貴文と美智子
夕暮れ迫る頃、諸岡は百貨店裏の花屋の前で立ち止まっていた。この時間に「桔梗」を訪れるなら、手ぶらではいかにも無粋に思われたのだ。同時に、早乙女老人に対抗する気持ちも少しあって、前々から自分も美智子に花束を渡してみたいと思っていたから、花を求めること自体に躊躇いはなかった。
だが、残念なことに諸岡は女性に花束を贈ったことが一度もない。青白い顔で花盥を順に眺めてはいるが、花の良し悪しなどわかるはずもない。店番にどれがいい？と尋ねるのも憚られ、かれこれ十五分も黒縁メガネの縁を上げ下げしながら盥の中を覗いている。そしてようやくりんどうを指差し、これは日持ちするのかと店番に訊いた。
ところが店番は男の問いには応えず、ただ穏やかな笑みを返すばかり。諸岡はちょっと困ったという風に首を傾げたが、それでも返事がない。とうとう諦めて、りんどうを数本抜き出して店番に差し出した。
店番は男の選んだ今が盛りのりんどうに、まだ咲き揃わない幾本かを付け加え手際よく束ね始めた。店番の手にかかると花々がシャキッと首を持ち上げ生気を取り戻すように見えたから、男は手品でも見ているような気になり、思わず、ほぉ、と感嘆の声を上げた。
出来上がった花束を受け取りながら、満足顔の諸岡が値段はいくらかと訊ねるが、店番はにこやかな顔を向けるだけ。彼はとうとうわかったわかったというふうに何度か頷き、財布から千円札を二枚抜き出すと、黙ってテーブルのカゴにそれを入れた。ありがとう、素晴らしい出来栄えだ、男はお世辞抜きに店番を褒め称えたが、店番はやはり無言のまま穏やかな笑みだけを返した。
諸岡は上機嫌で路地を歩き出した。だが、花束の出来栄えに本当に二千円ぽっちで良かったのか気になり店を振り返る。ところが、店番を見て急に驚いた顔になる。首を回して周囲の様子に変化はないか確かめるが、何の変化もない。ただ広い空き地を背にした静かな佇まいの花屋があるだけだ。合点のいかぬ男は、もう一度店先に戻りかけたが、腕時計を見て立ち止まり、何度も首を捻りながら先を急いだ。
「あら、いらっしゃい。早いわね」
桔梗では美智子が暖簾の奥から顔だけ出して男を出迎えたが、料理の仕込み中ででもあるのか、すぐにキッチンに姿を消してしまった。諸岡は少し残念な顔になり、カウンターの一番奥にひとり分のスペースを空け、その隣に腰を下ろした。
「先生と約束？」
カウンターを拭きながら美智子が尋ねる。
「いや。だけど先生の席をオレが占めるわけにもいかないから…… あっ、これ」
そう言いながら男はりんどうを差し出した。すると美智子はそれを受け取りながらニヤリと笑う。
「無難な花を選ぶのね」
老教授が避けたというりんどうを、老人の半分の歳にも満たない彼が選んだ事が妙に可笑しかったのだ。
「そんなに変か？」
「キレイなお花だけどね。先生は選ばなかったのよ」
「代わりにそのガーベラを選んだ訳だ」
白磁の花挿しの中で教授のガーベラは未だ色を保っている。
「いい色合いよね。ガーベラなんてありふれた花だけど、色の組み合わせ次第でとても華やかになっていいわ」
「済まないな、無粋な単色で」
男はふて腐れた顔になり、使い終えたおしぼりをポイと投げ置いた。
「ううん。ホントはね、りんどうが好きよ。こっちの方がしっくりくるのよ、私には」
「そうだと思ったからオレは選んだ」
男は機嫌を直し、おしぼりを几帳面に畳み始めた。
「だから先生は選ばない」
美智子がガーベラに表現のしようのない艷やかな目線を向けた。それがあまりにも意味ありげで、男は引き攣った笑いを畳んだおしぼりで隠すしかなかった。
「先生はいつまでも色男だからな。とても敵いません」
「そうね。いくつになっても男の色気がある人だわ。凭れかかったら受け止めてくれそうな安心感があるもの」
どうやらこのまま花の話を続けても自分より老先生のカブが上がるだけだと判断した男は、おしぼりを投げ出して花屋の店番のことに話題を転じた。
「それにしても花屋の婆さんの手際は凄いね。見てて惚れ惚れした」
「そうなの？ 先生も店番のお婆さんって言うんだけど、私は見かけたことがないんだよね」
「いつもは小学生くらいの女の子が店番してるよな？」
「そう。夜遅くまで店番させてるから、いいのかなぁって毎晩思うんだけど。お婆さんが一緒なら問題ないのかしらね？」
「う～ん、どうだろう。まあ狭い店のようだし、さっと奥に隠れれば問題ないのかも。今もあっという間に老婆が少女と入れ代わるから、びっくりしたけど」
「フミちゃんを驚かせても何の得にもならないだろうにね」
「そうだよな。だから確かめようと思って一旦は引き返したんだけど、馬鹿馬鹿しくなってやめた」
諸岡は笑いながら美智子が活けたりんどうを眺めている。艶やかなガーベラもいいが、楚々としたりんどうもこの店には似つかわしい。男はようやく満たされた気分になってきた。
ふたりは打ち解けた関係だった。いわゆる男女の関係ではないが、諸岡は自分こそ美智子の一番の理解者だと自負している。実際、美智子はこの男に洗いざらいのことを話していた。正確に言うと、LINEを使ったやり取りで文字にして伝えていた。顔が見えない分、何でも言える気安さがあったことに加え、諸岡は編集者として言葉や文字の扱いに慣れているせいか、的確な言葉で返信してくるから、美智子はそれこそ誘われるままに心を開いていったのだ。
だから逆に現実世界の諸岡には違和感があってどこか物足りなさを感じている。リアルな私に、リアルな彼自身であればいいのにと思うが、諸岡は中途半端な場所に留まり続け、美智子はそれが焦れったい。
だが、諸岡にすればそれは無理な話で、事情がどうであれ人妻である地位を未だに手放そうとしない彼女に、現実的な距離を詰められるはずがない。さらに、あの老教授もそうさせないよう目を光らせている気もしてならない。独身の自分に美智子を引き合わせておきながら、ふたりの距離が縮まるのは決して許さない、そんな矛盾する嫉妬心すら感じていたのだ。
「みっちゃん…… オレはさぁ」
諸岡が何かを言いかけたところで玄関に複数の客が入ってきた。その集団がこの店にしては大人数だったものだから、キッチンは途端に忙しくなる。美智子も諸岡のことを置き去りに座敷とキッチンの往復に忙殺された。
「すいませんねえ、お構いもできずに」
料理の合間に店のオーナーが諸岡に話しかける。彼も諸岡がここに通う目的は料理でも酒でもないことは重々承知だから余計な注文は取ろうとしない。逆に諸岡が気を遣って空になった冷酒の代わりを注文する。すると、最近はこれが美味いと見かけぬ銘柄を持ち出したオーナーが日本酒の話を始める。だが、もともと酒に興味のない諸岡は聞き役になるしかなく途中でそれにも飽きる。その顔をみた美智子が、料理待ちのわずかな時間を見つけ、彼の横に腰を下ろした。
「銀行さんの送別会なんだって」
「そうなんだ」
ちらりと座敷を振り返ると行儀のいい紺のスーツ姿が目立つ。
「オレも仕事辞めるかな……」
諸岡は何の気もなしに軽口を叩く。だが、その言葉に美智子は急に顔を曇らせた。
「ごめんごめん、ただ言ってみただけ」
慌てて諸岡は言い訳をするが、美智子の表情は変わらない。男はこの場を取り繕う言葉を見つけられず黙り込むしかなくなった。
「なんか、泣けてきた……」
美智子が弱音を吐く。彼女が抱えている事情を知らないわけではない諸岡は掛ける言葉がない。
「もういい。そういう人は、もう沢山……」
美智子は諸岡の肩を借りて立ち上がり、キッチンの奥に消えた。
その夜、店は賑やかだった。座敷を占めた銀行員たちの貸し切り状態になると、彼らの声は幾分かトーンが上がったように感じられた。
美智子はずっと座敷とキッチンの往復で、ゆっくり諸岡の前に立つことができないままだ。
諸岡は美智子の気配を感じているだけで満足するところがあったから気にもしていないのだが、美智子は中途半端になった今しがたの会話を気にしたのか、座敷に向かう都度ちらりと男の横顔を伺う。だが、話しかける余裕がない。彼女にはもどかしい時間が刻々と過ぎた。
「そろそろ帰ります」
ラストオーダーの時間が近づき、諸岡はオーナーにそう言って腰を浮かせた。座敷の応対から戻った美津子は少しだけ恨めしそうな表情で諸岡の隣に腰を下ろし彼の盃に酒を注いだ。男は仕方なくまた腰を下ろし、オーナーに無言で苦笑いを向けた。
「大丈夫？」
諸岡の問いかけに返事がない。だが、時々触れる美智子の左肩が弱々しい。
「何もなくても何でも言えよ」
「何もなくても？」
美智子は正面を向いたままだが、ようやくふわりと笑った。
「わかった。ありがとう、フミちゃん」
店のオーナーに聞こえぬよう、美智子は小さな声で諸岡の下の名を呼んだ。
「疲れてるな」
「ううん、大丈夫」
時々、こんな会話になる。美智子は無意識だが、諸岡に縋ろうとする時、妙に面倒になる。幸いなのは、諸岡がそれに気づいてやれることだ。美智子に合わせた時間の中に留まることができる。もし、この店のラストオーダーが九時でなければ、諸岡はこのまま腰を落ち着けただろうが、キッチンの中で手伝いの老婆が片づけを始めてしまった。常連客ならそのサインを見落とすわけにもいかない。
「そろそろ帰るよ。いつでも連絡して」
「うん。ありがとう」
諸岡はオーナーに上手い酒だったとひと声かけて立ち上がった。玄関先まで見送った美智子は、遠ざかる後ろ姿に、男が詰め切らない距離を感じて、少しだけ恨めしく思った。
