ファースト・プリズム
夜桜が、見たかっただけなのに……。
咲夜花はあっけにとられたままで、映画館の中にいた。
……片田舎にひとり暮らし、「いちおう」が頭にくっつくイラストレーター。
生まれて二十五回めの春、一仕事終えて夜の散歩に出たはずだった。自分の名前つながりで子どもの頃から親しみのある、夜桜を見に……近所の公園に来たはずだった。はずなのに、何でどうして、今こんな映画館の中?
視界には暗いスクリーン、すわった椅子は赤い絹張り、客は他には誰もいない。空気はあたたかく湿っていて、透けるもやがかかったみたいで、何だか夢を見ているような……。
とまどう咲夜花のすぐとなりに、いつの間にかすっと人影が近づいていた。ぎょっとするこちらになだめるそぶりで微笑いかけるのは、背の高い細い青年だ。
青年はその骨ばった手に、大きなカップのポップコーンとコーラの瓶を持っている。ちょっと落ち着いてよく見ると、その人こそが映画俳優みたいに美しい。
背の高い、金色のさらさらの髪をした……綺麗なひとだ。その青い目が、恐いくらいに美しい。何百年、何千年分の嬉しさも悲しみも味わってきたような、深い色をした、美しい瞳。
その目に見惚れる咲夜花に向かい、青年は小首をかしげて妙にしみじみはにかんだ。
「……驚いておいでのようですね。当館は夢とうつつのあわいに佇む……幻のような映画館です。わたくしはここの館長です……」
「……か、館長さん?」
瞳に魅入られてしまったように、その目から目が離せない。言いたいことはたくさんあるはずなのに、口を開いても、何も言葉が出てこない。
そんな咲夜花にコーラの瓶とポップコーンを手渡して、館長は切れ長の目をなお細めて静かに微笑う。瞳の呪縛がそれで少しだけ薄れたように、咲夜花はようやく長く息を吐き出した。
「……お客様、ようこそいらっしゃいました。あなたは近所の公園に、夜桜を見にいらしたのでしょう? その道のとちゅうに、夢とうつつにほころびが開いて、たまたま迷い込んでいらした……あなた様は、『迷い子のお客様』なのですよ」
「ま、……迷い子? 帰れないの、わたし?」
「ふふ、いえいえ、もちろん元の世界には帰ることが出来ますよ……」
言いながらその青い瞳に、ちらっとわずかな翳がさす。それを不思議に思う間もなく、館長はなめらかに、歌うように言葉を紡ぐ。
「……ただ、当館は映画館『エンド・プリズム』ですからね。出来れば散りぎわの夜桜のかわりに、一晩わたくしに付き合って、映画などご覧になっていただきたいと……つまりはそういう訳なのですよ……」
そう言いながら微笑む顔が、何だかひどく弱々しく、どこか泣き出しそうにも見える。
「……ずるいわね、館長さん……」
「わたくしが、ずるい? どうしてですか?」
「だって……そんな表情見ちゃったら、『嫌だわ、帰る!』なんてとっても言えないじゃない!」
「そんな、かお……?」
全く意識していなかったらしく、館長はちょっとあわてたように自分のほおを触り出す。そのしぐさがとても子どもっぽく見えて、咲夜花は思わず吹き出した。
瞳の異様な綺麗さも、そのまま美しく思えるけれど……今は親しみも大きく感じる。今までの人生、何度もどこかで出逢ったような。といっても本当に逢っていたなら、こんな美人、忘れるはずもないのだけれど……。
「いいわ、綺麗な館長さん。夢とうつつのあわいの映画、一晩付き合って見てあげる……でも! 夜が明けるころには、ちゃんと元の世界にわたしを帰してね!」
「ええ、それは、それはもう……!」
変に何度もうなずいて、館長は手に持った小さなスイッチを押す。目の前のスクリーンに光が入り、一作目の映画のタイトルを映し出す。
――『物語集むる物語』……。