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*ほんとのパパと、

 悪魔には、過去の記憶がありません。


 山羊やぎのようなツノ、細長いしっぽ、真っ黒なコウモリのような羽根……。そんな姿で気がついたら地上をふらふらうろついていた、それ以前の記憶が一つもないのです。


 それでも彼は、まったく気に病んでいませんでした。人間を誘惑して堕落させる「お仕事」に、そんな事情はまったくしょうがないからです。


 彼は人間の魂をお手玉のように抜き取って、くるくる手のひらで転がしたり、地獄に送ったり、たまには遊び半分に噛み潰して消し去ったりして、気ままに暮らしておりました。


 そんな、ある月もない夜のこと。悪魔は暗い夜の底が、なにかぼんやり光っているのに気がつきました。


「何だ、ホタルのお化けかな? ずいぶんでっかい光だぜ……人間が置き忘れたランタンでもないらしい」


 悪魔はぷつぷつひとり言を言いながら、その光に近づきました。それは生まれたばかりらしい、まだ目もあいていない、天使の赤んぼうでした。


「ほう! こりゃあ珍しいものを見た……近頃ちかごろは天使も捨て子をするんだな!」


 その声にぴくりとまぶたを動かして、赤んぼうは声の限りに泣き出しました。そのあまりのうるささに、悪魔は天使を食ってやろうとあんぐりと口を開いて近づきました。


 と、赤んぼうはふっと大きな目を開きました。


 青色の星のような瞳でした。きらきらと潤んだ柔らかい宝石のような瞳でした。その瞳でじいっと悪魔を見つめた後、天使はとろけるような笑顔を見せて、小さな両手で悪魔のほおをぺちんぺちんと触りました。


 悪魔は大きな口の持っていきどころが、どうにも分からなくなりました。


「……ふん。今はこいつは小さすぎて食いでがないな。もう少し育ててから食うとするかな」


 誰も聞いてはいないのに、見えすいた言い訳をぼそりとつぶやき、悪魔は赤子を抱き上げました。


 子育ては本当に大変でした。悪魔はそこいらの牧場から山羊や牛やらのミルクを盗み、赤んぼうに飲ませました。赤ちゃんのいる人間の家から布おむつをしっけいし、汚れたおむつを川で洗っては、川べりに天気の良い日に干しました。


 そして何より耐えがたいのは、赤んぼうが泣く時です。

 天使はミルクがほしいと大声で泣き、おむつが汚れても大声で泣き、また淋しくて相手をしてほしいとぎゃあぎゃあ泣きわめきました。


 悪魔はそのたびに赤子を殺そうと、殺して食おうと思いました。けれどもそのたびに、自分を見てきゃっきゃと笑う赤子の顔を思い出し、どうしても出来ませんでした。


 赤んぼうは、だんだんと大きくなっていきました。ふわふわの金髪に青い瞳、光る翼を持った少年天使は、いつも本当に不思議そうに、悪魔を見てはたずねました。


「ねえパパ、なんだかぼくとパパとはずいぶん姿が違うねえ。パパは山羊みたいなツノに、ぺろんと細長いしっぽを生やして、コウモリみたいな黒い羽根だよ? ぼくらほんとの親子なのに、どうしてこんなに違うんだろう?」


 悪魔はそうやってかれるたびに、苦しく笑って応えました。


「そりゃあお前、お前はママに似ているからだよ。ママと俺とは、事情があってずいぶん昔に別れっちまったきりなんだけどな……お前はママ似だからだよ。お前の金髪や青い瞳や、光る翼はママに似たんだ」


 そう言って笑う自分自身が、この頃は本当に悪魔なのかと、不思議に思う時があります。


 最近は人間の魂もお手玉にして遊びません。天使の息子に野生の果物や野の花やらを、探して食べさせるのに忙しく「仕事」をなくしてしまったようです。


 そしてその上この頃は、「自分が昔手にかけた魂たちは、今頃どうしているだろう」なんて、考えることもあったのです。


 そうして「息子」を拾ってから、ちょうど六年が経ちました。


 珍しく息子がパパの髪を引っぱって起こさなかったので、悪魔は本当に久しぶりに朝寝をしました。そうしていつになくまぶしくて、血のように赤い目をしばしばさせながら、ううんとうなって目覚めました。


 目の前に、美しい天使がいました。

 さらさらの金髪を背に流し、真っ白なローブを身にまとい、背には光り輝く翼。若い女性の姿の天使に、「息子」が甘えて抱きついています。


 少年天使は呆然ぼうぜんとしている悪魔に気がつくと、とろけるような笑顔と弾んだ声で言いました。


「パパ! ママだよ! ママが迎えに来たんだって!!」


 悪魔はほんの一瞬、天使をどなりつけようとしました。


 何だ、今さら。今さら「迎えに来た」ったって、こいつはもう俺の息子だ。命が惜しけりゃケツまくって天界とやらに帰りやがれ――!!


 悪魔はぎゅうっと顔中にきつくきつくシワを寄せて、それからやっとのことで精いっぱいに笑いました。


「――やあ、こいつはどうも。まさかに天使は捨て子するワケがないと思っていましたが、やっぱり迷子だったんですか……! ほらボウヤ、その方がお前のほんとの母ちゃんだ。俺は悪魔だ、お前をあずかってただけのな。こんな醜い悪魔なんぞが、お前のパパであってたまるか!」


 悪魔は一生懸命笑いながら、力を込めた両目にいっぱい涙を溜めながら、天使の少年にバイバイの形で手をふりました。


「さ、天国に帰るといいや……天国ではな、きっとお前にそっくりの綺麗な父ちゃんが、お前の帰りを首を長くして待ってるぞ!」


 そう言ってまた無理やり笑ったひょうに、悪魔の真っ赤な瞳から、一粒涙がこぼれました。その顔を愛おしそうに見つめたまま、天使のママの青い目からも、ぽろぽろ涙がこぼれました。


「……あなた……この子の本当のパパは、あなたです……!」


 悪魔はおなかの底のそこからびっくりしました。あんまりびっくりしすぎたので、のどの奥からしゃっくりのような音がしました。美しい女天使は抱きつかんばかりの表情で、泣きながらこう明かしました。


「あなたは真実、この子のパパです、この私の夫です。ねえ、もう思い出して? ……あなたは六年前までは、天界に住む天使だったの。たまたま地上の宗教戦争に巻き込まれ、罪のない人をやむなくその手で殺してしまって、その罪で悪魔になったのよ……」


 悪魔の脳裏を、遠い影がよぎります。

 泣きながら叫びながら、戦争のただなかで人の命を奪った天使――。

 あれは、一体誰なんだ?


 天使のママは、うろたえる悪魔に近づいて、その手をとって口づけました。


「……神さまはこうおっしゃったの。『生まれたばかりの彼の子どもを地上におろして、六年のあいだ様子を見よう。六年経って、悪魔の彼が天使の心を思い出したら、天界に戻すことにしよう』……」

「……俺は……でも俺は……いろんな魂を手にかけて……」


 罪の重さに今度は苦い涙を流す悪魔のほおに、女天使は手を触れました。


 あたたかい手でした。

 なつかしい手でした。


「あなた、よく聞いて。あれは本当の魂じゃなかったの。あなたが天使の心を思い出すかの試練のあいだ、神さまがつかわした『おもちゃの魂』だったのよ……!」


 間近で見つめる女天使の青い瞳に、うるうると潤んだ自分の姿が映ります。


 悪魔にはもう、山羊のツノも長いしっぽも、コウモリの羽根もありません。

 ふわふわの長い金髪と、白い衣と、青い瞳と輝く翼……天使の姿の自分自身が、天使の妻の青い瞳に映っています。


 今はもう全てを思い出した天使のパパは、泣きながら笑いながら、めちゃめちゃに妻と息子を抱きしめました。


 そうして親子さんにんで、天界を目指して飛び立ちました。光り輝くさんにんの姿を地上から見た人間たちは「昼時ひるどきの逆さ流れ星だ」と指さして、驚きの声を上げたそうです。


* * *


「……いかがでしたか?」


 もうお決まりのような耳もとでの問いかけに、朱実は深く息をついた。息をつきながらこうべを垂れて、かすれた声で「参りました」と宣言した。


「『参りました』? これは勝負だったのですか?」


 青年が青い目を緩めて微笑わらう。朱実は濡れた目をぬぐいながら、照れ笑いしてこう答えた。


「いやあ……! 正直言って、負けを認めるのは悔しいけど……! 紅茶三杯でもう、お腹がぼがぼ!」


 マスターがぷはっと吹き出した。それからふいに今まで見せたことのない、不思議に真剣な顔をした。


「それでは、最後に一つだけ……ちょっとした昔話を、聞いていただけないでしょうか?」

「え? い、いやあ……」


 だから正直、紅茶四杯はキツいって……。


 笑いながら断ろうとして、朱実は口をきけなかった。じっと見つめる青い瞳が、恐いくらいの真剣さで自分の姿を映している。


 かすかな恐怖さえ感じながら、少女はうなずくしかなかった。リールはそれに応えるようにうなずき返し、おのれのくちびるを赤く開いて、言葉だけで最後の話を語り始めた。

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