エピローグ・悲しみは続かない
耳が壊れたのかと思った。
ミヒャエルは幽霊の愛娘の一言に、がっくり打ちのめされていた。自分の耳が信じられずに、年若いパパはくちゃくちゃな笑顔で問い返す。
「お別れ……だって? 嘘だろう? パパの聞き違いだろう? だって……」
言いつのるミヒャエルに、クリスは泣きながら首をふる。まるでめちゃくちゃに首をふり、乱れた髪もそのままに、決意を込めてこう告げた。
「――もう終わりなの。あたし、もうよそへ行かなくちゃならないの」
パパはどうしてよいか分からず、ただ呆然と娘の方へ歩を進めた。ミヒャエルの足の下、お供え物のパイが一切れ無惨につぶれて、ぐしゃりと湿った音を立てた。
クリスは涙を流しながら、無理やりにほおに笑みを浮かべる。痛ましいその笑顔のままで、パパへ現実をたたみかける。
「パパはいっぺん死んだ人。手首を切って、いっぺん天国へ来かけた人。だからあたしの姿が見えるようになったのよ……だからあたし、しばらくはパパのなぐさめになろうって、天国のひとたちにお願いして、六年の間お墓にいたの」
幽霊の少女は、白目を真っ赤に染め上げて、それでもやっぱり笑顔をやめない。これが最後の親孝行と、そう思ってでもいるのだろうか。塩辛い水に濡れたほおを日光に透かして光らして、パパに続けて語りかける。
「でももうタイムリミットなの。六年を過ぎて魂のままでいたならば、その魂は消えてしまうの……だから、だからあたし、もう行かなくちゃならないの……」
さよなら。
ありがとう。
その二つが重なって聴こえ、シャボン玉のような虹色が弾けて散って、もうそこには誰もいなかった。
――クリス。
娘の名を呼ぼうとして、声が出ないことに気がついた。
のどはからからに渇いていて、心もぱりぱりに乾いていて、言葉が口から出てこない。
「……クリス……!」
やっと口からこぼれた言葉は、誰の耳にも届かない。
返事はない。どこからも、誰からも、何の返事も返ってこない。こぼれた言葉がふくれ上がって、名を呼びながらの叫びになって、涙ににじんで嗚咽に変わる。
クリス。クリス。クリス――。灼けつくような言葉がのどに絡まって、のどの奥まで灼けついて、声を上げて泣くしか出来ない。
だから遺された父親は、日の沈むまで泣き続けた。秋の夜空にまん丸い月のかかるまで、まるで涙の袋みたいに。そしてしまいにゾンビさながらの足取りで、ふらふらと家に帰ってきた。
家には妻が待っていた。妻のラファエラは何も言わず、何も聞かずに、抜け殻の夫を抱きしめた。そしてあたたかく涙しながら、夫の耳もとでささやいた。
「あのね。赤ちゃんが出来たの……」
三か月よ。
それだけささやく妻の目から、また新しく涙が落ちた。ミヒャエルの目からも、再び涙がこぼれ出た。ミヒャエルはまるで初めてのように、妻の背中に手を回し、ありったけの思いを込めて抱きしめた。
冷えきった胸に、熱が宿る。ささやかな熱はじんじん大きくなって、息苦しいほどふくらんで、また目の裏がやけどしそうに熱くなって……、
「今まで本当にごめん」と「本当にありがとう」をまるで一緒に言おうとして、ミヒャエルは思いきりくしゃみをしてしまった。妻は泣きながら笑い出し、「紅茶を淹れるわ」と夫の鼻の頭にさわる。
「いったいどれだけクリスのお墓にいたのやら。……あなた、芯から冷え切ってるわよ!」
二人は熱い紅茶を飲んだ。カボチャのパイを食べながら、長いながい話をした。クリスのこと、生まれてくる赤ちゃんのこと……。
朝に焼いたきり、ずっと外気にさらされていた夜中のパイはさめきっていた。けれど、悪くない味だった。しっとりとした穏やかな甘さが、これからの暗示のようだった。
熱い紅茶も美味しかった。素直に「美味しい」と思えることが、嬉しかった。
(クリス)
心の中で呼びかけて、次に浮かんだ言葉は「本当にありがとう」だった。「ごめんなさい」ではなかったことが、涙ぐむほど、嬉しかった。
決して忘れる訳じゃない。忘れる訳ではないけれど、このまま立ち止まっていたら、クリスはそのことを喜ばない。
さあ、もうそろそろ前に進もう。生まれてくる子の瞳が水色であろうと、なかろうと、自分たち二人の愛しい子だ。生きていこう。きっとどこかで、クリスも見守ってくれている――。
その夜、ミヒャエルは六年ぶりに、微笑みながら眠りについた。
* * *
……やがて男の子が生まれた。父に似た小麦色の髪に、母親譲りのはちみつ色の瞳をしていた。
その赤んぼうに、二人は「シュリフト」という名をつけた。シュリフトもお話を聞くのが好きな子だった。焼きたてのカボチャのパイが大好きだった。
シュリフトが五歳になった頃、お昼寝をしていた時だった。少年は寝ぼけてベットの上で手を伸ばし、まるっきり女の子の声音でこう口にした。
「パパ、また水色の目の話して! あたしが『パパとおそろいなの』って言った時のお話よ!」
ありえない言葉だった。「シュリフトが重荷に感じないように」と、彼に亡くなった姉の話は、ほとんどしていなかったから。
両親は互いに目を合わせ、「話したの?」と互いに目と目で問い交わし、互い違いに首をふった。それから寝ぼけてふにゃふにゃ言う息子のことを、二人してめいっぱいに抱きしめた。
――そうして、後は……それだけだ。
ただ、それだけの話である。
その後シュリフトは何を思い出すこともなく、不思議なことを口にすることもまったくなかった。
けれどシュリフトは、言うまでもなく幸福だ。両親ともから二人分愛され、のびのびと育った少年は……今こうして、文章を書いて生計を立てている。
これが初めて書き連ねた、文筆家シュリフトの半生である。
(了)
* * *
ひととおり短文を書き終えて、シュリフトはそこでペンを置く。
と、『失礼しまーす!』と書斎のドアを元気いっぱい押し開けて、誰かが中へ飛び込んできた。シュリフトの娘の幼い双子姉妹である。二人は子犬のように息を弾ませ、競うようにパパを誘った。
『パパ! お茶の時間です!』
「あのね、パパ! 今日はね、おっきなカボチャのパイがあるんだよ!」
「ママとおばーちゃんが、『パパの本・十冊めが出たお祝い』にめちゃくちゃ大きなパイを焼いたの!」
「パパ大好きでしょ? カボチャのパイ!」
『だから早く! 早く行こー!』
そう言い終わるや、双子姉妹は待ちきれずにダイニングへと駆けていく。
『あー! おじーちゃんがパイつまみ食いしてるよおー!!』
「まったく……せわしないなあ!」
苦笑しながらのつぶやきに、自分でもはっきり分かるほど「まんざらでもない」響きがにじむ。
「……じゃあ行きましょうか、クリス姉さん」
自分で自分に話しかけ、シュリフトは淡く微笑んだ。
この言葉が正しいのかどうか、自分でもよく分からない。生まれ変わりなんてあるものか、自分でも丸ごとは信じられない。
けれど、今パパもママも幸せで、ぼくの妻も、双子の娘も幸せで。
だったら、たぶんそれでいい。「幸せなんていつ終わるか知れない」なら、幸せな内はめいっぱいそれを味わっても、きっと罪にはならないと……。
そう願いながら、シュリフトはダイニングに向かう。
そこにはかぼちゃのパイにかぶりつく父と、苦笑しながら見つめる母と、その横で微笑う自分の妻……。そうして、『おじーちゃん、だめー!!』と必死になって袖を引く幼い双子の姉妹がいた。
「まあまあ、僕も来たことだしさ。じゃあいただきますか、みんな!」
にぎやかに始まったティータイムに、双子の姉妹がパイ皮で口もとをめろめろにしながら、声を重ねて問いかける。
『ねーパパー、十一冊めの本も「可愛いろりーた」出てくるのー? そんで、モデルはあたしたちー?』
「ぶっ、何言うの! 違うよ、僕は普通に書いてるつもり! それは出版の人たちの売り出しで……って! ねえ聞いてる!?」
『聞こえてませーん!』
可愛くなまいきを言う幼い双子に苦笑い、シュリフトは改めてかぼちゃのパイにかぶりつく。
ほっこり優しく甘くって、ほんのりシナモンの香りもして……いつかどこかで、長くおあずけを食っていたように、おなかの底までじんわり沁みとおる味がした。
(完)