*穢れた神父のスタウロ
……こんばんは。
いえ、ここは夢のあわいの世界。朝も昼も、もちろん夜もないことは、感覚でそう分かっていますが……。
けれどもやはり「こんばんは」と言わせてください。私の心は、これからずっと闇なのですから。
「……ほう? 何かしら事情がおありのようですね。黒い法衣を身につけて、あなたは青年の神父さんのようですが……この喫茶店は『のろけ話の買取所』でもあるのですが、何だか重いお話を経験なされたようですね……?」
……はい。
……え? お紅茶とお茶菓子をいただける……? なるほど、これは「のろけ話の対価」なのですか。それはありがたい……。
――ねえ! あなたもおいで、扉の向こうで待っていないで……! せめてこれからの地獄にそなえて、ふたりで一杯お紅茶をいただいて一息つこう!
……はあ、駄目か。
すみません、私には連れがいるんですが、彼女は男慣れしていないので……。私以外の男とは、まともに口もきけないのです!
しようがないので、さらさらとのろけを話して、一杯だけお紅茶をいただいて、おいとまさせていただきます。ああ、このシフォンケーキは食べずにおいて、扉の向こうの彼女におみやげにいただいても?
……ああ、それとは別におみやげもいただけるのですか? それは本当にありがたい……ただ、これからの私たちに、食べる余裕があるのかどうか……。
……いや、話を始めさせていただきます。
私はつい先日まで、ある土地神を崇めていました。「世界の創造」などとはまったく関係のない、国の場末の土地神です。
いくら見た目が美しくとも、もし国の外から「開拓者」が攻めて来たなら、まっさきに「邪教」とみなされそうな……。そんな下級の土地神です。
しかしその女神は「処女神」として、土地の者に心底崇められていました。処女神とは、……つまり男を知らない女神です。彼女はその絶対的な「清さ」ゆえに、その土地で永く信奉されてきたのです。
もちろん私も、その女神を心から信じる一人でした。両親ともに奴隷の身分、私も当然、奴隷としてこの世に生まれ……。たまたま、本当にたまたま、教会の働き手として買われて救われた……。
そんな生まれの私にとって、土地神は本当に「救い主」だったのです。
そうしてもちろん、その宗教は「恋愛」「結婚」を禁じていました。むろん本当に全面禁止したならば、子どもはいっさい生まれません。ですから「神の働き手」をつくる意味で、普通の信者たちには「事務的な結婚」は赦されていました。
しかし私のような、教会に住む神父たちには、恋愛も結婚も赦されてはいませんでした。
それでも私は、今思うと盲目的に、その女神を信じていました。
(恋愛も結婚もしたくない。ただ自分を救ってくださった、自分の信じる神さまのために、この一生を捧げよう……)当時の私はまったく本気で、そう考えていたのです。
そんな私は……お恥ずかしい話ですが……ある時、大きな神殿の中で迷子になってしまったのです。いえ、自分の住まわしていただいている神殿で迷うなど、普通はありえないことでしょうけど……。
なにせ神殿は土地神のものとしては異様に大きく、おまけに私はけっこうな方向音痴でして……! ふだんは気をつけていたんですが、その時は何か考え事でもしていたのだったか……とにかく本当に絵に描いたように、ひどく迷ってしまったんです!
そうして見たことのない赤銅色の扉の前で、私は立ち止まりました。
おかしなことに、扉はビロードのような質感で、触るとけば立って色合いがわずかに変わります。私はそのなめらかな感覚に、しばらく幼い子どもにかえったように、しばらく扉を撫で続けていたんです。
そうしたら、ふいに声が聞こえた気がして……扉の向こうから、何とも言えない美しい声で、かすかに呼びかけられた気がして……。
私はほとんど無意識に、取っ手のない扉にそっと手をかけました。そうしたら扉は音もなく開いて、中の様子が見てとれました。
驚いたことに、そこは秘密の庭園でした! 屋内なのに天からさんさんと日がさして、見渡す限り草木の茂る大庭園……!
ハーブも樹木も、美しく花や実をつけて、健やかに生い茂っています。そうしてその大庭園の真ん中に、低い石垣で囲われた、澄みきった丸い泉がありました。
――ああ、いけない! 「この神殿には泉のある『秘密の間』がある、決してそこに行ってはならぬ」と……いつも言われているじゃあないか! 自分よりずっと上級の神父様たちに、きつく言われているじゃあないか!
さあ大変だ! 今すぐ何も見なかったことにして、ただちにこの部屋を出なくては! そう考えて逃げ出そうとした私の耳に、かすかな声が聞こえました。
『行かないで』……。
妖精が奏でる小さなハープのような声音で、声は悲しげに歌っていました。
私は返事も出来ぬまま、しばらくその場に立ちすくんで……とうとう好奇心に負けて、そっと泉に近づきました。
『独りにしないで』『お願い、どうかこっちへ来て』……。
かすかな声は泉の中から聞こえてきます。私が恐るおそる泉の水をのぞきこむと、そこには見慣れた自分の姿はありません。代わりにこの世のものとは思えぬ、美しい乙女が翠の瞳を潤ませて、ありありと映っていたのです。
仰天する私に向かい、水の向こうの乙女は切なげに語り出しました。
『驚いたでしょう? ……わたしは土地神の娘なの。あなたがた神父の信奉する「処女神」の一人娘なの』
――心臓がひっくり返るかと思いました!
私はあまりのショックに口ごもりながら、ようやっとこう訊ねました。
「む、娘……? それでは、私の崇める女神さまは……?」
『そう、処女神なんて嘘っぱち。わたしの母は大昔に「一度だけのあやまち」を犯して、生まれた娘のわたしをこの部屋に、この泉の中に万年も閉じこめているの。自分の嘘がばれないように』
ああ、その時の私の気持ちを何と言ったら良いでしょう……?
自分をリンゴに例えたら、芯がずぼっと、体から抜き取られたような感覚……けれどもそれとまったく同時に、私は泉に映る女神の娘に、どうしようもなく魅きよせられていたのです!
そんな私の目を見つめ、娘はなおも語りました。
『わたしの名はナーオス。ナーオス・ミュートス……。
わたしはあなたの名が分かる。あなたはスタウロ。スタウロ・スタウロス……』
甘い声で名を呼ばれ、胸が燃える想いがします。思わず胸を押さえる私に、娘はその翠の瞳に私の姿を映しながら、すがる声音で言い重ねます。
『……ここは、本来開かずの間。さっき扉が開いたのは、わたしの淋しさが母の呪いに勝ったから……。お願いスタウロ、これからわたしのお友だちになってちょうだい。そうしてわたしとふたりきりで、いろいろお話をしてちょうだい……!』
私は言葉が見つからずに、自分の胸をきつく押さえて、しばらく黙りこくっていました。
……それからゆっくり、泉に向かってうなずきました。奴隷生まれで両親ともすぐ別れ、土地神の神殿で神父として生きる身には……なんだか彼女の淋しさが、他人事でないような気がしたのです。
それからしばらくの間は、私はまったく幸福でした。禁忌を犯す恐ろしささえ、ひそかに彼女と逢瀬を重ねる、甘い感情でほとんど忘れていたのです。
ふたりの間には、奇跡のようなすばやさで厚い友情が、恋情が……愛が、育ってゆきました。
けれどもその秘密は、ほどなくして土地神の知るところとなったのです。「処女神」を謳う穢れた女神は、烈火のごとく怒りました。私を捕まえ、秘密の泉に放り込んで……泉の中のナーオスもろとも、「神の業火」で焼いたのです。
さすがは神の奇跡とでも言うべきか、泉の水は石油のようによく燃えました。そうして私とナーオスが抱き合って死ぬ刹那、女神は言い放ったのです。
『おまえたちは、これから百回殺し合う。転生に転生を重ね続け、お互いにお互いを殺し合うのだ。それが罪深いおまえたちへの、我からの罰だ、大罰だ! 互いに百回殺し合い、その辛さ苦しさに耐え切って、まだ魂が残っていたら、その時初めて結ばれるが良い!!』
ああ、熱い、あつい……!!
熱くてたまりませんでした、痛くてたまりませんでした。
互いの体は紅蓮の業火に焼かれ、精神を酷い罰に灼かれて、泣きながら抱き合って燃えながら激しいキスをして……そうしていつか気がつくと、もうここに来ていたのです。
……美味しいお紅茶をごちそうさまです。そうして、話を聞いてくださってありがとう……。
このお紅茶の味と、彼女と味わうシフォンケーキをせめてものなぐさめに、私たちはこれからの罰に耐えましょう……。
本当に互いに百回殺し合うまで、私たちの魂が果たして苦難に耐えうるか……それは「神のみぞ知る」ところですがね!
* * *
自分の胸を突き刺すような軽口をたたき、「穢れた神父」はすさんだ笑い声を上げる。
マスターは何も言わなかった。何も言えずにせわしく何度もまばたいて、すぐ傍にある食器棚にちらちらと目をやっていた。……やがて奇妙に静かなしぐさで、棚にある容れ物を取り出した。
砂糖壺だ。
永遠に中の物が減らない、夢の砂糖の入った壺だ。
「どうぞ、これを……この中には『夢の世界で想う相手とお茶が出来る』、角砂糖が入っています。これをお茶に入れて飲めば、この世界で甘いティータイムが出来る……しかも中身が減らないから、永遠に穏やかに夢の世界で過ごせます……」
マスターはそこで吹っ切れたように微笑った。何ともいさぎよい手つきで、砂糖壺をさし出した。
「――大丈夫、きっと大丈夫です……百回殺し合う罰は、これで帳消しになるでしょう……!」
「穢れた神父」は、心の底から驚いて青い瞳を見開いた。
その目にひたひたと熱い喜びが満ちていき、スタウロは感謝の言葉も涙声で切れぎれに、何度も何度もふりちぎれそうにおじぎをして、踊るような足取りで喫茶店を後にした。
興奮しきった神父の声と、水で作ったオルゴールを思わせるような綺麗な声が、扉の向こうから聞こえてくる。やがてすりガラス越しの二つの人影も遠ざかり、マスターは再び、本当に独りになった。
宝物を、失ってしまった。けれど不思議に後悔はない。
だって何でか、知っているような気がするのだ。
『愛するひとと百回殺し合う運命』を。それがどれほど苦しくて痛くて辛いかを、本当に知っている気がするのだ。
ぽんとどこか、胸のすみっこに穴が開いてしまったような。でもそこに、すうすうとハッカみたいに甘い風が通るような……。
今までに感じたことのない感覚。けれど何だか、その想いまでなつかしい。
「良いことをした。……良いことをした。それは、本当に良いことだ」
自分に言い聞かす呪文のようにつぶやいて、マスターは白い食器を洗い始めた。
からんからん。
ふいに呼び鈴が綺麗な音を響かせて、マスターは驚いて顔を上げた。
だって、この店の扉には、呼び鈴なんてないはずなのに! ……
すりガラスの扉を開けて、一人の少女が入ってきた。
コーヒーに少しミルクをさしたような、美味しそうな髪の色。
髪はとてもボリュームがあり、ボブカットが広がってブラウンマッシュルームみたいな髪型だ。ビターチョコレート色の大きな瞳を、長いまつ毛が彩っている。
少女はマスターを一目見るなり、本当になつかしそうにはにかんで、その目からぽろりと一粒涙を流し……。
「ただいま」
と、とろけそうに甘い声でそう告げた。




