*妖精の友だち
どこかの星のお話です。
昔むかし、その星には「妖精」というものはいませんでした。それどころか、人間でない「人間のような姿をした生き物」などは、存在していませんでした。
それがいつの頃からか、ちらほらと妖精の姿が見られるようになってきました。
とんぼの羽根や蝶の羽根、可愛らしい顔立ちに小さな体……虫のようでもあり、羽根のついた小型の人間みたいでもある。
どうしてこんな生き物が、現れるようになったのでしょう?
答えは誰にも分かりません。
どこかの偉い学者さんは「何かが原因で、異世界とこの星との境界に孔が開いたのだろう」と仮説を立てました。でも、それだって本当か分かりません。
ただもうこの星には当たり前のように、妖精がとんぼや蝶と交じって、ひらひらと飛んでいるのです。
そうしてその妖精たちが、大好きな青年が一人いました。
青年は生まれつき「深くものを考えることが苦手」なほうだったので、二十歳を過ぎた今になっても、職らしい職にもついていません。
ただ青年は、妖精と友だちになるのが本当にうまいのです。青年は自分を馬鹿にしない、妖精たちが大好きなのです。その気持ちが妖精たちにも伝わるのか、青年がちょっとそこらを歩くだけで、妖精たちがきらきらと寄ってくるのです。
「人間よりも妖精に生まれた方が良かったんじゃないのかね」
口の悪い人などは、そう言って青年を嘲笑っていました。
そして青年は、かろうじて「仕事」をしていました。それは妖精の保護官です。おそらくは異世界からやって来た妖精たちに声をかけ、「保護センター」へ連れて行くのです。
もちろん「保護センター」での妖精の世話も、ぜんぶ青年の担当です。青年は妖精にたっぷりの摘みたての花をあげ、活きの良い蜜を吸わせるのです。そうしてしばらく保護しておいて、大人になった妖精を見分けて、上司の元へ届けるのです。
そうやって大人になった妖精でないと、異世界へ帰りつくのは無理なのです。異世界につながる孔をくぐり抜けるのは、大変なエネルギーがいるからです。だからきちんと大人になって力のついた妖精たちを、安全に向こうの世界に帰してあげるのです。
(――そう、そういうことなんだ。それがボクの「仕事」なんだ。だからボクは、保護官なんだ)
青年は何年も前から、ずっとそうだと信じています。彼は上司から聞いた話をそのままのみ込んで、細かい意味さえよく分からずに、納得をしているのです。
そんな青年は、いまだかつて一枚の金貨ももらった覚えがありません。多くの妖精を一日中そこらを歩き回って保護し、ほかの日は一日中野原を回り、汗だくになって花を集め、くたくたになって真夜中近くにはいずり込むのは、ぼろぼろの毛布一枚の中。
そうして与えられる食事は、焼きざましにさめきった古くて硬い、歯が欠けそうなパン一つ。それにぬるま湯のような具なしのスープ。それが一日二回です。
その毛布と、ゴミためのような寝る場所と、一日二回の硬すぎるパンと湯みたいなスープ。それだけが、彼が汗みずくになって働くことへの「報酬」でした。
それでも、彼は幸せでした。
(ボクのしていることは、大好きな妖精たちのためになること。どんなに「仕事」がしんどくても、妖精たちが生まれ育った世界に帰るためだもの。辛くはないよ。これっぽっちも)
彼は心底思っていました。
(あんまり頭が良くないから、産みの親にも捨てられた。そんなボクを拾ってくれた上司さんたち。そんなボクになついてくれる妖精たち。どんなにおなかが空いたって、辛くはないよ。つらくはないよ……)
本当は、彼は、つらかったのです。
けれどもきらきらの羽根ですり寄ってくる妖精たちに囲まれると、そんな苦労は嘘みたいに流れて消えてしまうように、毎日彼には思えるのです。
……たとえその感覚が、がちがちのパンに用心しいしいかじりつき、湯のようなスープをすする瞬間、あっけなく消え去ることのくり返しでも。
そんな彼に、ある時恋人が出来ました。
恋人と言っても、人間の恋人ではありません。艶やかに長い黒い髪、赤い瞳、とんぼの羽根の世にも美しい妖精です。
その妖精は草原で出逢った時から青年のことがお気に入り、彼が真っ赤になって「もうやめて」と音を上げるまで、熱烈なキスを浴びせました。
「なんで、こんな男のことがお気にいったの?」
青年が苦笑して訊ねても、妖精はただにこにこと微笑うだけです。青年は「こんな可愛い妖精と、自分と釣り合うわけがない」と、少し困っていましたが、妖精はそれにも知らぬ顔。
あんまりなつかれてしまったので、青年は妖精にこっそり名前をつけました。「フロール」という名です。ここいらの言葉で「花」という意味です。
青年はやがて、フロールと別れがたくなりました。日に日にフロールが大人になっていくことが、身に染みて辛くなってきたのです。
(大人になったら、お別れだ。だってフロールにとっては、生まれ育った異世界で生きていく方が、きっと幸せに決まっているから)
(――でも、ボクは? ボクはフロールと別れたら、彼女と出逢う前みたいに、何にもなくてふつうに生きていけるんだろうか? 硬いパン、さめたスープ。汗だくになって集める花。ぼろぼろの毛布。ゴミためみたいな寝る場所と……)
(……それしかない。それしかない毎日を、平気で生きていけるんだろうか?)
青年は、それを思うだけで心が苦しくなりました。疲れのあまりに寝つきの良かった性質も、今では冗談だったみたいに寝つきが悪くなりました。
そうしてある夜、名案を思いついたのです。
「そうだ……そうだ! ボクも異世界に送ってもらおう!」
そうです、フロールが大人になったら、自分も一緒に異世界に送ってもらえば良いのです!
妖精の小さな体でも大丈夫なら、人間のボクでも大丈夫! 異世界に飛ぶショックにはきっと耐えられる! そうして異世界に飛んでいったら、フロールのためだけに生きていこう! 可愛い瞳、長い髪、優しさのかたまりみたいな彼女と一緒に生きていこう!
そう考えれば、もうフロールが大人になるのが待ち遠しくてなりません。日に日に赤く色づいていくくちびるも、目のふちがうっすらとピンクがかっていくのも、愛しくて愛しくてなりません。
そうしてついに、フロールは大人になりました。
ちょうどその日に、青年は上司に呼び出されました。「フロールを連れて、接待室に来るように」と言うのです。
青年は訳も分からないまま、フロールを連れて行きました。ただ来たるべき明るい未来に、瘦せこけたほおをほんのりと色づけて。
接待室の絹張りのソファーには、知らないおじさんが座っていました。おじさんはフロールを見るとにんまり笑い、「これはこれは」と言いました。青年は何だか分からずに、ただもう本当に嫌な気持ちがしました。
するとおじさんはモーニングコートの腕を伸ばして、フロールをむんずと掴まえました。そして嫌がるフロールを大きな口に押し込んで、青年が止める間もなく、むしゃむしゃと食べてしまったのです。
声もなく立ち尽くす青年の前で、おじさんはいかにも美味そうににたりにたりと笑いました。
「ううむ、さすがに上物だ……妖精も美人なほど味も良いというものだが、その言葉に違わんな……! うむ、うむ、美味いのう、うまいのう!」
そう言いながらおじさんはしばらくもぐもぐしていましたが、やがて口を動かすのをやめました。再び開いた口の中には、きらきらと光るとんぼの羽根のかけらがそちこちにくっついていました。
青年は獣のような叫びを上げて、おじさんに掴みかかりました。栄養をたっぷり摂って体格の良い上司が、彼をその場に組み敷きました。
「こらこら、お客様に何をする?」
「……そいつ……フロールを食った……ボクのフロールを!」
「『ボクのフロール』? はは、何を言うのかね。お前は食肉検査官! 妖精はみな『妖精肉センター』の所有物! 一匹残らず会社の商品だ!」
「……肉……センター? ここは妖精の保護施設だろう? ボクは大人になった妖精を、元の異世界に帰すために……」
メガネをかけた上司は、ここでいかにもおかしそうに声を立てて笑いました。
「保護施設? 馬鹿だなお前、昔わたしが言ったでたらめを、そのまま信じていたのかい! お前な、今じゃあ妖精は重要な肉資源なんだ。そこらで遊んでる子どもだって知っている!」
「……何じゃこいつは。そんなことも知らんとは、本当にこの星の人間なのか?」
びっくりから回復して、おじさんはモーニングの襟を直しながら、いまいましそうにつぶやきます。上司はうやうやしくそのおじさんに言いました。
「そうなんですよ。妖精を手なずける能力だけはあるもんで、会社で飼っていた奴でして」
そう説明した上司は、また偉そうにふんぞり返って青年に顔を向けました。呆然としている青年に、上司はさっと首切りのポーズをして見せました。
「解雇だ。分かるか? 首だよ、クビ! 『上物の妖精を踊り食いしたい』とおっしゃって、わざわざセンターまで足を運んでくださったお得意様。そのお得意様の首をしめようとするなんて、とんだ性悪の飼い犬だ! ほらもうここに居る資格はない、どこにだって行っちまえ!!」
その時の青年の心持ちを、何と例えたらよいでしょう。
青年がどん底だと思っていたのは、まだまだ浅瀬だったのでした。底の底が抜けて、青年の体は奈落へと吸い込まれてゆくようでした。
青年は意味の取れない叫びを上げて、「肉センター」を飛び出していきました。走って走って、何もない野原でけっつまづいて、転んだ拍子に舌を噛み切って死にました。
青年は、自らの死を選んだのでしょうか。
青年がいなくなってしまった今、それは誰にも分かりません。
彼が死んだ後、死体を片づけようとするものはありませんでした。肉づきの良い美女ならともかく、痩せこけた青年の死体を食べようとする者などありません。死体は野良犬に二三口かじられたまま、打ち捨てられてじくじく腐ってゆきました。
そうしてそこから何かの芽が出て、見も知らぬ花が咲いたのです。その花は本当にか細く赤く、妖精の頭の飾りになりそうなくらいに、小さなちいさな花でした。
その花は今までその星に存在しなかったものですが、みすぼらしい花なので、誰も相手にしませんでした。
その花はじわじわ分布を広げていき、それからわずか数十年で世界中にはびこりました。
世界中で死ぬ人が増えていきました。
人々は必死で原因を探りました。そうしてついに、人々の死の原因がその赤い花にあることを、今さらになって知ったのです。
赤い花は毒花でした。
人々はもう必死になって、毒花を死滅させようと挑みました。しかし、その花の繁殖力は強すぎて、もう誰にも止めることは出来ません。
どうしたものか、花の毒は人間にしか作用しません。人間はどんどん花の毒で減っていき、その度ごとに妖精も動物たちも、嬉しげに行動範囲をどんどん広げていきました。
おしまいにはもう、人間は一人もいなくなりました。
その星にはもう、妖精と動物たちしかおりません。彼らは食い、食われながらも「人間から解放された同胞」として、のびのびと暮らしているのです。
草食の生き物は赤い毒の花を食べ、花を食べた生き物を肉食のものたちが食べるのです。そうして今でも暮らしています。
世界中に広がった毒の花の色が映えて、その星は宇宙から見ると、美しく赤く見えるそうです。……
* * *
語り終えた父親は「また暗いめのお話だったね」と、謝るそぶりで微笑んだ。
幽霊の娘は何とも切なげな顔をして、ほうっと一つ吐息した。父親はちょっとあわてて「つまらなかったかい?」とすがるように問いかける。
黙って頭をふったクリスは、一種覚悟を決めたように口を開いた。
「パパ。……あたし、パパのお話が聞きたい。パパ自身のお話を。パパがどんな風に生まれて、どんな風に育って……どんな風に、あたしを失ったのかの話」
父親はぐっと黙り込み、顔を覆って深くふかく息をつく。
二三べん大きく首をふり、しばらく考え込んでから、ようやく肚を決めたそぶりで、自分の話を語り始めた。……