*黒髪姫と霊樹のクシ
『髪の美しいひとは、心も美しい』と思われませんか?
つやつやと髪の美しく、漆黒の絹糸のような黒髪を持った女性などは、その心も限りなく清らかに美しいと……そう思われはしませんか?
「……ええ……? いや、失礼ながらぼくはそうは思いませんね。現にここにいるぼくの妻も、長旅で少し髪は傷んでおりますが、その心根は……!」
……ああ、いや、これは失礼を……! これはお仲のよろしいことで、思いもよらぬおのろけを……! いやいや、実は私の主が美しい髪の持ち主で、また絵に描いたように清らな心の持ち主なので……!
「これはこれは、それもある種のおのろけですね!」
……いやいや! これは、出逢ったばかりのご夫婦にとんだ主自慢を! 重ねがさね失礼を!
しかし、これからお話するのは、その主の話なので。あなた方は昔の話をお集めとのこと、これも一応千年ばかりは昔の話にあたるので……。
――そうです。雲つくばかりの山中の、霧にまぎれてそびえる屋敷……どうやらあなた方は普通の人間のようですが、この屋敷は妖怪たちの住まいなのです。もちろん今あなた方の目の前でこうして話している、私も人間ではありません。
しかし妖怪にも良いも悪いもございます。こうして屋敷に迷い込み、昔話をお望みのご夫婦に食いつくような生き物は、この屋敷にはおりません。どうかむやみに恐れることなく、話を聞いていただきたい……。
……昔むかしの大昔、この霧にまぎれた屋敷の前に、一本の大樹がありました。大樹はその当時もう数千年を生きていて、このあたりの妖怪はその樹を「霊樹」として日夜崇めておりました。
ところが、ある日屋敷住まいのひとりの巫女が……妖怪に「巫女」というのも何だかおかしな話ですけど……急に「神憑き」になったのです。そうして巫女はこう告げたのです。
『我は霊樹だ。我は数千年の時を今まで生きたが、じきに寿命が尽きそうなのだ。しかしただ枯れるのでは面白くない……。そこでいっそ枯れる前に伐り倒し、我の一番上等な材から櫛をこしらえてくれ。そうしてそのクシを、そなたら妖怪の中で一番美しい姫に与えてくれ』と……。
妖怪たちはお告げを聞いて、その通りに霊樹を根もとから伐り倒しました。そうして「一等上等な材」から二つのクシをこしらえて、二人の姫に与えました。
……これでは少し、霊樹の遺言と違います。けれど当時の妖怪たちは、そうすることしか出来なかった。なにしろ「一番美しい姫」には、それはもう我が侭な妹がいたのですから。
一番美しい姫にクシを与えて、妹には無しとくれば、妹は烈火のごとく怒るでしょう。下手をすると屋敷を二分して戦が起こるやもしれません。なので霊樹の遺言にそむいても、クシは二つ作らなければなりませんでした。
……しかしまあ、妹姫のクシの可哀そうなこと! 木のクシは水気を吸うと材が歪んでしまうのに、妹は毎晩濡れ髪をそのクシで梳くのです! そうして木のクシは月に一度、椿油を染ませて手入れをせねばいけないのに、妹姫は全く手入れなどする気配もなし!
さすがの霊樹の材で作ったクシも、半世紀たつ頃にはぼろぼろと歯が欠けてしまい、妹姫は自分が壊したクシをうっちゃって知らぬふり……。
その様子に姉姫は心を痛めておりましたが、相手は恐るべき妹姫。「私が代わりに手入れをしようか」と申し出たなら、「クシの手入れも出来ぬ女と、姉は自分をあざけった」と逆恨み、姉のクシまでぼろぼろに壊しかねません……。
姉姫は妹のクシを憐れみつつ、「せめてこの子は」と自分のクシを大事に育てておりました。
姉姫のクシは月に一度たっぷりと椿油を与えられ、濡れた髪からは遠ざけられ、毎朝毎夜、姉姫の黒く長く美しい髪を、うっとりと梳いておりました。そうして妹姫の手に渡った、きょうだいのクシの不遇を嘆いておりました。
――そうです。霊樹の材から作られたクシ、彼には魂があったのです!
そうして長い年月が経ち、クシはとうとう「自分の姿」を手に入れました。霊樹のクシは、長年の歳月を経て妖怪化し、いわゆる「付喪神」となったのです。
艶やかに長い黒髪に、黒すぐりのような美しい瞳……そうして両足は木の根っこのよう。異形の美青年は姉姫の部屋で姿を変え、びっくりしている姉姫の手をとって打ち明けました。
「自分は霊樹のクシの付喪神、日ごろから自分を慈しんでくださるあなたに、本当に感謝しております。……妖怪の姉姫さま、黒髪姫と呼ばれる髪の美しいあなたさま……! 自分はもうだいぶ以前から、あなたを愛しておりました。もしよろしければ、この自分をあなたの婿にしていただきたい……!」
姉姫は驚きながらも、自分の大切なクシに告白されたので、頭もぽうっとなりました。恥じらいながらもその告白を受けようとしたそのとたん、姉姫の部屋の扉がばんと音立てて開かれました。
――そうです。外で話を盗み聞いていた妹が、部屋に飛び込んできたのです!
「姉さま! そのクシの付喪神、何から何までこのあたしの好みだわ! 姉さま、そのクシあたしに頂戴! 姉さまみたいな大人しすぎる女には、そのクシあんまりもったいないわ! あたしのクシと交換してよ!」
妹はそう言いながら、自分の手にしたぼろぼろのクシを姉姫に突き出しました。そのクシはみるみるうちに妖気を放ち、ひとりの美しい男に変化しました。そう、ぼろぼろの霊樹のクシも、付喪神となったのです。
しかしその男は、長い黒髪はぼさぼさで、目の下には深いくま……黒い瞳にも隠しようのない険があり、似てはいるものの姉姫のクシとはやはり別人です。妹姫はその自分のクシをあざけり、彼に向かって吐き捨てました。
「ふん! 何よ、こんなぼろぼろのクシふぜい! この程度の男、あたしの相手にはもったいないわ! 姉さま! 姉さまのクシをあたしに頂戴よ! 姉さまのクシと交換よ!」
困りきる姉姫たちの前で、妹のクシは見る間に恐ろしいほどの妖気を放ち出しました。そうして妹の首にがっと手をかけ、ぎりぎりと渾身の力で締め上げて――。
――妹の亡骸は、ぐたりと床にくずおれました。あまりのことに何も言えない姉姫たちに、きょうだいのクシは淋しげに微笑って言ったのです。
「……お騒がせした、姉姫。そうして俺のきょうだいよ。きょうだい、お前は本当はもう数十年前に、人の姿をとれるようになっていたろう? けれどもこの妹姫が恐ろしくて、今まで姉姫に求婚できずにいたのだろう?」
うなずきも出来ずに口をぱくぱくさせるきょうだいに、妹のクシはすさんだ目もとをふうっと緩めて、代わりのようにうなずきました。
「……安心しろ、もう大丈夫だ。この妹は俺が冥土に連れていく……そうして冥土でこの女と夫婦になって、俺が教育してやろう。今度生まれてくる時には、もう少しはましな生き物になるようにな……」
いろんな感情がごっちゃになって、姉姫たちはやっぱり何も言えません。黙ったままで潤んだ瞳で自分を見つめるふたりに向かい、ぼろぼろのクシはもう一度、淋しげな微笑を浮かべて言いました。
「惜しいな。何とも名残惜しいが、俺はこれでさよならだ。じゃあな、きょうだい、そして姉姫……俺のことなど忘れてくれ。冥土のいびつな夫婦に気兼ねせず、ふたりで幸せになってくれ……」
そう言い遺し、男は姿を消しました。あとには妹の亡骸と、真ん中からぱっきり割れたぼろぼろの妹のクシとが、床に転がっておりました。
……それから後は、ふたりは泣きながら姉姫の両親の元へ行き、これこれと事情を打ち明けました。両親も親のことゆえ、もちろん妹姫も愛していました。
けれど「絵に描いたような鬼子」の娘にほとほと手を焼いていたのも事実……。なので両親も、心から嘆きながらもやはり納得はしたのです。
そうして、姉姫とクシは夫婦になりました。もちろんきょうだいのクシが言い遺したとおり、ふたりで幸せになりました。
けれども、「俺のことは忘れてくれ」と言われても、クシはどうしても、どうしても、きょうだいのことを忘れられなかったのです。
ああ、今頃はどこかで生まれ変わって、今度こそ幸せになってくれているかと、今でも日夜心に思っているそうですよ……。
* * *
語り終えた青年は、何だかとても恥ずかしそうに微笑んだ。
肩までの長髪を一つ結びに、美しい人外の青年は、ふっと何かに気づいたように後ろの扉を振り向いた。
――すうと音もなく入って来たのは、花のような姫様だった。平安の世に着ていたような十二単におろし髪……またその髪がつやつやと嘘のように美しい。凄いくらいの色香の美人に、青年はぱっと顔を輝かせて近づいた。
その青年の両足が見る間に変化し、まるで木の根っこそのものになる。その木の根をがしがしと動かして小走りに、青年は姫に駆け寄った。見る間に肩までの長髪もほぐれほどけて、姫と同じように美しく、足もとまでの長いながい黒髪になる。
ついさっきまでの使用人めいた軽装はどこへやら、薄衣を百も重ねた独特の着物に身を包み、青年はこちらをふり返りはにかんだ。
「……失礼しました、騙していて! あまりにもただののろけになるので『召使いのひとり』のふりで語りましたが、実は私こそ霊樹のクシ。ここにいる黒髪姫の夫です……!」
ふり向いたその顔は先ほどまでよりなお綺麗で、黒髪姫の双子の兄とも見まごうばかり。その「霊樹のクシ」がふわりとはにかみ、こちらへ白い手を差しのべる。
「改めましてお二人さま、お茶とお茶菓子のおかわりを……! 人外と人間、私たちよにんでひとときの語らいを楽しみましょう!」
夫の言葉にうなずくように、黒髪姫が色気そのものの表情でふうと微笑む。そのとたん、ぼくの妻は弾かれたように立ち上がる。かたかたん、と大きな音を立て、花の香りのお茶の入った器が揺れた。
「す、すみません! あたしたちそろそろおいとまを! ほらほら秋良、いつまでもおふたりのお邪魔してないで帰るわよっ!」
急にあわてる妻の様子に、妖怪ご夫婦のおふたりはきょとんと顔を見合わせる。それから「ははあ」と訳知り顔にうなずいて、こちらに向かって笑いかけた。
――その瞬間「テーブルクロスをひっくり返した」みたいに景色が反転して……気がつけば、ぼくら夫婦はもとの山中に立っていた。屋敷を見つけた時に立ち込めていた濃い霧は嘘のように晴れていて、あれだけ巨きくそびえていた屋敷も今は影もない。
ぼくら人間の夫婦は互いに顔を見合わせた。
それからちょっと疲れた笑顔で、首をかしげて笑いあった。
「……やれやれ、今回の語り手は妖怪か……! 思いがけなく珍しい『昔話採集』が出来たねえ!」
「でも秋良! お美しい奥さまとじっくりお話が出来なくて、ちょっと残念だったんじゃない?」
「……あれえ? 何その毒のある言い方は……? あ! もしかしてすみれ、ぼくが黒髪姫の色香に迷うか、不安になってあんなに焦って帰ろうとした?」
すみれがぐっと言葉に詰まる。それからぺろりと舌を出し、子どものような照れ笑いをしてみせた。
「やれやれ……どうも信用ないなあ!」
ぼくは苦笑し、いつものようにひょいとすみれの手をとった。そのまま歩き出そうとして、ふと思いついてすみれの目を見てこう告げる。
「……ねえ、すみれ。ぼくらにはああいう人外のご夫婦みたいに、永い寿命はないけどさ。出来るだけ長く、二人でさ……」
あとは言葉にしなかった。言葉にするのは恥ずかしいし、口に出さずとも伝わるから。すみれは白いほおにぽうっとわずかに血をのぼせ、体温の上がった指に心持ち力を込めてきた。
……さあ、今度はどこへ行こうか? どこでどんな話を聞けるか、いきあたりばったりの「ただの人間夫婦の昔話を探す旅」は、いまだ終わりのきざしもない。
ぼくらは二人手をつなぎ、奥深い山中を再びさまよい出した。
首すじにひやりまといつく山の冷気は、先ほどまでのご夫婦のさよならの挨拶のようだった。