*笛職人と鬼の角
そうですか。昔話をお探しですか。
この「鬼笛」の由来をお知りになりたいと……。
ふふ、何とも不思議な笛でしょう? 水晶のように透ける素材、動物の角のような自然な曲線を描く笛……。
これはね、本当に「鬼の角」なのですよ。ああ、嘘でも冗談でもございません、まことに鬼の角なのです。この笛がどうして出来たのか、どうしてわたしの屋敷にあるのか、それをこれからお話しましょう。
……今から少し昔のこと、ある笛職人の見習いが一人おりました。「残月」という名の青年で、くしゃくしゃに乱れた黒髪に、切れ長の怖いような瞳。奴隷の着るようなぼろぼろの着物、長い髪は藁で結わえて、色気の「い」の字もありません。
両親はとうの昔に死んでいます。生活が本当に苦しくて、二人ともちょっとした風邪がもとで重い病にかかってしまい、長い間働けなくなり、食べるための金すらなくなり、餓死同然に死んだのです。
幼い残月も、二親の死骸のそばで骨と皮ばかりの体、ほとんど死にかけていたところを、笛の職人がたまたま見つけて保護したのです。
そんな生まれ育ちの残月青年は、当然のごとく笛工房でもさんざ軽んじられていました。
「俺ら職人が拾ってやらなきゃ、おまえは野垂れ死んでいたんだ」……それが工房の者たちの、いつもの口ぐせだったのです。
本当は残月には、笛作りの才能が恐ろしいほどありました。しかし工房の誰ひとり、それを見抜けませんでした。残月は毎日雑用ばかりさせられました。肝心の笛には、ほとんど触らせてもらえませんでした。
しかし残月は日々奴隷のように雑用しながら、その切れ長の目のはしで、職人たちの働きを見ては学んでいたのです。
そうして月日は過ぎていき、十の歳で「弟子入り」した残月が、二十歳になった年のことです。青年は急に親方に呼び出され、いきなり命じられました。
「残月、おまえ鬼の婿になれ」
だし抜けにそう命じられ、青年は何がなんだか分かりません。黙ってうろたえる残月に、親方は虫けらに話すみたいに告げました。
「何でも異国の王さまが『珍しいもの』をご所望らしい。期限は『一年と二月』で、珍しけりゃあものは何でも良いんだそうだ……」
残月には話のゆくえが分かりません。黙ったままの青年に、親方はずいと指を突きつけました。
「だからな、おまえ、ちょいと女鬼に惚れたふりして近づいて、隙をついて額の角を奪ってこいや。そしたらそれを、俺が角笛に仕立てるからな。そいつを王さまに献上して、俺はがっぽり丸儲けだ!」
愉快そうにからからと哂う親方に、残月は何も言えません。その場に固まったままの青年に、親方はまた言い放ちます。
「……いいか? 期限はきっかり一年だ。今日が十月十日だからな、来年の今日までに角を奪って帰ってこい。帰って来なくばこちらから鬼を襲いに行くからな、ついでにまったく役に立たん、おまえもぶち殺すからな」
親方は黄色い歯をぎっと剥き出してそう言って、後は残月がいないかのように、さっさと作業に戻りました。残月はもう何も言えずに、何も持たずに笛工房を後にしました。どのみちほとんど奴隷の身、親方に逆らうことは出来ません。
といって、女鬼に惚れられる自信もありません。恐ろしいながらも美しい異形の彼女らのこと、みすぼらしい自分を見たなら「ごみの掃除」と言わんばかり、その爪でざくりと切り捨てるでしょう。
――ああ、いっそそれでも構わない。
一生芽の出ぬ生涯ならば、今切り捨てても惜しくはない……。
そんな思いで残月は独り山へ行き、「鬼の棲まう」というあばら屋の戸を叩きました。すると中からひとりの女鬼が出てきました。
闇を染め抜いたような黒い髪を背に流し、瞳は燃え立つような真紅。そこらの男にもちょっと無いような長身の、恐ろしいほどの美人です。そうして白いひたいには、象牙のように美しい、すうっとそり立つ見事な角が生えています。
鬼は赤い瞳をまたたき、気づかわしげに訊ねました。
「どうした、人間の男……ははあ、ここは奥深い山中ゆえ、道に迷うたか? 腹は空かぬか?」
思っていたよりずっと穏やかな赤い瞳に、自分の姿が映ります。残月は何か言おうとして、もう胸がいっぱいに詰まって何も言えなくて、黒い目からぽろぽろ涙をこぼしました。
初めてでした。亡くなった両親以外に、自分にこんなに優しくしてくれたのは、目の前の女鬼が真実初めてだったのです。
女鬼は慌てて残月の肩へ手をやり、母のように青年をあばら屋へ招きました。
「おやおや、道々だいぶ恐い目に遭うたとみえる……さ、おいで。見てのとおりの鬼の棲まい、大したもてなしも出来ぬけど、麦飯に山菜で飯を食わそう……」
鬼は、残月の目には菩薩のように見えました。
鬼とは単なる「ひたいに角を持って生まれた」だけの生き物で、その善悪は鬼自身の性根によって決まるのだと、身に沁み入って感じました。角なしで生まれた人間の方に、よっぽど「鬼」が多いのだとも、知りすぎるほど分かっていました。
そうして残月は「月華」と名乗った独りぼっちの、淋しがり屋の鬼の娘と、いつの間にか本当の夫婦になりました。
幸せでした。月日は今までの地獄と違って、飛ぶように過ぎていきました。
そうしていつか、もう「来年の十月十日」が目の前に迫ってきたのです。
目に見えて元気のなくなっていく残月に、月華は何度も訊ねました。何かあったかと芯から心配そうに訊かれて、初めは言葉を濁していた残月も、ようやく事情を打ち明けました。
すると月華は花咲くようにふわりと笑い、あっさりとこう応えたのです。
「なんじゃ、そのくらい何でもないわ。残月、わらわの角を取れ。角など落ちても何でもない。かえって痕は残るものの、わらわはふつうの人間のような見た目になる。さすれば残月、わらわはこの山を下りていき、堂々おまえと夫婦になろう!」
さあ、残月の喜んだこと! うって変わって満面の笑みを浮かべる夫の前で、月華はそっと己の爪をくるりと回し、ひたいの角を切り取りました。
人間の夫に角を渡したその瞬間、月華の体がぐらりと大きく揺らぎました。角を無くした鬼の娘は、霧のようにさあっと体が空気に溶けて、消えてなくなってしまいました。
象牙のような角ばかり、残月の手に遺りました。
――殺してやりたい。
心からそう思いました。残月は、己の浅はかさに自分自身を殺してやりたくなりました。
そうです。鬼の角とは鬼にとって、心臓のようなものだったのです。ひとたび失えば命も亡くなる、そういう代物だったのです。それを明かすと残月は、決して角に手を出すまいと、月華は嘘をついたのです。
優しい、優しい嘘でした。
淋しい、哀しい嘘でした。
後悔に体が燃えるようでした。そのあと急に体が冷えて、冷え切って、残月は身を震わせながら泣きました。涙は充血しきった瞳を灼ききるほどに熱く感じ、ほおを切るように痛くいたくあふれこぼれて流れました。
残月は角を手にして、泣き死ぬくらいに泣きました。泣いて泣いて、やがて涙も枯れた時、残月の目には今までにない、靭い光が宿っていました。
残月はあばら屋の使えそうな道具を全て探し出し、己の腕で角を笛にし始めました。血走った目で何かを一心に念じながら、角の芯をくり抜いて、音の出る穴を開け出しました。美しい象牙のようだった月華の角は、芯をくり抜かれ水晶のように透き通り、見事な角笛になりました。
残月はその笛を手にとって、りゅうりゅうとひとくさり吹いてみました。
鬼の哭くような、哭きながらかすかに笑うような……何とも哀しい、胸の奥から震えるような、なんとも美しい音が鳴りました。
残月はその笛を手に、山を下りて笛の工房へ行きました。黙って笛を親方の前にさし出すと、親方は残月を拳で殴り倒しました。
「この野郎、てめえで勝手に笛をこしらえやがって!!」
飯を盗んだ犬コロのように青年を殴り倒しておいて、それからまるで当然のように、笛をくわえて吹き出しました。
しかし、まったく音は出ません。そんなはずはない、と顔を真っ赤にして吹いていた親方は、とうとう吹くのをあきらめて、また残月をぶん殴りました。
「この野郎、おまえみてえな出来損ないがこしらえたから、見やがれ、音が出ねえじゃねえか!!」
しこたま殴られてほおを腫らした残月は、ふっと声もなく微笑いました。ぞっとするような笑顔でした。
思わず怯んだ親方の手から笛を奪って、残月は笛を吹き出しました。からからからと意思ある骸骨が嘲笑うような、世にも恐ろしい音がしました。
言葉を失った親方は、がたりとその場に倒れました。笛の音に気づいた職人たちが駆けつけた時には、もうとうに親方の息は絶えていました。口から泡を吹いていました。
その後いくら調べても、どうして死んだのか分かりません。毒を盛られた訳でもなし、病にかかっていた訳でもなし……誰がどれだけ調べても、これほどに急に死ぬ理由がないのです。
しかし残月の口から事情を知った人々は「鬼の呪いだ」とうわさしました。
その後、幾人もの物好きがこの鬼笛を吹きました。いくら吹いても音は出ず、吹いたそばから皆が倒れて死んでゆくので、ほどなく誰もこの笛を、吹く者はいなくなりました。
こうして月華の鬼笛は、本当に残月のものになったのです。
……ああ、わたしですか? わたしはその残月の娘です。わたしが五つの歳でしたか、親の目が離れたすきに鬼笛を吹いてしまったそうで……。
「残月の血を継いだ」ことで月華も赦してくださったのか、わたしは残月が老いて亡き現在、二代目の笛の吹き手なのです。わたしの跡は、わたしの息子が三代目を継ぐのでしょう。
……ええ、お察しの通り、残月は再婚したのです。
わたしの母とは、子どもの目には愛し合うように見えましたが……。
おそらく今は、死んだ父は黄泉に行き、月華と二度目の蜜月を過ごしているのでしょう。わたしは……わたしが老いて死んだら、宙ぶらりんの独りで黄泉にいるだろう、母と一緒に過ごしましょうよ。
しようがない……しようがないことですものね……。
* * *
そうつぶやくように言い、妙齢の美女はふっと淋しげに微笑した。それから鬼笛をそっと手にして、りゅうりゅうと笛を吹き始めた。
美しい音だった。けれど哀しい音だった。
鬼と人との痛くて甘い恋物語そのもののような……聴く者の胸を締めつけるような響きだった。
吹き終えた美女にぼくらはお礼に純金の小粒をいくつか渡した。「こんなにいただけません」と焦る美女の手に小粒を押しつけ、逃げるように屋敷を去った。
――本当は、鬼笛の音を「記憶」も出来た。
この時代に生きる人には信じられないことだろうが、ぼくらには鬼笛の音をいつでもどこでも聴けるようにする、魔法のようなことも出来る。
その気になれば出来たけど、ぼくらはあえてそうしなかった。
あの美しく哀しい音は、そんな軽々しく聴いていい代物ではないと、ぼくら夫婦が思ったからだ。
「……行こうか」
ぼくは妻に向かって手を伸ばし、たった一言口にした。
その一言に、あふれんばかりの想いを込めた。そのことが伝わったかのように、すみれはぼくの手をとって、つないだ右手に力を籠めた。
さあ、今度はどちらへ旅をしようか。
今度は楽しい昔話に出逢いたい。切なくとも、哀しくとも、最後にみんなが笑顔に変わる話が欲しい。
それがなかなかに贅沢なことと、ぼくらはもう痛いくらいに知っていて……知っていながら、懲りずに心から願いながら、手をつないで歩き始めた。
春先の優しい風が吹く。
その柔らかなあたたかさが、今はかえって物悲しかった。