているが、機体の数をそろえるとなると金がかかり過ぎ、どの国も貴重な戦列機を失うことを恐れている。その結果、本格的な戦争をするのをためらうようになり、代わりに闘技場でのトーナメントを利用して、軍事的な示威行動や政治的な駆け引きをするようになってきている。それが現在の国際情勢だ、ということだった。
自分よりも弱そうなのがいないかとケイがきょろきょろしていると、戦列機の形成する鋼の戦列の陰に隠れて、馬に乗った生身の騎士もいるのに気付いた。彼らも、トーナメントの参加者らしい。
(あれで、戦列機と戦えるんだろうか? 剣の一振りで馬ごと真っ二つになりそうだけど……)
開会式は、思っていたよりもあっさりと終わった。このヴェルデンの支配者らしい貴族が演説し、トーナメントの開催を宣言しただけだ。しかし、その後、紋章官の制服を身に付けた審判が二人進み出て、出場者と機体の名前を一人ずつ呼び出し始めた。呼ばれた機体は一機ずつ前へ出て、搭乗者が機体から飛び降りては、審判のところに駆け寄っていく。そして、何かを審判の前から取って、それを観客に見せるように高く掲げた。
(あれは……『コスタ・ゾロディア』のカード!)
ケイは、自分の頭にかぶっているペリスコープに付いている、幾つもの操作レバーの一つを押し下げた。カシャンという軽い音とともに、視界が望遠レンズに切り替わる。この望遠鏡モードでは両眼立体視はできないが、視界に映る目盛りを参考にして、相手との距離を測ることができた。「戦列機が目盛り二つ分の大きさに見えるから、距離は500メートルくらい」といった測距のやり方だ。
呼ばれた出場者たちは、一枚ずつ「コスタ・ゾロディア」の黒いカードを引き、出た絵柄を審判が大声で読み上げている。もう一人の審判は、演説台の上に帳簿を広げて、その絵柄を記録しているようだった。
「師匠、あれは何をしてるんですか?」
ケイは、居並ぶ機体のエンジン音に負けないように、大声でシオンに尋ねた。指揮官用の機体には魔法の拡声器やラッパが付けられることもあるらしいが、この機体には装備されていない。
「ああ、あれは『ゾロの恩寵』というルールでな。引いたカードの絵柄に応じて、試合の条件を一度だけ変更できる権利が与えられるのじゃ。例えば、相手チームから一人だけ指名して一対一で対戦できる、などといったところじゃな」
「なるほど……そうなると、カードの権利の使いどころが難しそうですねえ」
機体の頭部に内蔵された望遠鏡でよく見ると、審判は、古そうな本を参照しながら帳簿を付けている。この本に、カードの絵柄と与えられる権利の対応が書かれているらしい。
(ゲームをする時と違って、対戦相手がいない状態でカードを引くと、最初のドローでも「荒れ野の姫君」は出ないんだよな。占いモードってやつだ)
やがて、ケイたちのチームも名前を呼ばれた。
「イクスファウナ王国近衛戦列騎士団! 代表、シオン・ベル! 搭乗機は〈エントーマβ〉!」
(誰一人として、正式の近衛騎士じゃないんだが……いいんだろうか?)
ケイは一瞬、カードゲーマー心理で、シオンがカードを引くのが最適な戦略なのだろうか、と思ったが、彼女の青い機体はすぐに前へ進み出ていってしまった。まるで少女がスキップでもしているかのような軽快なフットワークで、ケイの機体とは、駆動音すら違って聞こえる。軽いジャンプから一瞬で足先を変形させ、シオンの機体は拍車滑走モードに移り、その卓越した運動性能を誇るかのような走行で、紋章官の元へ駆け寄った。
(同じ機体のはずなのに、操る乗り手によって、ここまで違うものなんだなあ……)
まあ、運気の大きい師匠が引く方がいいに決まってるか、とケイは思い直した。
しかし、カードを引いたシオンは、すぐに渋い顔に変わった。
「カード名、『双頭の巨槌竜』! 権利は、モンスター枠2倍!」
(あのカードは、ゲームで使うにはレアカードで強力なんだけど……ダメなのか?)
シオンの青い機体が、とぼとぼと歩いてケイたちのところへ戻ってきた。ハッチは開いたままで、操縦席のシオンが目に見えて落胆しているのがはっきり分かる。
「すまん……これは役立たずのカードじゃ」
シオンの言葉に、アンドリューが確認するように尋ねた。
「モンスター枠2倍というのは、要するに、通常のルールでは人間2人、モンスター1匹の組み合わせしか認められないところを、人間1人、モンスター2匹にできる、ということかね?」
「そのとおりじゃ。我々にとっては、意味のない権利ということじゃな」
シオンは重苦しい表情でそう答えたが、アンドリューはその言葉を聞いて、何かを考えているような気配だった。また、兜ののぞき穴から、青い炎のようなちらつく光が漏れている。ケイはその光を見ながら、相手がカードの権利を使ってきたらどう対処すればいいんだろう、と考えていた。
(まあ、開会式は終わったし、これで僕の仕事は完了ってことか。後は、師匠が見つけた代理の魔剣士が、しっかり戦ってくれればいいが……とにかく後は、食事や洗濯とか、みんなの世話をちゃんとやって、トーナメントが終わるまで姫さまを手伝おう)
ケイはそう思いながら、ふと自分の手を眺めるような感覚で、自機の鋼の手のひらを見つめていた。複雑に組み合わさった金属部品の指が、真昼の陽光にぎらぎらと輝いている。
(この鋼の手の力があれば、自分の大切な人を、守ることができるんだろうか?)
彼は〈エントーマβ〉の腕を動かしながら、また、田舎から買われてきたばかりの少女たちの、涙に濡れた顔を思い出していた。
「だいじょうぶですよっ! 全部卵焼きにしますから!」
テアロマの甲高い、しかし音楽的な響きのあるやさしい声が、宿舎の練習場に響いた。ケイはため息をつきながら、〈エントーマβ〉の巨大な手の、その指先を眺めた。鋼鉄製の指が、卵の白身に濡れてねばねばとしている。練習場の地面に持ち出した木の作業台の上には、今拾い上げそこねて割ってしまった卵と、朝生みたての卵がたくさん入ったバスケット、それに、割り入れた黄身が幾つか入ったガラスのボウルが置かれていた。
「うーん、難しいなあ……しかし、これって意味があるんでしょうか?」
「姉さまが練習しろと言うからには、意味があるのでは?」
ケイが今割ってしまった卵を拾い、中身をボウルに割り入れながらテアロマが答えた。ケイは機体の開いたハッチから、よく晴れた春の空を見上げた。午前中の早い時間からこれを始めて、もう昼が近い。
(戦列機の手で、鶏卵を割らずに拾い上げろって言われてもなあ……そもそも、こういうことをするための機械じゃないんじゃないか? 鋼の馬鹿でかい剣や斧や鎚矛で、ゴンゴン殴り合うための手だと思うんだが)
開会式が終わり、シオンたちの初戦の日程も決まった。代理の魔剣士が見つかったために、ケイの乗る白い〈エントーマβ〉は出番がなくなったのだが、彼も一応、出場者として補欠登録されていた。シオンは「万が一、何かあったときのためじゃ」と言って、ケイに戦列機を動かす訓練を続けるように命じたのだ。
「戦列機の手で、落ちた卵を割らずに拾い上げられるようになれ! こういう機械の訓練といえば、卵を拾うものと相場が決まっておる!」
「そのアホな相場は、いったい誰が決めたんですか?」
ケイの質問には答えず、シオンはニヤリと笑ってみせた。
「これができたら、いいことをさせてやろう」
(いいことって、師匠みたいな美人の女性がそういうことを言うと、性的な意味に聞こえるんだが……それに気付かないのは、やっぱりお姫さまだよなあ)
そんなことを思いながら、闘技場の事務局に何かの用事で出かけていくシオンの背中を見送り、それからずっと、戦列機の巨大な腕を操って小さな卵をつまみ上げるのに挑戦し続けているのだった。〈エントーマβ〉の指のサイズからすれば、ニワトリの卵も、豆粒をつまむのと変わらない大きさになる。ボタンが幾つも付いた複雑な操縦桿を握りしめるケイの手は、じっとりと汗ばんで、疲れてこわばってきていた。
テアロマが神妙な表情で、次の卵を、作業台の上の畳んだ手拭いの上に立てて置いた。朝食の片付けを一緒に済ませてから、彼女はずっとケイの挑戦を見守って、卵のバスケットのそばに立っていた。
「さあ、どうぞ!」
ケイはいいかげんうんざりしてきていたが、テアロマの声に押されて、再び操縦桿を握った。開いたハッチから、自機の右腕の動きを直接見つめつつ、慎重に操縦桿を動かしていく。胴体内のトランスミッションの回転、右腕内部の駆動系やばねの軋みなどが、複雑な音と振動で操縦桿に伝わり、ケイの右手に響いた。ミリ単位で操縦桿を押していくと、機体の右腕は、ちょうどその倍の距離を動くようだ。
白い卵の手前まで、鋼の指が移動した。そこからは腕自体の操縦系は動かさないように注意し、操縦桿に付いている指操作用のボタンにじわじわと圧力を掛けながら、機体の指先の動きに目を凝らす。銀色の指には、内側にすべり止めのゴムが付いていた。その灰色のゴムの部分が卵に触れるように、慎重に操作する。機体の指先が卵の表面に触れるのを、ケイはじっと見つめた。
「あっ、しまった!」
くしゃ、という音がした。鋼の太い指先は、白い卵の殻に食い込み、穴を開けてしまっていた。
(ダメだ……指が触れるぎりぎりまで、目を凝らして慎重に動かしても、そこから卵をつまもうとすると、指が動き過ぎてつぶしてしまう!)
「だいじょうぶですよっ! えーとえーと、チーズオムレツ作ってあげるからっ!」
割れた卵をまたボウルに回収しながら、テアロマが卵料理のレシピを提案して励ました。その表情は真剣そのもので、この卵拾いに成功することが何かの栄光や勝利につながっていると、信じて疑わない顔をしていた。
(そんな目で見つめられてると、サボるタイミングがなくなるんですが……)
自分が試合に出るわけではない。テアロマの瞳がそばにあるから、こんな意味があるのかどうか分からない訓練を続けているのだ。その自覚だけは、ケイにもあった。だが、その自分の心理や衝動を、冷静に分析できる自信は、もはや彼にはなかった。あの雨の夜、テアロマが店に現れたときから、心がずっと波打ちざわついていて、凡人の愛する平穏は、はるかに遠くなっていた。
さらに日は高くなり、バスケットの中の鶏卵も、残りわずかになった。テアロマの提案する卵料理のレシピが尽きたとき、ケイの気力もまた尽き果てた。
「えーとえーとえーと、ゆ、ゆでたまごっ!」
「殻のない卵をゆでるのは、ポーチドエッグというのではないか?」
いつの間にか機体のそばに立っていたアンドリューが、鎧の中から響く美声でツッコミを入れた。
「むー、そうだけど……。と、とにかく、これは火を入れなきゃ、生みたてのたまごさんに申し訳ない!」
テアロマは、黄色い卵黄でいっぱいのボウルを抱え、よたよたと宿舎のキッチンを目指して歩いていく。そのエプロン姿を見送りながら、ケイはまたため息をついた。
(全然ダメだ……右腕のトランスミッションだけギヤチェンジしてみたりしたけど、余計に動かしにくくなっただけだ。僕、才能ないのかなあ……)
ケイが、凡人には必要ないはずの才能の欠如を嘆きつつ、ふと機体のそばを見ると、鎧姿のアンドリューがすぐ近くに立っていた。そして、右手に持った晒しの手拭いをケイに向かって差し出して、ただ無言でたたずんでいる。
「あ、ありがとうござ……」
「というわけで、これは目隠しだが」
(汗を拭けってことじゃなかったのか!)
ケイは、アンドリューの言葉に呆れた。
「目隠しって、見ないで機体を操縦しろってことですか!? 目で見てやっても、失敗続きなのに!」
アンドリューは、手拭いを差し出したままの姿勢で、鋼の彫像のように動かず立っていた。
「逆だ。君は、目で見て機体を動かしているから、失敗するのだ」
ケイは、アンドリューの提案の意味がつかめず、ただその兜の、金属のマスクに隠された顔をうかがった。また、兜に開けられたのぞき穴から、青い炎のようなゆらめく光がちらちらと漏れている。
「君は今、機体のエンジンや駆動系から発生する、さまざまなノイズに翻弄されて、機体の挙動を身体で感じ取ることができないでいるのだ。だが、それは、目で見るのではなく、手足の感覚でつかむ必要がある。そうしなければ、自分の肉体のように機体を操って戦うことは不可能だ」
「それは……そうかもしれませんが……」
アンドリューは一歩前に進み出ると、ケイの手に目隠しを手渡した。
「目を閉じて、機体の動きを、操縦桿に伝わってくる手応えを感じ取るのだ。それは、機体のエンジンや駆動系が発生する雑多なノイズの中から、君自身の感覚で抽出する必要があるはずだ。そう、渓流に住む魚が、激しい水の流れの中でも、天敵の接近を水圧の変化で感じ取るように」
ケイは、手の中の白い手拭いを見つめた。アンドリューの言うことは、理屈としては分かる、と思ったが、実践できるとはとても思えない。だが、そのいつもと変わらない冷静な口調には、不思議な説得力があった。ケイは、この分厚い板金鎧の内部に、何か、自分よりも複雑で優れた知性の存在を感じていた。
(まあ、ダメ元で、やってみるか)
ケイは、テアロマが最後に立てていった台上の卵を見つめてから、目隠しをした。手探りで右腕の操縦桿をつかむ。そして、今朝から何度もやってきたように、卵に向かって機体の右腕を伸ばしていった。
(この音は……右腕への駆動力を供給する、トランスミッション内のフライホイールの振動……駆動力の分だけ、負荷がかかって回転数が少し落ちていく……肩のダンパーが少し軋んで、クラッチが切れて肩甲骨に当たるギヤボックスごと前にすべったか……肘がこの角度になる辺りから、上腕内部のばねが利き始めて、少しだけ操縦桿の抵抗が増える……)
目が見えない分、操縦桿に伝わってくる駆動系の動作にだけ、全ての神経を集中した。朝から何度も同じ動作を反復していて、機体の挙動が少しはイメージできるようになっていた。
(大体この辺に……卵があるはずだ)
そのとき、右手に握った操縦桿の、人差し指を動かすボタンにだけ、かすかな振動を感じた。それは、今まで感じていた、機体の歯車やカムの動き、板ばねの軋みなどとは、明らかに違う感覚だった。
(! これか? これが、そうなのか!? そうか、ごくわずかだけど、機体にかかる外力が、逆に操縦桿にまで伝わっているんだ!)
人差し指のボタンを、ほんのわずかだけ押して、もう一度その手応えを確かめる。そして今度は、親指のボタンを慎重に動かしていった。親指側にもかすかな感覚が生じたところで、卵の丸い外形をイメージしながら、手指を動かすボタンをそれにフィットさせるように調節する。そして、ほんのわずかにだけ力を加え、手首を持ち上げた。
「やった! やりましたよ! アンドリューさん!」
目隠しをかなぐり捨てて、ケイは機体の右腕を見た。鋼鉄の太い指が、白い卵を、人差し指と親指でつまみ上げている。その殻には、ひび一つ入っていなかった。
「ふふ、やりおったのう、この不肖の弟子めが。もう少し時間がかかるかと思っていたが……」
気が付くと、用事から帰ってきたシオンが、機体の右腕の前に立っていた。機体の指がつまみ上げた卵をのぞき込んで、楽しそうに笑っている。
「アンドリューさんのおかげですよ。彼のアドバイスなしでは、僕にはこの微妙な感覚に気付く才能はなかった」
アンドリューは、まるでケイの成功を誇りとするかのように、巨大な角状の兜飾りを振り立てた。
「君が朝からずっと、熱心に練習していたから、機体の挙動を把握できたのだ。実に、熱心だった。うむ、まさに、情熱の! 情熱の為せる成果と言えよう!」
そう言いながら、アンドリューは、ケイの成功を知って練習場へ駆け寄ってきたテアロマの方を見た。ケイは、朝からずっと、二人で練習しているのを観察されていたのだと、今さら気付いた。
「卵拾えたんですか! すごい、ノゾキさん!」
テアロマの明るい声が、練習場の上空まで抜けるかのように響く。ケイは慎重に操縦桿を押して、姫君の小さな手の中へ、機械の手で拾った卵をそっと渡した。テアロマは、騎士が一命を賭して入手してきた宝玉を受け取るかのように、大切そうにそれを手のひらに納めた。
「よしよし、後はジルバを踊れるようになるだけじゃな」
「ジルバって何ですか?」
意味不明なことを言う師匠へのケイの質問には答えず、シオンは整備場の方を親指で示した。
「では約束どおり、いいことをさせてやろう。武器を持ってみよ」
「えっ、いいんですか!?」
戦列機に乗れるようになった後も、事故の危険があるから武器を手に持つな、と厳しく言われていたのだ。
「構わん。今、自分の身体でつかんだ感覚を信じて、好きな武器を試してみるがいい」
ケイは、自分の肉体が高揚するのを感じた。せっかく戦列機に乗る機会を得たのだから、一度はその力を試してみたい、とは思っていたのだ。
ケイは、練習場の土の地面を踏みしめて、小走りで機体を走らせた。今までと違って、脚部の操縦ペダルに地面の反発が伝わってきているのが、かすかではあるがはっきりと感じられる。その一歩一歩を、体得したばかりの新しい感覚で確かめながら歩いた。
整備場に戻ると、青いつなぎ姿のコロネットが手招きしていた。どうやら、練習場でのやり取りを聞いて、武器を準備してくれていたらしい。
「武器を振るう練習をするんだね。どれにする? いろいろあるよ」
コロネットが微笑みながら指さす整備場の一角には、長い木箱に入った、戦列機用の巨大な武器が並んでいた。
真っすぐな刀身の、銀色に磨き上げられた片手剣は、小さめのものでも、大人の男の身長を超える刃渡り。
シオンの「風花姫」のように、優美な曲線を描く反りを持つ、長い両手剣。
恐ろしくばかでかい刃を持つ戦闘用の斧には、ドラゴンの絵が彫り込まれている。
戦列機の機体そのものと同じくらいの重量があるのではと思うほど、大質量のハンマーは、黒ずんだ地金のざらつきがそのままの、馬鹿でかい鋳造品だ。
ケイは鋼の質量に圧倒されながら、大量に準備されているそれらの武装を眺めた。剣や槍の類は、同じ形のものが複数ある。これはおそらく、戦闘で剣が折れたりすることを想定しているのだろう。中には何に使うのか、戦列機の腕を拘束できるほどの、大きく丈夫そうな手錠まであった。
「きみきみ、ちょっとちょっと、私のおすすめはこれだね。高速切削型の武装だよ! ラウンドソー・ソード!」
コロネットが自信満々で指さす先を見ると、巨大な丸鋸が鋼のアームの先端に付いた奇妙な武器が、油で汚れた布の上に置かれている。丸鋸の軸には駆動用のチェーンが懸かっていて、機体からの動力供給で回転させて攻撃する武器らしかった。
(そういえば、手のひらにはPTOが付いてるんだっけ……)
ケイは、機体の右手を少し上げて、その手のひらを見た。鉄の手の真ん中には丸い穴が開いていて、そこに武器の持ち手に付いている駆動軸を差し込むと、機体からの力で武器のギミックを駆動できるのだ。
「いや、そんな難しそうなものは、とても使えませんよ! 普通の剣でいいです」
機体の外へそう叫んでから、ケイは手近なところの片手剣から、あまり長くないサイズのものを選んだ。とはいえ、それでも刀身の長さは人間の身長くらいある。刃は鋼の色だが、よく見ると、刃先には魔石の細片が高度な技術で埋め込まれていて、赤や青、緑などのさまざまな色の、透明なあめ細工のような質感を見せていた。
(これでいいか……僕自身が、短めの剣しか使ったことがないんだから)
ケイは、右手の操縦桿を操作し、選んだ剣に向かって、〈エントーマβ〉の鋼の腕を伸ばした。そして、操縦桿のグリップに並んだ、指を操作するボタンを握りしめる。ガチン、という音とともに、ケイの右手に伝わる、確かな手応えがあった。そのまま、機体の手に剣を握らせ、ゆっくりと持ち上げた。操縦桿に、剣の重みが伝わっているのが、はっきりと感じられる。
よく見ると、剣の刃先の魔石が光を放ち始め、緑や青の美しい蛍光色に光る、一筋のラインを成していた。これは、エンジン内のケイの魔剣と共振することによる発光だったが、ただ光っているだけで、これでエッジの切断力が上がるというわけではない、ということだった。
(よし、行くぞ!)
ケイは、整備場から練習場の地面に戻った。ハッチを閉じると、機体頭部のレンズからケイの眼に、外界の視野が送られてくる。練習場の向こうには、武器の試し斬りをするために、一抱えもある太い丸太が置かれていた。丸太までの間には土の地面が開けていて、その距離感が、ペリスコープの視野でも明瞭に分かった。
右の操縦桿だけを、大きく動かしてみる。巨大な質量を持った右腕が、しかし狂いもぶれもなく、正確に、剣を握ったままで動くのが、機体のフレームから伝わってきた。
ケイはフットペダルを踏み込み、戦列機の強力な脚部に地面を蹴らせた。魔石エンジンの数百馬力が駆動系を伝わり、歯車の振動が、鮮烈に腰骨に響く。そのパワーが、自分の脚の筋力のように感じられた。地面の柔らかさも、それを蹴ったときの反動も、全てが明瞭に肉体に伝わり、機体の挙動をケイに感じ取らせる。まるで、自分の肉体が倍の大きさに拡大し、戦列機の装甲と一体になっているような気がした。
一歩、また一歩、目標までの距離を詰め、轟音を響かせて、大質量の鋼の肉体が疾走していく。その前進のすさまじい加速度が、ケイの肉体の芯を貫く。すぐに、ペリスコープの視野いっぱいに、太い杉の木の丸太が迫った。
「この機体は! この鋼の力は! 僕だ!」
ケイは感じるままにそう叫びつつ、右手の操縦桿を繰り出した。彼の背中で、右腕を駆動する複雑な歯車機構が、機械音のハーモニーを歌い上げる。肩と上腕部に内蔵された巨大なばねが解放され、引き絞った弓のように撥ねる。高回転域に達する鋼の腕の速度! それに、自分の右腕の筋力を乗せていった。
硬い革鞭で打たれたかのような鋭い衝撃が彼の右手に伝わり、視界に白い木片が飛び散った。〈エントーマβ〉の右手の剣は、ただの一撃で、雄牛の胴体ほどもある硬い木材を真っ二つにし、粉々の木片にまで粉砕していた。
「はーい、今日のおかずは卵焼きですよー」
筋骨隆々とした整備士たちは、飯に合うと号泣しながら大皿いっぱいのふわふわの黄色い塊に箸を突き入れ、丼飯を猛然とかき込んでいる。
メインディッシュが卵焼きになってしまった原因を作ったケイは、気恥ずかしい思いで、馬鹿でかい卵焼きの端っこをすくい取った。だしが効いた卵の生地は、卵の風味を最大に引き出しながらも濃い目の味付けで、確かにご飯に合う。一緒に出されたおかずは、青海苔のてんぷらで、こちらは強めの塩味だ。甘い卵焼きと交互に箸をつけていると、白飯がいくらでも喉を通る。疲れた肉体が、栄養を求めていた。食べたものが、端から血肉になっていくような気がした。
「お味はどう?」
手を伸ばして、キャベツのマヨネーズ炒めの皿をテーブルの中央に置きながら、テアロマがケイの顔をのぞき込んだ。エプロンドレスの青い布地に包まれた豊かな胸が揺れ、ケイの視野に入る。慌てて視線をそらしながら、ケイはもごもごと答えた。
「ご飯に合いますねえ……卵焼きがこんなにうまいのは、初めてです」
「今日はとってもがんばったから、お腹がすきましたねー」
まるで幼児をあやすような口調で、テアロマはケイに微笑みかけた。その甘い声の響きに、ケイは肩甲骨の辺りがむずむずするのを感じた。ふとテーブルの向かいを見ると、コロネットがとがった耳をぴくぴくさせながら、彼の表情を読んでにやにやしている。
「な、何ですか?」
「いやー、別にいー」
テアロマは食堂の中を見回しては、楽しそうにうなずき、整備士たちの食べっぷりに目を細めている。
(この人、自分が食べるのも好きだけど、それ以上に、他人が自分の料理を食べてるのがうれしいんだなあ……)
そう思いながら、ケイは丼を持ったままで、テアロマの横顔の、白く柔らかそうな肌に見惚れていた。姫君が少し身体をよじると、スカイブルーの布地に包まれた、その大きな胸が重みのある揺れ方をし、ちょうどケイの目の前に来る。慌てて、丼で顔を隠した。
(あれだけノゾキ犯呼ばわりだったのに、無防備だよなあ。僕の視線に気付いてないのか、それとも、見られてると意識してるのか、どっちなんだ……まあ、腹裂きの刑や火あぶりの刑に値するおっぱいだもんな、記憶にしっかりと刻み付けておこう……)
姫君でも、やっぱり、女の身体なのだ、と思った。しかしそれは、決して許されない、禁じられた言葉だった。
「ノゾキさんは、お米はよく召し上がるのですか?」
すっとケイの顔に視線を戻し、テアロマが尋ねた。
「はい、子供のころにいた村ではパンか蕎麦粉の粥でしたけど、フォトランに来てからは、米の飯にも慣れました」
フォトラン近郊ではあまり稲作は行われていないが、近くのイクスファウナ産の品質のいい米は、大量に輸入され、消費されていた。
「それにしても、この卵焼きはほんとにおいしいですねえ」
ケイがそう言うと、テアロマは神妙な顔つきで手を合わせ、祈るように答えた。
「料理の修業は、卵に始まり卵に終わると申します。私の生涯の研究テーマの一つなのです。パラディーソの大図書館には、『卵百珍』という、古代の卵料理の研究書が所蔵されているとのこと。入学の暁には、その貴重なレシピを研究するのが、私の夢なのです」
「へえー、古代人の料理本ですか……それは入学がますます楽しみですねえ」
ケイがそう言うと、テアロマはにっこりと微笑んだが、また少し、考えているような、不安げな表情をした。ケイが言葉を続けようとしたとき、テアロマが、あ、そうだ、と声を上げた。
「試合に出る代理の魔剣士の方ですが、明日、ここに来てもらって、一緒にお食事をしていただこうと思っているのです。試合当日までに顔合わせくらいはしておこう、と姉さまがおっしゃるので」
「そうですか……いよいよ、トーナメントが始まるんですね」
「はい! ノゾキさんにも、本当にお世話になりました。開会式まで、手伝っていただいてありがとうございました」
テアロマは丁寧に礼を言いながら、ぺこりと頭を下げた。その小さな黒髪の頭を見て、ケイは、やはりお姫さまらしくない人だ、と思った。しかし同時に、この小さな身体で守旧派貴族の妨害工作を乗り越え、ここまで漕ぎ着けたその意志の強さに、心底からの敬意を感じていた。
(これこそが、『一国の姫君』なんだな……人の心を捉えて離さない、力ある、誰もが知る一つの、鮮烈な、物語……)
「さがさないでください」
宿舎の寝室のベッドの上に置かれた書き置きには、それだけが記されていた。
「お、おのれあの裏切り者め!」
書き置きがくしゃくしゃになるほど握りしめたままで、シオンは真っ青な顔で少しよろめいたが、すぐにその顔は怒りで真っ赤に染まった。その顔のまま自室に飛び込んで魔剣を押し取り、それを背負う間もなく、闘技場に通じる通路へ駆け込んでいく。
(これは、多分、やられたな……あの代理の魔剣士は、最初からこうするつもりだったんだ)
ケイは師匠の背中を見送りながら、寝起きのはっきりしない頭の中で、そう考えた。
この寝室には、昨日、試合前に一緒に夕食を取った、代理の魔剣士が泊まったはずだった。あまり戦士らしくない柔和な感じの、その中年の魔剣士は、テアロマ姫や整備士にあいさつしに、この宿舎に昨晩やって来た。姫手作りの料理を賞賛しながら軽く一杯やって、皆と親睦を深めた後、この部屋で今日の初戦に備えて睡眠を取ったはずだった。
しかし、翌朝になると彼は姿を消していて、この書き置きの一言だけが残されていたのだ。
(あの人は、闘技場の事務局にいる、師匠の友人の紹介だって言ってたけど……おそらく、反女王派の貴族たちの手が回っていたんだ。代理の魔剣士が見つかれば、もうそれ以上探す必要はなくなる。そして、試合当日に消えれば、代わりを探す時間の余裕はない)
怒りに燃えて飛び出していったシオンは、しかし1時間もたたないうちに、肩を落としてとぼとぼと帰ってきた。
簡単な朝食の後、整備場に皆で集まって聞いた内容は、だいたいケイの予想していたとおりだった。
「どうやら、一人娘を人質に取られて、脅されていたようじゃ。機体を持ち逃げするように指示されていたらしいが、自分の機体に乗るからと言って〈エントーマβ〉を断ったのは、さすがに気が引けたのかもしれぬな……」
シオンは一人うなずきながら、逃亡した中年魔剣士にすっかり同情しているようだった。こういう善良さはさすがお姫さまだよなあ、などと呆れながらも、しかしケイは、次に来るシオンの言葉を待ち、戦慄していた。
試合当日の朝なのだ。もはや、代わりの搭乗者を探している余裕も、機体のセッティングを変更する時間もない。補欠登録しているケイが出場を迫られるのは、分かりきったことだった。目の前で片膝をついて座っている白い方の〈エントーマβ〉も、彼の魔剣や身体に合わせたセッティングのままだ。
(僕は、本当にバカだ……最初から、何もかも異常事態だったのに、それから意識をそらして、見ない振りをしてただけだ! こんなの、あり得ない……これが、『ゾロの呪い』の、真の発現なんじゃないのか?)
胸ポケットに入れっぱなしだった呪いのレアカード「夜」の存在を、ケイはここ数日、完全に忘れていた。戦列機の操縦訓練で精一杯だったから、というより、自分が得た巨大な力に酔って、浮かれてしまっていたのだ。
それが、彼の、今の自分に対する客観的な、そして遅過ぎる認識だった。
コロネットや整備士長とぼそぼそ話し込んでいたシオンが、ケイの方に向き直った。
(ほら来た! 師匠のことだから、また正義とか義務とか道理とかの話で、僕に自分の力を試せとか、物語の主人公みたいなことを言い出すに決まってるよ!)
ケイはそんな予測を、心の中でつぶやいた。そうすることで、不安でつぶされそうな精神を支えようとしたのだ。
だが、シオンの言葉は、その予測とは全く異なるものだった。
「魔剣士ケイ・ボルガよ。代理として、この試合にだけは、出場してくれぬか。今回だけ、ただ試合場に立って、相手の1機を牽制してくれるだけでよい。2対3で残りの1機に背後から襲われては、さすがに勝利はおぼつかぬのじゃ。出てくれるならば、妹である私から女王陛下に願って、必ず相当な額の報酬をいただけるように取り計らおう! どうか、頼む!」
(え……)
ケイは思わず、自分の剣の師匠の顔をまじまじと見つめた。シオンの美しい眉の下には、この危機を打開しようとする、必死の表情だけがあった。今、彼女は、ケイに対して、師匠として人の道や正義などを語ろうなどとは、一つも思っていなかった。
(何だよ……最初から、金の話だけですか……まるで僕が、金目当てでしか動かないみたいな言い方じゃないですか……)
ケイは師匠の言葉に、悲しいような、くやしいような、不可解な気持ちになった。しかし同時に、今までの自分の言動や行動からすれば、この事態に対して「ケイ・ボルガという男は義によって動く」などとは誰も思わないだろう、と考え、その結論に、情けないほどに自分で納得してしまった。
(情けないなあ……まさに、これだよ! 『僕は主人公じゃない』だ! 物語の主人公じゃない、凡人だっていうのは、こういうことだ! 他人から信頼を受ける資格なんてないってことさ!)
ケイは、急に心の底が冷えた。何か大切なものが自分の肉体から切り離され、どこかへ落ちてなくなったような気がした。
そして、その冷えた心は、自分の命の安全だ、とにかく逃げよう、とだけ、考えた。
(これはやばい、完全に異常事態だ。カードの呪いの力は本当なんだ! 逃げなきゃダメだ! 勘違いするなよ、ケイ・ボルガ。姫さまや整備士たちの努力を無にするのは気の毒だけど、でも、僕には関係ない。この人たちは、一国の運命を背負って命懸けで努力できるような人間だけど、僕は違う。お姫さまとかの人生と、僕の人生は、ずっと交わることはないんだ)
そのとき、シオンとケイの表情を変わりばんこにうかがっていたテアロマが、思い詰めた様子で口を開こうとしているのが、ケイの視界に映った。その柔らかそうな唇が、ゆっくりと言葉の最初の一音を形作ろうとしているのを見たとき、ケイの身体にあの硬直がよみがえった。全身の筋肉が、骨が、腱が、鋼のように固くなって、それを聞くことを拒絶した。
その言葉は、その言葉だけは、この小さな姫君の口から聞きたくなかった。シオンが言ったのと同じような、ケイ・ボルガという人間に何も期待しないと断言するような、そんな言葉だけは。
「……分かりました、出ます!」
テアロマは目を丸くして、出かけた言葉をんがぐぐっと音を立てて呑み込んだ。ケイは、彼女がどんな言葉を発しようとしていたのかを考えないように、そして、自分の恐るべき愚行を客観視してしまわないように、さらに声を張って言葉を重ねた。
「僕が代わりに出場します! 補欠で登録されてるんだから、出場の義務があるんでしょう? 出ますよ、立ってるくらいのことなら、できます!」
シオンは、一度、確かに何かを語ろうとした。しかし、開きかけた口をまた閉じ、そしてただじっと、弟子の顔を見つめた。それから、頼む、とだけ言った。
アンドリューは、兜から青い光を漏らしながら、ケイや他の人々の言葉をじっと聞いているように見える。シオンがこの巨人騎士に短い言葉をかけると、兜の上の角飾りが、うなずくように、少しだけ傾いた。
整備士たちは、誰にも指示されることなく皆一斉に立ち上がり、機体のチェック作業を始めている。彼らの誰一人として、ケイが出場を断ったり逃げたりするなどとは、最初から思っていなかったようだった。
テアロマは、胸の前で両手を合わせ、何かに祈るような姿勢で、ただケイの顔を見つめている。しかしケイは、姫君の顔はなるべく見ないようにして、「自分の機体」を、白く塗られた巨大な鋼の肉体を見上げた。〈エントーマβ〉の端正な顔立ちは、決意を秘めているようにも、闘志に燃えているようにも見える。
だが、その輝く鋼の顔には、不安や恐怖は、微塵もなかった。
その少年は、闘技場の「晒し台」に並ぶ囲いの中で、自分の戦列機の前に立っていた。
賭ける魔剣士を値踏みしに来た観客たちは、肉屋に吊るされた枝肉を吟味するような目で、彼の肉体を無遠慮に眺めている。年のころは15歳前後だろうか。短く刈り込んだ金髪をバンダナで縛り、不安に満ちた青い眼で、観客の顔ではなく、ただ虚空を見つめていた。
ケイ・ボルガは、白く塗られた〈エントーマβ〉の油臭い操縦席の中で息を潜め、ハッチを閉めて機体のペリスコープで周囲を眺めていた。賭けの対象をぎらついた目で見つめる観客の視線に耐え切れず、機体の中に逃げ込んだのだ。だが、隣の囲いにいるその少年は、ケイと同じくらいの年だというのに、観客の前に堂々と立って、胸を張っていた。
(確か、僕と同じで、こいつも初陣だって書いてあったな)
試合前の魔剣士には、この囲いの中で待機し、賭け札を買う観客たちに自分を展示する義務がある。とはいえ、水を飲んだりトイレに行ったりするのはもちろん自由だし、機体の最終調整で整備士と打ち合わせをしたりもするので、抜け出すのはいくらでもできた。ケイは、こっそり機体から離れて、賭け札の売り場の様子や、予想屋たちの評判を偵察してきたのだ。
(師匠はさすが、定評のある凄腕美人魔剣士だけど、イクスファウナの新型の能力は未知数、後の二人はデータなし、ってだけだった。僕が正真正銘のど素人だってばれてないだけでも、不幸中の幸いだよ)
ケイは機体の頭部を動かして、隣のシオン機を見た。つやのあるスカイブルーに塗られた機体の顔には、羽飾りのようなデザインの白いマスクが付いている。これはただの飾りというわけではなく、魔法による幻覚などの精神攻撃から乗り手を守るための、魔導装備だった。もっとも、闘技場では呪術の使用は禁じられているので、ここでは気分の問題でしかない。彼女の機体の装備は、「風花姫」と同じような形の、反りのある長い両手剣だった。鞘はなく、抜き身の刀をそのまま機体の手に持たせている。
その向こうで石のベンチに腰掛けているアンドリューは、自前の大きな剣と、鋼鉄製の小さめの盾を持っていた。剣のデザインはシンプルそのもので、分厚い鉄板を切り出しただけに見える。彼はいつもと同じ様子で、自分を値踏みしている観客を、逆に観察しているようだった。
「イクスファウナ王国近衛戦列騎士団! 代表、シオン・ベル! グリフォンの門より出場されたし!」
古風な衣装を身に付けた、闘技場の係官の呼び出しが聞こえた。自機の後ろで駆動系をチェックしていたらしいシオンが、ケイの視界に入ってきた。ケイが頭からペリスコープを外して胸部ハッチを開けると、彼女は腰に手を当てて、ケイの機体を見上げた。
「よいか、とにかく盾と剣を使って、身を守りながら移動していればよい。この〈エントーマβ〉の特徴は、操縦性の良さと関節の柔軟さにある。その柔軟さとフットワークを活かせば、敵の攻撃をまともに受けずに立ち回れるはずじゃ。後は、敵をなるべく私たちに近づけないように位置取りしてくれれば、それだけで十分じゃ」
シオンはそれだけ言うと、ケイの顔をじっと見つめた。
「よく出場を決意してくれたのう。とはいえ、もはや私が語るのはおこがましい」
ケイは、シオンの言葉に首をかしげた。
「なぜですか?」
シオンは、長い黒髪を指先でいじりながら、微笑んでいるような、戸惑っているような、どちらともつかない表情を浮かべた。そして、目を伏せながら、少しだけ笑った。
「ふ、男の決意に対して、他人の値踏みなど必要あるまい」
そう言うと、シオンは踵を返して、目の覚めるような美しい一挙動で青い機体に駆け上がった。
ケイもハッチを閉じ、クラッチをつないで、既に起動していた魔石エンジンのパワーを機体の四肢に伝達する。機体の全身に数百馬力の駆動力がみなぎり、歯車とばねの巨大な集合体に生命が宿った。ケイは上半身に力を込め、肩パッドの操縦系を押すようにして、機体を少し前屈させた。そしてその姿勢から、〈エントーマβ〉を一気に立ち上がらせる。闘技場の「晒し台」の天井に、轟、と駆動音が反響した。
その音に、隣の囲いで虚空を見つめていた魔剣士の少年が、初めてケイの方を振り向いた。ペリスコープのケイの視界に、彼の青い瞳が映る。
その目が、お前も征くのか、と言っていた。
(ああ、僕も征くよ)
そう心の中でつぶやき、ケイはペダルを踏み込んだ。彼の女性のように細い肉体に満ちた不安と恐怖は、一歩、また一歩、鋼のペダルを踏み込むごとにつぶされ、エンジンと駆動系の振動の中にまぎれていった。
闘技場に出てみると、対戦相手の機体は、3機とも先にフィールドに並んでいた。シオンの青い機体の少し後ろで、ケイは機体の歩みを止めた。後から来たアンドリューの、二又の角飾りが視野に入る。彼は、鉄板を何枚も重ねたような分厚く武骨な剣を、緑色の装甲で盛り上がった巨大な肩に担いでいた。とはいえ、やはりその甲冑姿は、戦列機に比べるとずいぶん小さい。
「アンドリューさん、調子はどうですか?」
機体の首元ののぞき窓を開けて、ケイは大声で叫んだ。アンドリューは、カブトムシの角のように二股に分かれた兜の飾りを、誇らしげに振り立てて答えた。
「問題ない。君たち人間の作ったあの機械人形――戦列機とは、何度も戦ったことがある」
(そうか、この人は、敵の戦列機の追撃を振り切って、姫さまをフォトランまで連れてきたんだったな……生身でそれだけのことをやってのけるなんて、とんでもない凄腕だ)
天気は快晴で、雲一つない青空からの陽光が、戦列機の装甲に反射して輝いている。城壁のようにそびえ立つ観客席は、ほぼ満員だった。歓声がフィールドを囲む石壁に反響して、耳を圧迫するようだ。その殺気立ったノイズは、お前の血を欲している、とケイには聞こえた。観客席に満ちているのは、破壊と殺傷を結末とする物語を求め、流血を志向する欲望だ。
(闘技場というのは、本当に狂った、恐ろしい場所だな……。こいつらが、初戦の相手か……若手の魔剣士だけど有望株っていううわさらしいが……)
予想屋のパンフレットや賭け札売り場の黒板から得てきた情報では、彼らの対戦成績は、新人としてはいい方、ということらしかった。機体についてもあれこれ書いてあったものの、知識のないケイには、有利不利の判断はできるわけもない。
(えーと、確か右から、『空前絶後のコイル』、『堅忍不抜のフリード』、『前人未到のマイトガン』だったか)
意味のよく分からない二つ名を持つ彼らは、機体のハッチを開け、観客に向かって腕を振り上げ応えている。鍛え上げられた筋肉が、搭乗服の上からでも見て取れた。ケイはその筋肉に劣等感を覚えたが、ペリスコープの視界に映る自機の装甲を見て、すぐに思い直した。
(臆するな……僕の肉体は、今から戦闘する身体は、この〈エントーマβ〉だ!)
ケイは、自機の装備をチェックした。右手には短めの片手剣、左腕には小さめの盾、予備として腰に短剣、という選択だったが、これは結局、慣れている武器が一番、と思ったからに過ぎない。敵機の装甲や武装にどう対処するか、といった細かいことは、考える余裕はなかったのだ。
(まあいいさ……面積は小さめだけど、その代わり鋼板の分厚い盾を選んだしな)
普通の人間用の盾は木製だが、これは全てが鋼で作られていた。まるで古代の竜退治の英雄が、竜の炎の息を防ぐために作らせたという、特別製の盾のように。それにはもちろん貴族の紋章は描かれておらず、黒く塗られた表面があるだけだ。本来この機体に乗るはずだった魔剣士の紋章は、盾の表面の薄い鉄板に描かれていたのだが、その部品だけを急遽外して装備したのだ。
(僕は、家紋を持たない身分の、盾に紋章を描けない『黒騎士』ってわけか……)
ケイはそう考えながら、相手の機体を眺めた。それは相手も同じらしく、盾や機体には、こけおどしの装飾はごてごてとあるものの、正式の紋章らしいものは描かれていない。彼らもまた、貴族ではない、平民出身なのだろう。
(『英雄の時代』か……)
突然、ラッパの音が響いた。以前に試合を見物したときと同様に、美しいドレスを着た女性が、審判の塔の上で宝剣を抜き放つ。
「最高神アイシェルの名において、この試合を祝福する! 風と、水と、地の恵みの一かけらをもって、この試合に神の恩寵と、戦士に相応しき栄光を授けたまえ! 双方、神の御目に恥じぬだけの勇気を、このささやかなる地面の上にて示されんことを!」
その祝福が終わると、美しい刺繍の旗が塔の上で振られた。審判の一人が、大きな砂時計をひっくり返すのが見える。
そして、試合開始の特別なラッパの音が、3回鳴った。
「戦士たちよ、行くぞ!」
シオンの鋭い声が、伝声管から響いた。ケイは、血が昇って顔と頭が熱くなるのを感じた。フィールドの上に、鋼の装甲がぶつかり合う轟音と、駆動系の機械音が複雑に交錯する。事前の打ち合わせどおりに、ケイは目の前の黒い機体に向かって勢いよく突進した。だが、斬りかかることはせず、直前でステップして、相手の横へ回り込む。相手も、ケイの方にレンズの視線をぴたりと合わせ、慎重に腰を落とし、軽い駆動音とともに武器を構えた。
(僕の相手は『前人未到』か……これでいい……師匠とアンドリューさんの背後を狙わせなければ、それで十分なんだ)
相手の「前人未到のマイトガン」は、〈エスポイド系〉とかいう中型のエンドスケルトンを持つ、標準的な出力の、広く普及している機体だということだった。特に最新鋭ではないが、汎用性が高く扱いやすい名機だという評判らしい。武装は、ケイのと同じく片手剣と盾で、つや消しの黒に塗られた装甲には、白い髑髏の形をした飾りがあちこちに付けられている。頭部のマスクも、鉄板を磨いて作った、牙のある髑髏の形だった。その虚ろな眼窩の中で、ペリスコープの赤いレンズが発光して、ケイを凝視していた。
(観客席で見てたら、こけおどしだって笑い飛ばせるんだろうけど、実際に向かい合うとなると、こういう飾りも恐ろしく見えるものだ……)
以前に闘技場で観戦した試合と異なり、ケイたちが参加するこのトーナメントは、3対3で戦う団体戦だった。6機が同時に戦うのだが、誰か1機が倒れた時点で数の均衡が崩れ、一気に勝負が決する傾向にある。基本としては、3人それぞれが自分の相手と戦えばよいのだが、「拍車滑走」などを使ってダッシュで自分の相手を振り切り、他の仲間と戦っている敵方の背中を奇襲する、などという戦法もあるので、常に相手を足止めすることを考えて戦う必要があった。
(とにかく、師匠とアンドリューさんの背中を狙わせないように位置取りしつつ、倒されないように1秒でも長く粘る! もし相手が脚を変形させて拍車滑走しようとしたら、その状態では不安定で強い攻撃はできないから、飛び付いてでも相手の出足を止めればいい、それだけだ)
事前にシオンから指示された作戦を頭の中で反芻し、ケイは〈エントーマβ〉の腕に剣と盾を構えさせた。それから、その作戦に、自分なりのアレンジを加えてみることにした。
「よし来いよ! この機体を見ろ! イクスファウナの女王陛下が作らせた、新機軸の最新型だぞ! 今、あの国が大変なことになってるってうわさは、あんたも聞いてるだろ? あの騒動は、まさにこの新型を導入するかどうかって対立が原因なんだぜ?」
ケイは機体の伝声管を使って、エンジン音に負けないように大声で機外へ向かって叫んだ。すると、相手の漆黒の機体の、顔面の髑髏から、くぐもった男の声が返ってきた。思ったよりもずっと若々しい声だ。
「ほう、そいつが例の、女王陛下の近衛軍専用に開発されたって奴か……その割には軽量型だな」
(しめた……こいつは、好奇心のある奴だ。こっちの話に食いついてきたよ)
ケイは、相手の様子にほくそ笑んだ。機体の恐ろしげな装飾とは違って、乗り手は他人の話を聞くタイプらしい。
「そうさ! でもなあ、この機体の本当のすごさは――」
さらに相手の興味を引きそうな話題を舌の上に乗せようとしたその瞬間、鼓膜が破れそうなほどの鋭い轟音が、フィールドに響き渡った。
分厚い鉄板を幾つも重ねて石の上に落としたような金属音の方を見ると、シオンの青い機体が、両手で持った長い曲刀を、真っすぐ天へ振り上げていた。鋭い斬撃に「空前絶後のコイル」の装甲が弾け飛び、紫色の金属片が回転しながら空中へ舞い上がっている。しかし致命傷ではないらしく、敵機は素早く拍車滑走モードに変形すると、タイヤから土ぼこりを上げて旋回し、シオン機の背後に弧を描いて回り込もうとした。
シオン機も、軽くその場でジャンプしたかと思うと、やはり脚部を変形させ、足の部分を車輪に置き換えた。車輪が回転する反動で機体が後ろに転倒しそうになるのを前傾姿勢でこらえ、そのまま地面すれすれになるほど機体を前のめりにして、猛然と高速走行に入った。その青い疾風が通り過ぎると、今度はアンドリューの緑色の鎧が、太陽の光にぎらぎらと輝きながら疾走するのが目に入る。
ケイの目の前の黒い髑髏は、その激しい攻防を横目で眺めていたが、すぐにこちらに向き直った。敵機の頭部から、かしゃんという軽い音が響く。どうやら、耳の伝声管のシャッターを閉じたらしい。
(こっちの話を聞く気をなくした!)
ケイは、会話で相手の注意を引き、時間稼ぎをする作戦を諦めた。1分でも、30秒でも稼げればいいと思っていたが、これではさすがにどうしようもない。
「前人未到のマイトガン」の機体から、耳を圧するエンジン音が響いた。その運動エネルギーを乗せて、右手の剣を袈裟懸けに繰り出してくる。肩口を狙ったらしい一撃目は、何とか盾で受け止めた。大質量の鉄塊同士がぶつかり合うその音は、ケイが今まで聞いたことのない、腹にずっしりと応える重い衝撃だった。機体の脚部にまでその斬撃の波が伝わり、足が地面にめり込むのが分かる。
(重い! 硬い! 〈エントーマβ〉の駆動系が、力負けしているのか!?)
続く連撃をしのぐたびに、機体の駆動系が衝撃に負け、柔軟にしなるように感じた。盾と剣で頭部を囲うように守りながら、ケイは足さばきだけで少しずつ回り込み、軽くステップして間合いを外し、相手の太刀筋から機体の軸をずらすように立ち回った。何とか、駆動系にダメージが及ぶのは避けられたようだ。歯車の駆動音も軽快で、異常はない。〈エントーマβ〉は、まだケイの身体の動きに、忠実に、正確に追従している。
この野郎、と、黒い機体から聞こえたような気がした。業を煮やしたか、「前人未到のマイトガン」は、今までよりも大きく武器を振りかぶり、強力な一撃を準備しようとしている。その一瞬、ケイは、懐に入れる、と感じた。この数年間シオンから習ってきた、彼の肉体に定着した剣術の技が、相手の一瞬の隙を見逃さなかった。
(この馬鹿でかい機械の身体で、同じことができるのか?)
そう思ったときにはもう遅く、身体が勝手に反応してしまっていた。ケイの身体の動きが操縦装置の精密機械を圧迫し、それに追従して駆動系が高速で動作する金属音が、甲高くキ、イイイ、イーンと彼の背骨に響く。
そして、ペリスコープの視野いっぱいに、金属の髑髏が迫っていた。
(は、入れた!?)
〈エントーマβ〉は、ケイの反射的な動きに見事に追従し、武器を振り上げた敵機の懐に素早く飛び込んでいた。が、その動きが速過ぎたため、ケイは戸惑ってしまい、攻撃する機会を逃してしまった。しかしそれは相手も同じのようで、黒い髑髏の機体は、ケイの動きに対処できず、棒立ちになっている。
(だ、ダメだ、下がらせちゃダメだ!)
ケイはとっさに、機体の左手で、剣を持っている相手の右手首をつかんだ。攻撃させず、相手を離れさせず、時間稼ぎをするだけなら、この体勢でいい、と思ったのだ。
「新型め、何て速さだ……この野郎、離せよ!」
またシャッターを開いたのか、今度は、伝声管からはっきり聞こえた。「前人未到のマイトガン」の機体から、ごうーっという、これまでとは音色の違う大きな駆動音が響く。そして敵機は、〈エントーマβ〉の左腕に機体の全重量をかけ、振りほどくのではなく、押しつぶそうとし始めた。どうやら、振りほどく動作で防御に隙ができるのを避けたいらしい。
(うわああ! つ、つぶされる! 僕の身体が!)
敵機の渾身の駆動力に、〈エントーマβ〉の左腕は、完全に圧倒されていた、機体の腕が圧迫され、折れ曲がるのに合わせて、ケイがつかんでいる操縦桿も同じ角度に押し戻されていく。そしてその圧迫は、彼の生身の腕や肩に負荷をかけ、操縦装置が皮膚に食い込み始めた。自分の肉体を直接つぶされるという恐怖が、彼の内臓を萎縮させ、気力を削り取っていく。左腕トランスミッションの回転計の針が激しく動き、負荷警告灯が黄色く光る。
(し、シフトチェンジ! この音、このパワー! 相手はギヤを変えてるんだ!)
相手の駆動音の変化がギヤチェンジを示していることにようやく気付き、ケイは自機にも同じことをさせようとした。
まず、左手の指を操るグリップから手を離し、そのすぐ前に突き出しているサブグリップに手を移した。サブグリップには機体の指を操作するボタンはないが、腕部の「関節ブレーキ」を操作するための、金属製の大きなレバーが付いているのだ。そのレバーを握りしめると、左腕のクラッチが切れて駆動系の歯車から切り離され、同時に各関節のディスクブレーキが作動して、腕がそのままのポーズで強固に固定された。それから、サドルの前、ケイの股間から突き出しているトランスミッション操作系の、左腕ミッションのレバーをひねってギヤ比を変える。最後に、またサブグリップに手を戻して、関節ブレーキを解除した。
(左腕ギヤチェンジ完了! これで出力特性が変わって、動きは鈍くなるが、力は倍増するはずだ!)
ケイの左肩後ろにあるギヤボックスから響く駆動音が、重みのある低音に変化した。再びクラッチがつながった機体の左腕に、今までにないほどのパワーがみなぎる。そのまま、敵機の右腕をひねり上げると、じわじわと押し戻していけるのが分かった。
「ちっ、細身の癖にパワーがある……これでも、食らえ!」
「前人未到のマイトガン」は、左腕に装備した盾で、ケイの機体を殴り付け始めた。盾の先端部はとがっていて、分厚い金具で補強されている打突攻撃用のものだ。右手の剣で攻撃をさばこうとしたが、分厚い鋼の盾は重く、一撃一撃がまさに、鉄槌だった。
機体の頭部を攻撃がかすめる。それだけで、ケイがかぶっているペリスコープに衝撃が伝わり、頭を揺さぶった。ペリスコープはばね機構で保持されていて、機体の頭部に加わる衝撃を直接受けない仕組みになっているはずなのに、ケイの脳は痛烈に揺さぶられた。吐き気がし、口の中にいやな味がしてきた。気力と体力が、足の裏から下に流れ落ちて、どんどん体内からなくなっていくように感じる。
(くそっ、耐えるんだ! あと少し、師匠とアンドリューさんのどちらか一方が、相手を倒すまでは! そこまでは、粘れ!)
敵機の繰り出す打撃は、盾が大きく重い分、大振りだった。相手が左腕を引いた瞬間を狙って、肩関節の隙間に見える駆動系の歯車へ切っ先を向け、突きを繰り出す。剣は手前の装甲に当たって弾かれたが、相手はたじろいだようだった。そこで身を寄せ、つかんでいる相手の右腕を引き上げて、敵の攻撃態勢を崩した。機体の胸部同士が接触し、機体内部に恐ろしいほどの轟音が響く。ヘルメットが耳を守っているはずなのに、難聴になりそうだ、と思った。
ギヤチェンジで力を出している左腕の回転計の針が、かなり下がってきた。ミッションの警告ランプが、一瞬赤く瞬く。トランスミッション内のフライホイールに蓄積された運動エネルギーが残り少ないことを示す「息切れ」と呼ばれる状態だ。
(〈エントーマβ〉って、本当に最新型なのか? 相手の方がパワーもあるし、駆動系の手応えもごつく硬く感じる。まるで、女性の身体で、鍛えられた男と戦っているような感じだ)
ケイは、自機のパワー不足を骨身に沁みて感じた。このままでは、いずれフライホイールが完全に「息切れ」して、駆動力を失うのは明白だ。搭乗服の革製の装具に包まれた全身が、冷や汗に濡れて重い。ケイはあせりながら、それでも足に蹴りを入れ、敵機の体勢を崩し、重い攻撃を耐え続けていた。
突然、こんこん、と、軽い金属音が響いた。
ケイはその音が、自機ではなく相手の機体からしたことに気付いた。目を上げて見ると、「前人未到のマイトガン」の背後に、シオンの青い〈エントーマβ〉と、緑色の鎧のアンドリューが、並んで立っていた。シオン機は、手にした剣で、「前人未到」の首筋をこんこんと叩いていた。それから、無言で、自分の背後を指差す。
そこには、「空前絶後のコイル」と「堅忍不抜のフリード」が、地に倒れ伏していた。機体の部品が地面に散らばり、潤滑油に火花が引火したのか、しゅうしゅうという音とともに白い煙を上げている。
「前人未到のマイトガン」は、歯車の音を立てて機体の首を回し、その悲惨な光景を見た。
そのまま、髑髏の機体はしばらく沈黙した。
そして、突然ばたんと音を立てて機体のハッチが開き、中から若い男が立ち上がって両手を挙げた。
「降伏します!」
ケイは、全身の力が抜けるのを感じた。握り締めていた敵機の手首を離し、少しよろめいた、と思ったが、〈エントーマβ〉の機体は、揺るがずしっかりと立っていた。
「よくやったのう。よくぞ、耐え抜いてくれた!」
青い〈エントーマβ〉の胸部ハッチが開き、シオンが笑顔を見せた。ケイはその顔を見てから、やっと、もう倒れてもいいのだ、と思った。
闘技場の鉄臭を含む空気を通して、ようやく、勝者への歓声が聞こえてきた。
(生き延びた……)
初陣の日の夜、ケイ・ボルガは、後片付けも終わって誰もいなくなった食堂で、一人テーブルに突っ伏していた。
初戦の打撃は、鋼の装甲を通じて、ケイの精神と体力を削り切っていた。姫の手作りの夕食もろくに喉を通らなかったが、奇妙な熱気のようなものがまだ肉体に残っていて、すぐにはベッドに入る気にもなれなかったのだ。
(戦列機に乗る前は、『乗っただけで無敵の巨人になれる魔法の鎧』なんだと思ってたけど……まるで違った! 暴れまわる巨人の胸にくくりつけられて、奥歯がガタガタいうまで揺さぶられてるだけだ。戦列機のパワーは、普通に動いているだけでも、乗り手の肉体を破壊し得るレベルなんだ)
こんなとんでもない物を動かして戦争をしている連中が大勢いる、というのは、ケイの想像を完全に超えている世界の話だった。だが、人間の方が、機械の回転数に合わせなくてはならない。それが、この時代の流儀なのだと、闘技場で見た全てのことが教えていた。
(歯車式強化外骨格に乗れば、誰でも一騎当千の英雄になれる、たった一人で数千の軍勢を虐殺することもできる、って話は、店に勤めているころに何度も聞かされたけど、あれは本当だったんだな。確かに、この機械の腕の力なら、鎧を着た屈強な大男が相手でも、一撃でぐしゃぐしゃのひき肉だ……それも、さほどの抵抗も疲労も感じないで、何人でも始末できるだろう)
懐には、ずっしりとした感触があった。試合の後、事務局に行って来たコロネットが、これ君の分、とだけ言って、無造作に手渡してきたものだ。その皮袋の中には、良質のロム金貨がぎっしり詰まっていた。ケイの給料の、1年分にもなる金額だ。
その金貨の重さが、今までのお前の仕事や人生など、ただのゴミだ、と言っていた。
(信じられない! この凡人の僕が、戦列機に乗って、国家の命運をかけて闘技場で戦っただって!? あの日、この『夜』のカードを引いてから、たったの2週間でこれだよ!)
ケイは、ポケットの中から、呪いのレアカードを引っ張り出して眺めた。
(僕は、ディーラーとしては、今までけっこううまくやってきたつもりだ。客のあしらいも板に付いたもんだし、店の利益になるよう、うまく確率を計算し、自分の手足のようにカードを操っていた。それなのに、突然、そのカードの力が卓上からあふれ出してきて、人生をひっくり返してしまった!)
これこそが、確率神ゾロの、呪いの力の発現なのだろうか、とケイは恐怖していた。しかし同時に、奇妙な考えも頭に浮かんでいた。今、呪いの力で信じられないほどの災難に遭っている自分は、もはや「凡人」ではなくなったのではないか、という感覚が、疲れた肉体の中心に、確かにあった。
(子供のころは、いつも思っていた。人間は誰でも、『自分の人生』という物語の主人公になれるはずで、いつか自分のためだけのシナリオが誰かから手渡されるときが来るのだ、と……。でも、子供の時代が終わったとき、『そのシナリオは君のじゃない、他人のだよ』と言われて、それっきり代わりのシナリオはもらえなかった。そんな気がしていたんだ)
テーブルの上に頭を置いたままで、ケイは「夜」のカードの、絵柄の定まらない暗闇を眺めた。
(闘技場の試合は、ただの賭け試合じゃない。国家同士が自国の戦列機の性能をアピールし、他国を牽制する、代理戦争なんだ……。この僕が、そんな場所に立っていて、勝利に貢献できたなんて、ほんとに信じられない。これは、僕が『主人公』の、人生のシナリオの始まりなのか? それとも、呪いに追い立てられ、死への階段を一歩ずつ登っているだけなのか?)
背後から、ふわりと、焼きたてのパンの匂いがした。顔を上げると、テアロマ姫の黒い瞳が、ケイの手元をのぞき込んでいた。
「そのカード、もう一度見せてください!」
こんな呪いのカードをお姫さまに触れさせていいものか、と思ったが、ケイには抵抗する気力もなかった。テアロマは、彼の指先からカードをさくっと奪い取ると、表面に記された意味不明な文言を熱心に読んでいた。ときおり、目を上げては、ケイの顔とカードを見比べて、何かを確認しているかのようにうんうんとうなずく。
(何だろう……そんなに面白いことは書いてないと思うんだが……)
ケイの手にカードを返して、テアロマは、今度は別の面白いものを見つけた、というほほ笑みで、彼の顔をのぞき込んだ。
「大丈夫? 気分が悪いのですか? 晩ごはん、ほとんど食べてなかったみたい……」
「いえ、ちょっと疲れ過ぎて、食欲がなくて……それだけですよ」
ケイの答えに、テアロマはエプロンの裾を握って胸を張り、なぜか楽しそうにふんふんとうなずいた。
「ちょっと待ってて! すぐに、食べやすいものを作ってあげるから! ごはんはちゃんと食べなくてはなりません!」
テアロマの小さな姿は、踊るように素早くキッチンの中に消えた。それから、楽しそうな鼻歌と、包丁を使う音が聞こえ始める。
ケイは、夕食の支度で疲れているはずの姫にこれ以上仕事をさせないよう、食事を断ろうと思った。だが、疲れきっていて、テーブルから身を起こすのも面倒だった。彼はしばらくそのままの姿勢で、姫の立てる物音を、ただ聞いていた。
すぐに、テアロマがお盆を持って戻ってきた。だしの効いた湯気の匂いが、ケイの疲れた身体を包んだ。
「はい、トマトのサンドイッチと、鶏肉のスープですよー」
ケイは、食欲がないから、と言うつもりだった。だが、エプロンの姫君は彼の目の前に皿を置くと、そのままテーブルの向かいに座ってしまった。どうやら、勝利をもたらした魔剣士が自分の与える褒賞を口にするまで、動くつもりはないらしい。
(このお姫さま、犬や猫に餌付けするのが好きなタイプだなあ、きっと)
やれやれ、と思いながら、ケイは身を起こして料理に向き合った。とりあえず、トマトのサンドイッチを一切れ取り上げ、口に運ぶ。パンはしっとりと柔らかく香ばしく、トマトとの間には、チーズとオリーブオイルの風味がするソースが塗られていて、岩塩がパラリと振りかけてある。よく熟したトマトの濃い味が、疲れた身体に染み込むような気がした。
気が付くと、一切れ目をもう、平らげてしまっていた。
(うまい……!)
ふと目を上げると、テーブルの向かいでテアロマが、食べっぷりを確認するようにうなずきながら、黙ってケイを見つめていた。不思議な深い色の瞳が、ケイの肉体の奥まで、透視している。その目は「あなたの痛みも恐怖も疲労も、全て理解している」と、言葉もなく語りかけていた。
(どうか、お願いだから……何も、何も話さないで……!)
ケイは、この背の低い、柔らかな肌の、しかしばねのような生気に満ちあふれた黒髪の少女を、心配させたくなかった。そんな表情をさせるのは、罪だと感じた。戦いをねぎらう言葉など、言わせたくなかった。姫君として、戦場に立った兵を慰労する言葉など、聞きたくないと思った。ただ、そこにいて、自分を見ていて欲しい、とだけ、願った。
テアロマは、ケイが料理を食べている間、ただにこにこと微笑んでいるだけだった。この小さな姫君は、彼がサンドイッチの最後の一切れを飲み込むまで、何も、一言も言わなかった。
「ご、ごちそうさまです……」
「はい、おそまつさまでした」
ケイは結局、皿の上のものを全部、腹に納めてしまった。テアロマは、空になった皿を、宝物でも見つけたような笑顔で盆の上に戻した。
「これだと、一皿おいくらくらい?」
「え? ええと……」
ケイは、原価と利益率を計算しながら、椅子に座ったままでテアロマの顔を見上げた。やはり、自分がいつもドローする「荒れ野の姫君」に似ている、と思った。
「私ね、子供のころは、食べ物屋さんになりたいって思ってたんです。レストランとか、ケーキ屋さんとか、パン屋さんとか、夢でした。あ、屋台とかもいいかな」
ケイは、この味なら、何をやっても繁盛間違いなしだろう、と思った。
「そりゃあいいですね。きっと、毎日行列ができる店になりそうですね」
「ふふ、闘技場のお店とか、競争が激しそうですよね。おいしい店には、やっぱり行列ができてたし。焼きそばとかの屋台も面白そう……うーん、悩みますね」
テアロマは、楽しそうに足首でリズムを取りながら、やっぱりパン屋さんがいいかな、と言った。それから、お盆を持って、キッチンに戻っていった。その背中を見送りながら、胃袋の辺りの満足感を確かめる。
それからやっと、ケイは、自分の愚かしさに気付いた。
(バカか僕は。お姫さまなんだぞ、あの人は! そんな……そんな、お店なんて……)
スープの湯気の香りだけ残して、テアロマの小さな姿は、もうカウンターの向こうに消えていた。姫君には決して叶わない夢を、自分にだけ語ってくれたのだ、とケイは思った。
翌日になってから、ケイは、あの金髪の少年の死を知った。
昨日の初戦の前に「晒し台」の隣の囲いにいた、あの金髪にバンダナの少年は、ケイたちの戦いのすぐ後に闘技場の地面の上に立ち、そして、命を終えたのだ。
ケイはそれを、闘技場の通路に無造作に放置されている、彼の破壊された機体を見て知った。鋼の破断面が真新しい輝きを放つその残骸のそばで、彼の担当らしい整備士たちが、無念そうに言葉を交わしていた。漏れ聞こえるその内容によれば、鋼の装甲もむなしく、脳にまで届く傷を負った彼は、今朝までは息があった、ということだった。
彼の青い目を思い出しながら残骸を見つめるケイの耳に、突然、闘技場からの歓声が届いた。目を上げると、暗い通路のはるか向こうに、勝利者の栄光を浴びる戦列機が小さく見えた。その機体は、敗者の機体の首をもぎ取り、片手でそれをぶら下げて高く掲げ、自分の完全なる勝利を観客に見せ付けていた。もぎ取られた機械の首の下には、血染めのヘルメットがぶら下がっているのが、ちらりと見えた。
その輝く姿を、目の前の残骸の向こうに見たとき、突然ケイは、自分の立っている場所がどこなのか、はっきりと分かった。よくできた正確な地図でも見るかのように、この闘技場の真実が、自分の今いる状況が、俯瞰で完全に理解できた。
若者たちは皆、駆り立てられていた。
戦列機という名の鋼の巨人が、その質量によって、黙したまま語るのだ。
〈お前は、何者かにならねばならない。まだ何者でもない、という状態は、お前には許可されていない〉
だから、彼らには、どうしようもなく時間がなかった。考える暇などなかった。迷う余裕もなかった。死したあの少年も、自分自身も、ただ、鋼鉄の戦場へ、闘技場の中心のあのささやかな地面へと、駆り立てられていくばかりだったのだ。
そして、ある者は頭角を現し栄光をつかみ、またある者は、骨が砕け内臓のはじけた無残な死骸を闘技場の観客たちにさらし、自らの血液全てを油に汚れた砂に染み込ませる。これが今の時代の、「英雄の時代」の、象徴的な光景であった。