*わたしのかみさま
少女の神さまは、たったひとりの神さまでした。
少女の祖先は昔、海をまたいである大陸に渡ってきたよそ者でした。異国から流れてきたよそ者たちは、その大陸に昔から住みついていた先住の民族を押しのけ、奴隷にし、いじめつけて大陸の端っこに追いやって、大きな顔をして「新天地」に住みつきました。
よそ者たちは文句なく、先住の者にとっては侵略者でした。
その侵略者たちは新しい宗教も持ち込みました。その新しい宗教はまもなくその大陸の「国宗」になり、もともと大陸に伝わっていた宗教は、残らず「邪教」にされました。
少女はそのよそ者の……侵略者の子孫なのです。そうして少女が産まれた時から「信じて」いたのは、言うまでもなく国宗でした。少女の信じる神さまは、国宗のてっぺんに君臨する、「唯一神」たったひとりだったのです。
そんな少女はある時に、両親とけんかして家出をしました。ちょっとしたミスをひどく咎めて、母親が使用人の女性のほおを力いっぱい叩いたのです。
「あんまりだわ、ママ! そんなに怒ることじゃないでしょう! 私だってたまにするわよ、そんなミス!」
「いいのよ、別に。こいつらは叩かなきゃ分かんないのよ」
ことさらに使用人を蔑むような言動に、少女は日ごろから溜めていた我慢が爆発しました。白いほおが真っ赤になるまで血をのぼせ、怒りのあまり何も言えずに、ぷいと家を出て行ってしまったのです。
去り際に見た使用人の女性の表情が、少女の脳裏にずっとこびりついています。ありがたいような困ったような、何とも言えない、どうにも気まずい表情でした。
泣き出したいような怒りにまかせて、少女はずんずん歩いていきます。
ふだんなら決して行かない街はずれの湖にまで来てしまい、そこで少女はがくんとその場にくず折れました。地面から飛び出した岩の欠片に、思いきりつまずいてしまったのです。
白い靴がみるみるうちに赤く染まっていくのを見て、少女は途方にくれました。と、ふいに少女のすぐ後ろから、綺麗な声が呼びかけました。
「どうしました? ……何か石にでもつまずきましたか?」
少女が長い金髪を揺らしてふり向くと、そこには一人の青年が心配そうにのぞいていました。肌の色は美味しそうなチョコレート色。髪は白銀のボブカットで、日の光を浴びて時々ちらちら光っています。
(ああ、綺麗な髪だわ……なにか鉱物の粉をふりかけてでもいるのかしら?)
少女は痛む足をかばいながら、ぼんやりとそう考えました。
青年は髪と同じ白銀の瞳を気がかりそうにまたたいて、怪我をした少女の足を包むように、両手でそっとさすりました。するとどういうまじないでしょうか、知らぬ間に足の血は止まり、痛みもひいてきたのです。
少女は本当に感謝しました。熱くなるほおに手を添えながら「お名前を教えてください」と問いました。青年はためらいがちに名を教え、「ぼくはあの神殿で、見習い神父をしています」とささやくように告げました。
青年の示す先には、異教徒の拝む神殿が白く丸く建っています。
「あれは……たしかこの湖の底に棲むといわれる、水蛇様を祀っている……?」
「……ええ。あなたがたからしたら『邪教』の神を、祀っている神殿ですよ……」
何とも言えない微妙な笑顔でそう言われ、少女はあんまり恥ずかしくて、顔から火を噴きそうでした。
『あんな神殿に行ってはいけません。近づいてもいけません』……。
両親はいつだってそう言って少女をたしなめますが、少女はちゃんと知っています。自分たちこそ、自分たちの崇める神こそ、この人たちにとっては「邪教」なのだということを……。
――ああ、私には分からない。
パパとママには、肌の色が違うことがそんなに嫌に見えるのかしら。今日だって肌の色が違うってだけで、お手伝いの人をあんなにひどくしかりつけて!
肌の色が白くったって、嫌な人たちはたくさんいるわ。
肌の色が濃くたって、良い方たちもたくさんいるわ。
たった今私を助けてくださった、この方みたいな人だって……!
そう考えた少女は、青年と少し話をしました。少女が家出のあらましを打ち明けると、青年は「あなたみたいなお方は、珍しい」と口にして、とろけるように微笑いました。
その笑顔があまりにも目に心地よくて、少女は「ああ、私は今恋に落ちたのだ」と胸の内でつぶやきました。
恋は青年の胸の内にも芽生えたらしく、二人はたびたび湖のほとりで待ち合わせて、話をするようになりました。
話をするたびに、胸は焦がれて甘く跳ねて、体の芯からピンク色に染め上がるような想いがして……少女は日に日に、青年のことしか見えなくなっていきました。
そして少女はその時十七歳でした。お嫁入りする年ごろでした。だから少女の両親は、さまざまな見合い話を持ってきました。そのたび少女は断りました。
十件目のお見合いは、土地の豪族の一人息子が相手でした。両親は今度こそと、無理にでも少女に「うん」と言わせようとしました。
少女は両親の目の前で、舌を噛み切ろうとしました。死ぬふりでも何でもなく、本当に死ぬ気で舌を思いきり噛みました。
あの青年が相手でなければ、決してお嫁に行くものか。肌が白いだけの、親がお金持ちなだけの、ただそれだけの相手のものになるのなら、死んだ方がよっぽど良い――。心からそう考えて、本気で舌を噛んだのです。
少女は口から鮮やかに赤い血を噴き、真紅のダリアの花開くように倒れました。愛しい娘の命をかけたその姿に、そこでとうとう両親の目が覚めました。
……少女は腕利きの医者の手によって、なんとか命を取り留めました。父と母はこれまでになく娘の話をよく聞いて、今までに思いもしなかった真剣な気持ちでうなずきました。
「それじゃあお前、その神殿の見習い神父に話をしなさい。そうして彼が、わたしたちの国宗に改宗するのなら、二人の結婚を認めよう……」
娘は笑いたいような泣きたいような心を抱え、湖のほとりに行きました。うわさを聞いて駆けつけた青年に、娘はひしと抱きつきました。そしてまだかすかに痛む舌を動かし、青年に「改宗」の条件つきで許された結婚のことを打ち明けました。
青年の白銀の瞳が、みるみる潤んでゆきました。青年は大粒の涙を流し、何度も首をふりました。
「ごめんよ、ぼくの愛しい人……ぼくは嘘をついていたんだ。ぼくには改宗なんて出来ない。だってぼくは……、」
青年の姿はみるみる内に大きくなり、みるみる内に黒くなり、うろこが生え、瞳はなおさら美しく、珠のように輝いて……するすると体を巻いた、美しい黒い大蛇になったのです。
「――だってぼくは、『邪教』の神様なんだから……」
声もなく自分を見上げる少女に向かい、黒い大蛇は白銀にきらめく瞳から涙を流して告げました。
「ぼくは、昔からこの湖の底に棲む、水蛇の神なんだから……!」
少女はただ呆然と、黒蛇を見上げるばかりです。大蛇は身悶えるように体をくねらせ、もろい真珠のような涙をぽろぽろこぼして続けました。
「ぼくには改宗なんて出来ない。それは自分自身で自分を否定することになる……もし君が、君の方がこちらに改宗してくれたら、ぼくは一生君を大切にする……けれども、こんなお願いは君はきいてはくれないだろう……!」
はたはたと涙を流す黒蛇に、少女はそっと近づいて、艶やかに黒いうろこを撫でました。思いもかけないその仕草に、神蛇はびくりと大きな体を揺らしました。
「私の神は……」
少女は黒蛇の、うるうる光る鏡のような瞳を見上げ、あたたかく微笑んで告げました。
「……今日この時より、私の神はあなただけです……!」
その言葉を聞いたとたん、黒蛇の姿は夢のようにしゅうっと縮み、人型の青年の姿になって、ぼろぼろに泣きながら少女にぎゅっと抱きつきました。そうして少女にキスしたとたん、少女の姿はみるみるうちに大きく変わり、見る間に二人は黒と白との大蛇の姿に変わりました。
白い蛇と黒い蛇、二匹の大蛇は絡まるようにもつれるように寄り添って、湖の底へと波立てて消えていきました。
それから神殿にまつる神蛇は、一匹ではなく、二匹の夫婦神になりました。そこから長い時間をかけて、白い肌と黒い肌の人たちの心の壁が、少しずつほぐれて溶けていきました。
今はチョコレート色の肌ではなく、淡いカフェオレ色の肌の子どもたちも、多く産まれているそうです。……
* * *
「……いかがです? お気に召しましたか?」
また耳もとでささやかれ、朱実はさあっとほおを染めた。それからむっとくちびるを引き締め、にらむようにリールを見つめた。
目じりに涙がにじんでいるのに、気づかれたくないからだ。……紅茶とお茶菓子と物語の生み出す甘美な幻影は、それだけ文学少女の心深くに響いたのだ。
「……ふ、ふん! まあまあねっ!!」
絵に描いたような強がりに、ふっとリールが吹き出した。おかしそうに口もとを右手で隠すその仕草に、朱実の負けん気にまた火がつく。
「むー、じゃあね! 次の掌編の条件はっ! そうね……迷子! 迷子の天使! 地上に落っこちてきた天使の赤ちゃんを、悪魔が見つけて育てるの! で、六年後に天使の母親が迎えに来るのね! そんでなおかつハッピーエンドっ!! これでどうっ!?」
鼻息も荒くまくし立てる朱実の様子に、リールはおかしそうに嬉しそうにうなずいて、新たな一杯を淹れ出した。
今度のお茶菓子は白砂糖の衣がかかって、粉雪をまぶしたような可愛らしいクルミが七粒。朱実はふんっと大きく鼻から息を吐き出して、次の一編を読み始めた。