*占いの国のフロイト
……やあ。この喫茶店、今開いてるかい?
大丈夫? お客が一人、しばらく居座っても良いかい?
いやあ、実は今通りすがりに「ここがすっごく良い店だ」ってちょっと教えてもらってさ!
「ちょっとのろけを話したら、無料でお茶とお茶菓子が楽しめる」ってのは本当かい? しかもおみやげまでもらえるって……本当なのかい! うわあ、あの灰色の髪の紳士にとても良いことを聞いたなあ!
……お、早速お茶をありがとう!
このミルクティー、茶葉はレディ・グレイかな? 良いセレクトだ、矢車菊の花びらの入ったこのお茶は、妻の大好物なんだ!
(……ど、どうでもいい……ものすっごくどうでもいい……!!)
……ん? 今ものすごく小声で何かつぶやかなかったかい?
「い、いいええ! 何でもないです!! ささ、お茶菓子には焼きたてスコーンとクロテッドクリーム、それに黒イチゴのジャムなんかではいかがでしょう?」
おお、ありがとう! ……うーん、このミルクティーとスコーンとの相性、最高だねえ!
んん? もう待ちきれないのかい?
「いいから早くのろけを話せこのやろう!」って表情をしてるねえ!
はは、そんなあわてて否定しなくて良いよ! 「もう止めてくれ! 口から砂糖噴出する!」ってくらいにたっぷりのろけてあげるから……!
……というか、そもそも僕の国ではね、占いがハバをきかしてるんだ。
んん? どういうことか分からないかい? つまりね、朝起きたらその家のパパはまず占いだ、一家そろって朝食に何を食べたら良いかってね!
そして例えば「目玉焼きにウインナー、トーストにブラックコーヒー」って占いの結果が出たとする。そしたら一家全員そのメニューだ! もちろん末っ子の五歳のボウヤも、顔をしかめて一生懸命ブラックコーヒーを飲まなきゃいけない!
さらにそれだけじゃ終わらない! その日はいていく靴下の長さに、つけるネクタイやリボンの柄、ご夫婦が玄関で「行ってきます」「行ってらっしゃい」のキスをしても良いかどうかまで、みんな占いで決めるんだ!
ねえ、おかしいとは思わないかい? いくら国の伝統だって、これじゃあ少し度が過ぎてるよ!
だから僕はね、これでもけっこう良いとこのおぼっちゃんなんだけど、ずっと前から「家出」の決行を夢見てたんだ。
こんなおかしい国から、それをおかしいとも思ってもない人の群れから逃げ出して、何でも自分で自由に決められる国まで行きついて、さばさば暮らしていこうってね!
そうしてその考えは、二十歳の誕生日がだんだん近づいてくるにつれて、どんどん大きくなっていった。
「……それは、いったいどうしてですか?」
そりゃあ、もちろん! 二十歳になると結婚しなきゃいけないからさ! ひどいだろう、それも国の掟なんだよ!
で、もちろん分かるだろう……結婚相手も占いで決められちゃうんだよ! しかも必ず、同じ国に住む相手をさ! いや本当にたまらない、そんな大事なことも自分で決められないなんて!
しかも僕には何か特別な能力でもあるものか、十九歳の誕生日から毎晩夢を見るようになっていたんだ……逢ったこともない恋人の夢を!
恋人は僕の一歳年下、焦がしたクルミ色のさらさらの長髪に、濃いカフェオレ色の瞳。はにかむ顔が少女みたいにあどけない、読書が趣味の女の子。
え? 名前? もちろん名前だって知ってたさ、「クラース・クラースナー」って言うんだよ!
テディベアを集めるのが好きな、部屋中ぬいぐるみだらけの可愛げたっぷりの女の子……そんな彼女と僕は毎晩、夢の中でデートを重ねていたんだからね!
そうして僕は二十歳の誕生日が近づくにつれて、確信を持っていったんだ。
クラースはまだ現実には逢えていない、僕の未来の恋人なんだ。きっと前世から約束のある、僕の魂の恋人なんだ。そうしてこの広い世界のどこか遠くで、ずっと僕が迎えに来るのを待っているんだ!
待っていてクラース! 僕はもうじきこの占いに侵された国を逃げ出して、君を迎えに行くからね!
そう考えた僕は、着々と脱出の準備を整えだした。
小さい頃におはじき代わりに遊んでいた純金の小粒を、「何でもいくらでも入る財布」に詰め込んで「手のひらサイズの衣装ダンス」に百着の服を選んで入れて、そういうものをいくつもいくつも「羽根みたいに軽いカバン」に詰めていってさ。
そうして家出の準備が何からなにまで整ったその晩、夢の中で大事件が起こったんだ。 何が起こったと思う、君?
……クラース・クラースナーだよ! 彼女は泣きながら怒りながら、僕のほおに思いっきり平手打ちを食らわせたんだ!
あまりのことにほおの痛みも感じずに、呆然と彼女を見つめる僕に、クラースは顔を真っ赤にして泣きながらこう叫んだんだ。
「――あんまりだわ、あんまりだわ! あなた、あんなに私と将来を誓い合ったのに! あなたは何も言わないで、現実で私から逃げ出す準備をしてるんだわ!!」
僕は信じられなかった。自分の耳が壊れたのかと疑った。だって――彼女が言おうとしているのは、つまりそういうことだろう?
「まって……待ってくれ! 僕にはとうてい信じられない! 君はどこか遠くの国の、貴族のお嬢さんじゃないのか? そこで僕が迎えに来るのを、ずうっと待っているんじゃないのか?」
「そんなことないわ、現実はもっとシンプルよ。お願いだから私を信じて、この国でもう少し待っていて。そしたら私、必ずあなたに逢いに行くわ。こっちの方からあなたのお嫁になりに行くから!!」
そうして……それっきりだよ。
その晩の夢は、それで終わってしまったんだ! しかもそれから後は一度も、クラースは夢に出てきてくれなかった!
さあ、いったいどういうことだろう? もしかして悪い魔女かなんかが、僕らの純愛をねたんでクラースになりすまして、夢に出て嫌がらせしたんだろうか?
そう疑いながらも、僕は待つことにしたんだよ。
そうしてとうとう、二十歳の誕生日がやってきて……占いは始まってしまったんだ。ものものしい薄暗い部屋、鼻につく香の漂ういかがわしい部屋の中で、占いは静かに繰り広げられる。
占い師の操る大きな水晶板の上に、くしゅくしゅと文字が浮いては消えていく。さあ、僕は異常な興奮に叫び出しそうになるのを、どれだけ我慢していたか! 怪しげな文字は、次々にこうお告げをしたんだ……!
『青年貴族、フロイト・ユングの選ばれし結婚相手』
『それはフロイトの一歳年下の貴族の娘』
『髪は焦がしたクルミの色、瞳は濃いカフェオレの色』
『その名はクラース・クラースナー』……!!
そうして大きな水晶板は、最後に古い映画みたいに、セピアがかった女性の姿を映したんだ。その姿ときたら、夢で見た愛しいクラースの姿そのままだったんだもの! 僕は堪えきれずに喜びで絶叫したもんだから、まあ思いっきり怒られたね!
でも僕は占い師はじめ、自分の両親にも執事やメイドたちにまで、ひたいに青筋立てて怒られながら、ずっと笑い続けていたよ!
……そうして、その「占いで出た結婚相手」が今の僕の奥さんさ。
もちろん彼女は読書が趣味で、熱心なテディベアの収集家。笑うと今でもあどけない少女の表情を見せるんだ。
そんな訳で、僕は今でも「占いの国」で貴族として生きているんだ。もちろん朝起きたら、まずパパの僕が一家のために占いさ。
「朝食はパンケーキにカリカリに焼いたベーコン、そしてメープルシロップをたっぷりと。飲み物はシナモンミルクティー」って結果が出たら、メイドがすみやかにその通りのメニューを作るんだ。
「息子にはまず国語の授業、双子の娘二人には社交ダンスの講義を受けさせよ」って占いが出たら、占い通りの時間割で、屋敷の中で将来のために勉強させる。
もちろん着るものから何から、昼食の時間、昼寝はするか、するとしたら何分するか、タバコは何時何分に何本吸うか、夜の自由時間には何の音楽を聴くか、それとも家族でボードゲームをするか、夜の何時何分にベッドに入るか、夫婦の営みはするかしないか、するとしたら何回しても構わないか、全部を占いで決めるんだ!
ああ、なんて素晴らしい国だろう! ささいなことから人生の大きな決断まで、全部占いで決められるんだ! よけいなことを考えて時間を無駄にすることはない、従っていれば間違いはない!
ねえ、だってそうだろう? だって僕は占いで、ちゃんと夢で出逢った運命の相手とめでたく結婚出来たんだから!
もう疑いの余地はないよ、まったく占いさまさまだ! 若さゆえのあやまちで、二十歳になる前に家出をしなくて良かったよ!!
ねえ、もう何にも心配はいらないさ。僕はもちろん、息子と双子の娘の結婚相手も、ちゃんと占い師に占ってもらって決めるんだ。まったく僕の住む国は、「現実世界の桃源郷」だよ、そうだろう? ……
* * *
熱を持って見つめてくる青い瞳が、どこか虚ろで恐ろしい。喫茶店のマスターは少しひるんで目線をそらし、小さく「ええ」とうなずいた。
何か違う。
何か間違っている、気がする。
けれど何がどう違うのか、はっきり口には出来なくて、マスターはやはり黙ったまま、ひらりとしなやかな手を揺らし、小さな袋を取り出した。
「わあ! それが例の『夢の世界でお茶会が出来る角砂糖』かい? これって奥さんだけじゃなく、子供たちとも一緒にティーパーティーが出来るのかな?」
「……ええ。ただ、もちろんその分、角砂糖の減りは早くはなりますが……」
「ああ……いやいや。いくら夢って言ったって、お茶会の回数もお相手も、占いで決めなきゃいけないのかな……?」
客のつぶやきにマスターが、ほんのわずかに眉をひそめた。それにも気づかず、「幸福な」青年貴族は角砂糖の袋を手にして、喫茶店を後にした。
マスターは扉のすりガラス越しにその人影を見送って、ふっと独りで己の名をつぶやいた。
「ドゥルケ・ドゥルティス……」
もし誰か、この店を訪ねたとたんにその名を呼んで。
「占いで分かったの! あなたが私の運命の人よ!!」と泣き笑いして抱きつかれたら……ぼくはいったい、何と応えれば良いんだろうか?
「……いけない! 何だかおかしなことを……やれやれ、どうやらぼくも、あのお客の『占い熱』にあてられたらしいや!」
マスターはふいと頭をふって、思い出したように「のろけ話の残り香」をひらひらと両手でかき集め、一つのロシアンクッキーに変じさせた。クッキーの真ん中を飾るイチゴのジャムは毒々しく赤く、のどに張りつきそうにべたりと光を反射している。
マスターは黙ってそれを眺めていたが、しばらくしてほいとクッキーを放り捨てた。クッキーは恨みがましく赤い煙を周囲に放ち、甘いにおいを残して消えた。
マスターは黙ったままでうなずいて、使われた食器を清めるように洗い始めた。
洗い終わってまた何か考え込みかけた時、ふうっと店の扉の前に、淡い人影がひとつ揺らいだ。マスターは気を取り直し、入ろうかどうしようか迷っているらしい人影に向かって呼びかけた。
「いらっしゃいませ。お入りなさい……大丈夫、とって食やしませんよ!」
その呼びかけに応えるように、すりガラスの扉が開いた。……
 




