てのひらサイズのエピローグ
その昔、ある人外の青年がいました。
彼はふつうのパンやスープ、肉や魚も口にはしますが、それだけでは生きてゆくことが出来ません。彼はいろいろな言葉やお話も「食べて」生きている、そういう生き物だったのです。
彼はそういう生き物なので、職業も言葉に関するものでした。彼は「お話工房」の、見習い職人だったのです。いわゆるこちらの世界での、小説家の見習いと言ったところです。
そうして彼には同じ種族の恋人がいました。彼女は生まれつき体が弱く、一年の大半をベットの中で過ごしていました。ベットの上から細い半身を起こすにも、絵に描いたようにぜいぜいと息が切れるありさまでした。
彼女は本が大好きでした。
そうして何より、彼の作る未熟なお話が大好きでした。
「いまだにお前は、こんな甘っちょろい小話ばかり作っているのか!」
毎日のように親方に頭から怒鳴られる、その甘っちょろいお話を、彼女はとても愛していました。
「近い将来、あなたの本が世に出たら、あたし一番に手に入れたいわ……」
そう信じ切って彼女が優しく微笑うたび、彼の胸はぽうっと温かくなりました。親方に怒りのあまり張り飛ばされて、切れた口もとの痛みも思わず忘れるくらい、彼女は彼の支えでした。
しかし、未熟な青年が一人前になる前に、二人に別れが訪れました。
彼が念願の「一冊目の本」を出す前に、彼女の命のともし火は、はかなく消えてしまったのです。
けれど、それでおしまいにはなりませんでした。彼女の魂が彼女の体を離れる前に、二人は約束をしたのです。
「ねえ、あたし必ず生まれ変わって、一生懸命あなたを探すわ。覚えてなくても、魂の底で覚えていて、必ずあなたに逢いに行くわ。だからあなたも、あたしのことを探してね……」
そうしてあなたの書いた本の、あたし一番の読者になるわ。
それがほとんど息だけの、彼女の最期の言葉でした。その言葉は彼の胸奥に甘いとげとなって突き刺さり、いつまでも消えませんでした。
彼は工房を辞めました。お話作りの修行をしながら、異世界から異世界を渡り歩いて、長い旅を始めました。彼女を探して旅をしました。
しかし、彼女は見つかりません。どれだけ旅を続けても、どれだけ異世界を渡り歩いても、彼女に巡り逢えないのです。
いつ逢える? どこで逢える?
君はいったいどこにいるんだ、どこで待っていてくれるんだ?
彼は気も狂わんばかりに、あちこちを渡り歩きました。死に物狂いでいくつもいくつもお話を作り、お話を語りながら「聞き賃」を土地の人にもらって、細々と旅を続けました。
それでも、彼女には出逢えません。
彼はとうとう考えを変え、「何でも屋」になりました。土地土地を回り、迷い猫探しからどぶさらいまで、悪いこと以外、お金になることは何でもしました。そうやって一生懸命働いて、異世界のあわいに一軒の店を構えました。そうしてその店のマスターになり、お話を作り続けました。
お話の好きな人だけがたどり着ける、異世界のあわいの喫茶店。お話の好きな彼女なら、いつかきっと向こうから訪ねてきてくれるはず……彼は待ち続けました。未熟なお話を書き連ね、夢のように不確かな空間の中で、来る日も来る日も紅茶を淹れて……。
そして今。
そして今、彼は再会したのです。
涼しい顔をしていても、ほおの裏側は熱い血でぼんぼん火照っています。指先が震えるのを抑えるのにも苦労するほど、胸はどきどき動悸を打っています。
一生懸命に平静を装って、今、彼はひたすらに待っています。
待ち望んでいた愛しい彼女と、今同じポットからお茶を飲み終えて……彼女が全てを思い出してくれるのを、目の前で待っているのです。……
* * *
短い話を語り終えたマスターが、恐いくらいに熱のこもったまなざしで、自分のことを見つめてくる。朱実は甘い驚きで、すぐには口もきけなかった。
「……あ、あたし……?」
「良いんだよ。ゆっくり思い出してくれて良い。なんせこちらはもう確信しているんだ、お話を味わっている時の君の表情、熱い瞳、ぽうっと熱の上がってくる桃色のほおで……間違いないよ。君は僕の、前世の想い人なんだ」
まるで柔らかい呪いのように、言葉が耳から心に沁みる。
信じない。
信じられない、そんなこと……。
そう否定したい思いもある。けれど目の前の青い瞳は、何ものをも跳ねのける靭さを帯びて、じっとこちらを見つめてくる。
逸らせない。
逸らす必要もないくらい、この瞳は美しすぎて……朱実は青いあおい瞳を魅入られたように見つめながら、やっと一つ腑に落ちた。
――ああ、さっきから、この瞳に魅かれていたのは。
「どこかで見た」と思っていたんだ。
「どこで見たろう」と思っていたんだ。
リールの微笑みがゆらり、歪んで、人外の青年はきゅっとくちびるを噛みしめた。
「……ああ、でも、僕は悔しい……僕は川端康成が憎い、君の心を射止めた本を書いた文豪が……」
笑ってしまいそうな気障な言葉を、しかしリールは本気の声音で口にする。その美しい瞳の奥に、ぎらぎらと青い光が燃えている。リールは獣のようなひたむきさでぐいと朱実の手を握り、熱っぽく言葉を吐き出した。
「だから朱実、どうか僕にも本を書かせてくれないか?
『掌の小説』には122編の短いお話が詰まっている。今日僕が作った話はたったの3つ……だから、もう119編のお話を作って、それを詰め込んで一冊の本に仕立てたら……」
青い瞳に甘い炎を滾らせて、人外の青年は燃えるような吐息で告げた。
「結婚してくれ。朱実……!」
文学少女は、目もくらむほどの愛を向けられ、酔ったように口を開いた。
体が熱い、心臓がばくばく動悸を打って暴れている。こんな、こんな時に応える言葉を、あたしは本で読んだことがない。どうしよう、何て答えたら良い?
分からないまま無我夢中で口を開く。口を開いたら、プロポーズへの返事の代わりにこんな言葉が溢れ出た。
「あたしも……、あたしも、今日からお話作る! 現実の世界にちゃんと生きて、あたしもいつか本を書く……だから、」
ふうっと一つ息をつき、朱実は恐いものを知らない若さで言い切った。
「だから、いつかお互いがお互いの、一番の愛読者になろう!」
リールの目の内の甘い炎が燃え盛り、生々しい強さで青年は少女を抱きしめた。食いつくようにがむしゃらにくちびるを求められ、朱美は焦って目をつむる。
舌と舌とを絡められ、吸われ、ほおを熱っぽい両の手のひらで押さえられ、そのどれもが不思議なくらいなつかしい。初めてなのに初めてじゃない感覚に、朱実はぼうっとかすむ脳裏でつぶやいた。
大丈夫。昔はきっと苦しかったけど、今はあたし健康よ。こんな「触れ合い」も辛くはないわ。
――ああ。何だかお話みたいだわ……あたしたちの過去と現在と行く末が、それ自体が一つのお話みたいだわ……。
それから後は、言葉もなかった。二人しかいない店内には新しく紅茶を注ぐ音もなく、店の看板のライトも、ひとりでにふっと灯を消した。
これでお話は、おしまい、おしまい。
――異世界のあわいに佇む喫茶店、『カフェ・オートクチュール』。
本当の本好きだけがたどり着ける、不思議な紅茶を供するお店……。さあ、今宵あなたも夢の中で、迷い込んでみませんか?
(了)