エピローグ・夢のあわいの恋人たち
ただいま。
……わたしが誰か、分からない? ええ、本当は「はじめまして」よ、この夢のあわいの世界では!
でも覚えてない? わたしたち、もう何回も出逢ってるのよ。出逢って別れて、それを何度も繰り返してるの。
『風の精に呪われた、死ねない青年と妖精のカップル』だった時もあった。
『人食い人外青年さんと、「物語を食べる」人外』として出逢った時もあった。
『幼い娘に死なれた父親と、幽霊になった娘』として語り合った時もあったわ。
……そうして今は、お互いに夢の世界の住人として、今ようやく出逢えたの。
わたしはずっと待っていたのよ。
待っていたのよ、あなたがあの宝物の砂糖壺を、自分から喜んで手放す時を。
覚えていない? わたしたちが出逢うには、ちょっとしたステップが必要なのよ。今回はそのステップが、砂糖壺……あなたが何より大事に思っていたものを、本当に必要な別の相手に、さし出すことが必要だったの。
ねえ、もうそろそろ思い出して?
もう思い出せているはずよ……あら! 忘れていたわ! ねえ、本当に今さらだけど……!
今回のあなたの名前は、いったい何て言うのかしら?
* * *
マスターは体の中で暴れる「今までの記憶の奔流」に、その目をきつくつぶっていた。
『風の精に呪われた、死ねない青年と妖精のカップル』?
ああ、そんな苦しい人生もあった。
『人食い人外青年さんと、「物語を食べる」人外』?
ああ、あの時は基本的にやりたい放題! 時たま「やりすぎよ」って彼女にたしなめられたけど、あれは楽しい一生だった!
『幼い娘に死なれた父親と、幽霊になった娘』の人生……?
ああ、あの時は本当に苦しかった! 一度は自分で死のうとまでした、自分の手首をナイフで切った! でも生き延びて本当に良かった、同じ人生でもう一度再会出来たから!!
思い出した!
――思い出した!!
それは苦しい体験だった。
頭の中が今までの人生でいっぱいになって、おかしくなってしまいそうな。体が熱の塊にでもなったよう、汗がぼつぼつと肌に浮き、激しい眩暈がくらくら襲いかかってきて……、
くしゃくしゃに眉間にしわが寄る、胃の中から何かがあふれ出しそうに、ごろごろとのどがえずいている。このまま死ぬかもしれないと、そう心中で叫びながら、マスターはカウンターのふちを壊す勢いで掴んで耐える。
長い長い、ながい苦痛の記憶の洪水がいつかとぎれた……たった一回の人生で、百回も老人になった気がした。胸が苦くて、苦くて甘くて、自分の中身がまるごと毒入りのリンゴジャムのようになり、それを吐き出してしまいそうな……。
その中身がやがて甘く甘く、あまくなり、淡くなり、自分がじぶんに戻ってきて、……生まれ変わったような気がした。少年に戻ったような気がした。
マスターは心からはにかんだ。今までで一番良い笑顔をしていると、鏡もないのになぜか分かった。そして目の前の彼女に向かい、とろけるような声音で告げた。
「ぼくの名は……。ぼくの今回の名は、ドゥルケ・ドゥルティス!」
思い出したと一言も言わず、名乗りが何よりの応えだった。ふたりはその場で思いきり抱き合い、ぼろぼろに涙しながら息づまるような口づけを交わし……。
やがて泣きやみ、口づけも終えて手と手をつなぎ、喫茶店の扉を内側からくるりとくぐった。
扉の向こうに出たとたん、「カフェ・カーリタース」は跡形もなく消え去った。
もういらないのだ、ふたりには。のろけ話ならもう十分、ふたりの中から湧いてくるから。
「……旅に出ましょう、ドゥルケ。そうして今までの人生みたいに、物語を拾い集めて旅をしましょう――今度の舞台は、夢の世界よ!!」
可愛らしくはしゃぐ魂の恋人に、ドゥルケはささやき声で改めて彼女の「今回の名」を訊いた。
「あら! すっかり忘れていたわ! あのね、今回のわたしの名前はね……」
ばちん、と音立ててスクリーンがブラックアウトし、続きはいつまでも出てこなかった。……




