第一話
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どこで、私は間違えてしまったのだろう。
列車の景色を眺めながら、私は考える。
私には大好きな婚約者がいた。
二つ上の優しい兄のような存在の人。
ケーキ屋の跡取り息子ということもあり、手先も器用で、彼がスイーツを作るとき、魔法をかけているような錯覚に陥ったものだ。
パティシエとしても幼なじみとしても、婚約者としても大好きだった彼。
私は彼の横に並ぶに相応しい女性になれるように綺麗なれるよう努力した。
アラザンの果物ように彩られた爪先。
お皿に果物のようにカラフルな髪色。
お菓子のように甘い香水を身に纏った。
二年遅れで彼と同じ専門学校に行けるようになり、薔薇色の学園生活が送れると信じていてたのだ。
しかし、現実は違った。
彼の隣には私の同級生である女が立っていた。
レストランやパティスリーの実家ではない、どちらかと言えば貧しい家の出。
お菓子作りが好きだからと言って、入学してきた彼女はあっという間に私の手から彼を奪った。
……いや、奪ったと言う表現は相応しくない。
彼女は最後まで私の顔を立てようと身を引こうとしたのだ。
彼も婚約者ではない女性に惹かれたことに自責の念を感じていた。
『すまない、俺は君を愛することが出来ない。恨んでくれて構わない。俺たちが結ばれてもきっとお互い幸せな未来は描けない。』
そう言った彼の表情は苦渋に満ちた表情だった。
こうして、私達の婚約は破棄となった。
でも、私の転落はこれで終わりではなかった。
私の父は破談になり精神的にボロボロになっていた私にこう言った。
『衛生的でない爪、染色した髪、強い香水。お前の化粧もそうだが、お前はこのレストランの料理人に相応しくない。』
街で有名な五つ星レストランのオーナーシェフである父は私にそう言って、後継者の権利を剥奪した。
そして、両親に内省をするように言われた私は列車に乗って、遠い地方で農業を営む親戚の元へ向かっている。
全て私が招いたこと。
それでも、私は彼が好きだったのだ。
恋は盲目。
私の場合、恋にのめり込み過ぎたのだった。
きっと、もう私が恋をすることはないだろう。
そう思った時だった。
急に列車が大きく揺れたと思ったら、視界が反転した。
そして、鋭い痛みと強い衝撃で私は列車が脱線したのだと分かった。
窓から身を投げ出されて、私は海に落ちた。
どうしてこんなことになってしまったの?
私はただ、人を好きになっただけなのに。
もう一度やり直したい。
そうすれば、もう恋なんてしないから。
海に飛び込んだ時、私は強くそう願った。
そこからの記憶はない。
目が覚めた時。
そこには、見慣れた天井があった。
私の部屋の天井だ。
あんなことがあったのに、私は助かったのか、と上体をゆっくり起こす。
電車から投げ出され、海に落ちたというのに痛みはない。
気分も悪くない。
私はどれだけ眠ったのだろうか。
長時間眠った時の独特な倦怠感と頭の鈍痛もない。
ベッドから身を起こし、ふとスリッパを見ると違和感があった。
このスリッパ、かなり前に捨てたのではなかっただろうか?
違和感を感じながら、スリッパを履き、ベッドの隣にある姿見を見て、ギョッとする。
これは、三年前の私だ。
おかしな話だが、直感的に分かったのだ。
染めていないブロンドの髪。
カラーコンタクトの入れていない碧い瞳。
爪先もネイルをしていない自然なピンク色。
どことなく、幼い顔。
……私は十三歳の頃の私に戻ってしまっている?
頭が混乱する。
これは、どういうことだろう。
カレンダーをふと見る。
八月だ。
ということは、私が中学一年生最後の休み。
そして、彼と婚約をする時期だ。
二十日に大きく赤く丸印で囲ってある。
私はその印を指でなぞる。
毎月指折り数えて待っていた私達の婚約記念日だ。
私があんなことを願ったから、神様はもう一度チャンスをくれたのだろうか?
そんなことを考えていると、扉をノックする音が聞こえた。
扉を開くと、母が立っており、少し驚いたような表情をした。
「あら、貴女。まだ着替えてなかったの?もうすぐ、貴女の大好きな幼なじみが来るというのに。昨日、遅くまで服を選んでいたから寝坊しちゃったのね?」
うふふ、と母は笑う。
混乱した頭で、私は母に問う。
「……ねぇ、お母様。今日は八月二十日?」
私がそう尋ねると、母はキョトンとした表情をした。
「そうよ、貴女の大好きな幼なじみが遊びに来る日。今日は特別な日になるわよ。楽しみにしておいてね。」
母は弾んだ声で、私の着替えを手伝う。
私はこの状況に未だ困惑しながら、着替えを進める。
私の母と幼なじみの母は学生時代の親友であり、私の父は幼なじみの父のパティスリーを気に入っており、融資を受け入れる代わりに、二号店を父のレストランの中に併設するよう提案するのだ。
その関係で、話の流れで、私達の婚約話が出来上がったのだ。
互いの母は仲が良く、父達もビジネスパートナーとして協働しようとしている。
その中で自分達の息子と娘が婚約すれば、将来も安泰ではないか。
きっと、そんな風に考えたのだろう。
サプライズで提案された婚約だが、元々彼が大好きだった私は二つ返事で承諾した。
その時、私は自分のことで精一杯で彼のことを見ることも出来なかったが、彼はこの婚約を喜んでいたのだろうか?
五つ星レストランのオーナーシェフの娘と地元に愛されるパティスリーの息子では、私の家の方が地位は上なのだ。
私が承諾してしまえば、彼はそれに倣うしかない。
もしかしたら、この時点から彼は乗り気ではなかったのかもしれない。
私は決意を固め、母がカールしてくれた髪を一つ結びにした。
「せっかく可愛くしたのに、結んじゃうの?せめて、ヘアアクセサリーはつけていったら?」
「ううん、これでいいの。」
私がそう言うと、母はしぶしぶ引き下がった。
私は非現実的な状況をとりあえず受け入れることにした。
そして、今度こそは間違えない。
オーナーシェフの娘として、一人の料理人の卵として、私は恋にうつつを抜かすことはしない。
まずは、今日を乗り切るのだ。
婚約を結ばなければ、私も妙な期待や自信はつかないだろう。
私は身支度を済ませ、母と一緒に彼が待つ談話室に向かった。
談話室に入ると、父の向かいに座る彼と彼の両親がいた。
彼は私に気がつくと、いつものような優しい笑みを浮かべた。
胸の鼓動が早まる。
あんなことがあったのに、私はまだ彼のことが好きなのだ。
それでも、封じなければ、婚約者の彼が取られてしまう嫉妬と憎悪と怨恨の念で身を滅ぼしてしまう。
私は彼と向かい合うように座った。
今から私は最初で最後の恋をした彼との婚約を破棄する。
「……どうだね?私達は賛成している。あとは、本人達の意向に任せたいと思う。」
決意を固めるために色々考えていると、話があっという間に進み、本題に入っていた。
私はあの時、間髪入れずに了承してしまった。
だから、今度は彼の反応を伺うことにしたのだ。
しばらくの沈黙の後、彼は決意したような顔をして、深くお辞儀をした。
「……私で良ければ、ぜひお受けしたく存じます。」
畏まった言い方をした彼に、私は胸がチクリと痛んだ。
きっと、被害妄想だ。だけれど、彼の言葉はまるで感情がないように伺えたのだ。
これが、政略婚約だと受け止めているのだ、そう私は感じた。
「……私は、早すぎると思います。」
彼の言葉に私は後押しされ、婚約破棄する勇気が出来た。
そこに居たものは一瞬ぽかんとして、それからすぐに大人達は困惑したような表情をした。
クリストファーは少し驚いたような表情をしていたが、内心どう思っているのかは読めなかった。
「お前はこの婚約は時期尚早だと?」
父にそう尋ねられ、私は頷く。
「ええ、私はまだ十三歳で、彼はまだ十五歳です。私達はまだ未熟です。これから、一人の人間として、料理人として、パティシエとして、色んな経験を積んでいくと思います。婚約はその後でも良いと思うんです。」
もちろん、彼は私には勿体ないほど、とても魅力的な方ですが、と付け加えて、私は口を閉じた。
「……確かにお前達はまだ若いからな。この話は早過ぎたかもしれん。」
「では、この話は白紙としますか?」
「いや、あくまで『保留』にする。」
彼の父からの問いに父は首を振った。
婚約保留。
私は成約か破棄かの二択しかないと思っていたので、その回答に眉を顰めた。
父は私の表情を見て、苦笑いをした。
「そんな顔をしないでくれ。あくまで、私達はお前達の意見を尊重したい。だから、この3年でこの婚約をどうするか決めてもらう。お前が言ったように研鑽を積んだ上で、決めて欲しいんだ。どうだ?」
私と彼はお互いの顔を見て、頷いた。
「もちろん、お前達は学生としての務めもあるだろう。そこで、私達から提案するのは一つだけだ。毎月二十日は二人の交流を深めるよう、どこか出掛けるように。ただし、過度な接触は控えるように。」
私と彼は外に出るように促され、ティーセットを持って、庭園に出た。
おそらく、大人だけで話したいことがあるのだろう。
「……向日葵が綺麗だな。」
彼は私に気を遣わせまいといつものように明るい様子で世間話を始めた。
「八月ですからね。今が見頃です。そうだ、この前、クッキーと一緒にエディブルフラワーを砂糖漬けにしたんです。上手く花の香りを残せたので、よかったら試食しませんか?」
私も極めて普通を装い、会話を続ける。
そういえば、彼と会話をしたのは、いつぶりだっただろうか。
専門学校に入れば、増えると思った会話もコースが違い、すれ違いもあったので、会話はほとんどなかった。
今回みたいな月一の定例会のようなものも設けなかったので、デートなど指折り数えるかその程度だった。
「今、取りに行きますね。ついでに、紅茶も新しいものを淹れてきます。」
私はキッチンに向かう途中で、談話室の会話を盗み聞きした。
「……でも、あの子が婚約を断るなんて意外だったわ。いの一番に頷くと思ったのに。」
「そうねえ。まぁ、でも年頃だから、もしかしたら、他に良い人がいるのかもよ?」
「もしかしたら、後を継ぐために、頑張ろうとしているのかもしれない。」
「どうだろうな。今時の子は何を考えているのか分からんからな。」
私は足音を立てずにゆっくりその場を離れた。
話題は私達の婚約の保留で持ちきりだったが、そこまで深刻な様子はなかった。
そのことに、私は安堵の息を漏らした。
私はお湯を沸かした後、昨日、彼に喜んでもらうために作ったエディブルフラワーと紅茶と珈琲の味がするクッキーを小皿に並べ、とっておきの茶葉を出して、淹れる。
私が変わることで、私の世界はどれだけ変わるだろうか。
「お待たせしました。庭で栽培した無農薬のミントやビオラ、ローズ、スミレを砂糖漬けしたものです。クッキーは紅茶と珈琲味です。こちらは、甘さは控えめにしております。」
「お、美味そうだな。見た目も花びらの色がそのまま綺麗に残っているな。」
「紅茶はアールグレイにしました。」
「うん、美味いな。クッキーも紅茶や珈琲の味が引き立っている。」
「……良かったです。」
しばらく、沈黙が続いた。
お互い、婚約のことに関して話したいが、どう切り出せば良いのか分からないと言った形だ。
ここは、断った私が切り出すのが正しいだろう。
「……婚約のことですが、私は決して貴方が嫌いだから婚約を破棄したわけではありません。ただ、お互い生涯を遂げる相手を決めるのは尚早かと思いまして……まだ、料理人やパティシエとしても専門知識を学んでおりませんし。」
「……そうか。どちらであれ、俺は君が無理をしない選択をしてほしい。少なくとも、俺は君のことを大切に思っている。」
その言葉に私は無意識のうちに涙が出た。
大切に思っている、なんて、前の記憶では一度も言われたことがなかった。
関係を早く進めすぎたせいで、大事なことをおざなりにしてしまっていたのかもしれない。
慌ててハンカチで私の涙を拭う彼の手をそっと握る。
「……ありがとうございます。改めて、これからよろしくお願いします。」
「ああ。こちらこそ、よろしくな。」
私の名前はローズ・リシャール。
五つ星レストランのシェフオーナーの娘。
そして、幼なじみクリストファー・ガリシアの仮の婚約者である。
これは私の二回目の人生。
初恋の人との婚約を保留にして、自滅をすることを防ぐ為のやり直しの物語だ。