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詩音と祖父 その2

 午睡から目覚めた早乙女(そうとめ)は、重厚なマホガニーの机に向かい書きかけの原稿に目を通すと、ふぅと深いため息をひとつ漏らした。執筆中の処女作『時空の歪みの中で』は、彼が教鞭を執っていた理論物理学教室で起こる不思議な出来事、というSF小説の体裁を保っていたが、登場するヒロインは、かつてこの老人と共にターミナル駅周辺で過ごした初恋の人、のちの妻その人だったから、亡き人に贈り忘れた長い長い恋文でもあった。

 その続きを書いている。何しろ出歩くのは木曜日の夕方だけと決めているから時間は有り余るほどある。早乙女は午睡後のこの時間、執筆とも白日夢ともつかぬ時間を費やすのが日課になっていた。


(さてと、続きを……)


 そう思ったところで、ふと引き出しの奥が気になった。雑然と押し込んだ文具のその下に裏返しに置いた一枚の写真を思い出してしまったのだ。

 それは、全て焼き払ったはずの妻の思い出の残骸だった。こともあろうに初めてふたりきりで旅した思い出の海岸を背にした写真だったから、改めて処分し直すには忍びない。そんな躊躇いのまま放っておいたら、この一枚だけが引き出しの奥で生き残ってしまったのだ。

 早乙女は、観るのではない、ただ皺になっていないか確かめるだけだと自分に言い訳をしてそれを手に取った。


 まだ結婚した直後でふたりとも若々しい。彼女のヘアスタイルは今でいうところのおばさんヘアだが、表情は明るく、何よりすらりとした立ち姿が美しい。待ち合わせの際、この人の姿を遠目に見るのが好きだった…… そんなことを思い出した。

 だが、こんな時間こそが忌まわしい。写真の中のこの人に、何度呼びかけたところであの頃の温かみは戻って来ない。ただ寒々とした書斎で、言葉をかける相手すらいない自分の老いに気付かされるだけだ。だから焼くべきだった。あの時、この一枚ですら残さず、すべてを……。


 そう思いながらも、早乙女は写真をまた引き出しの奥に仕舞い込んだ。今は使うこともない便箋に挟み込み、皺にならないよう気をつけながら丁寧に文具の一番下に置いた。


 その後、しばらく原稿用紙の上でうんうん唸ってみたが小説は一行たりとも捗らない。老人はべっ甲フレームの老眼鏡を外し庭を眺めた。いくつもの盆栽が並ぶこの庭はお屋敷町の名に相応しく、真っ黒なコールタールを塗った板張りの外壁も趣がある。ただ、近所に新しくできたマンションの住人たちにはこの風情を解する者がないと見えて、交番のお巡り経由で臭いとクレームを言ってくる。まったく先住民族が住み慣れた父祖伝来の土地を追い払われるのは、未開も都会も同じだなと、老人は暗澹とした気持ちで、庭から部屋に視線を戻した。


「ただいま。おじいちゃま、書斎?」

 そんな憂鬱も、詩音(シオン)の声が一瞬に打ち消してしまう。今の早乙女には、「桔梗」のほかには、孫娘の詩音だけが外界と自分を繋ぐ唯一の接点になりつつあった。


「ああ、ここにいるよ…… おかえり」

「ただいま、おじいちゃま」

 詩音は老先生の前できちんとお辞儀すると、来客用の椅子に浅く腰掛けた。幼い頃は椅子の下で小さな足をぶらぶらさせていたものだが、いつのまにか行儀のいい娘になっている。早乙女は孫の成長を辿り、目元を綻ばせた。


 だが、挨拶したままいつまでも視線を外さない詩音の表情はやけに硬い。それに、彼女が訪ねてくるのは毎週木曜日と決まっていて、月曜日の今日は例外だ。元教授は違和感を感じ研究対象のように孫娘を注視した。


「何か特別な用事でもあるのかい? 私は今日は出かける予定はないよ」

「ううん、今日はおじいちゃまに宿題を教わろうと思って」

「ほぉ。珍しいね。詩音がわからない難題があったかい?」

 老人はさらに目を細めて孫娘に微笑みかけた。だが、宿題が本題でないことくらい、元教授はとっくに気がついている。そもそも、受験生に教えられるだけの汎用な知識など、もうとっく持ち合わせていない。


 孫娘も、元大学教授の厳しい観察眼を感じたのか、諦めて本題に入ろうとした。


「おじいちゃま、宿題ではないの。今日は聞きたいことがあって……」

 切り出し難そうな孫娘に老人は身構えた。十七の孫娘が自分に折り入って何かを聞きたいという、その問いが想像できなかったのだ。だが年輪を重ねた教育者でもある彼は優しい笑みを片時も失うことなく冷静に問いかけた。

「なんだね? 私に聞きたいこととは?」

「それはね……」

 詩音はまだ話し難そうにしている。さすがに老人も対処に困る。

「話してごらん。もし、あとで話すんじゃなかったと後悔したら、私はその場で忘れると約束しよう。年をとるとね、何でも都合よく忘れられるものだからね」

 そう言って老人が微笑むと、ようやく安心したのか、詩音が重い口を開いた。


「実はね、この間、おじいちゃまと別れた帰り道で幼馴染みのお友達に偶然会ったの。モモちゃんとアンズちゃんって子なんだけど。その子たちがね…… 」

 詩音はそこでまた言い澱んだ。


「続けて」

「…… その子たちが…… ルカちゃんっていう別の子の事を話し出したの」

 老人はその名前を出す瞬間に孫娘がチラリと自分の反応を伺い見たことを見逃していなかった。ルカ? 聞き覚えがない。孫にその名と人物由来を問い質そうとも思ったが、この様子からは大した情報を得られそうにない。そう判断した老人は、目を閉じて話の続きを聴くことにした。


 詩音は祖父が目を閉じたことで気持ちが落ち着いてきたのか、ようやくポツリポツリと話し始める。


「ルカちゃんはお父さんとお母さんが別居してるんだけど、最近、お母さんに…… 好きな人ができたらしいって悩んでて…… その…… 学校も休みがちになってて、ホントは学校に行ってないのに、お母さんには内緒にしてるらしくて…… このままでいいのかなって…… 進学も止めて家を出て働きたいみたいなこと言ってるらしいの。でも、モモちゃんもその事をおばさんに言っていいのかどうか迷ってるらしくて…… それで…… バスでルカちゃんのお母さんに、ホントに偶然会っちゃって…… でも、何も言えなくて…… おばさんも何も気づいてる様子がなくて、それで私たち…… 」


 老教官は孫娘を訝しく感じていた。こんなふうに論点の定まらぬ話し方をする子ではなかったし、そもそも、長々と他人の噂話を話すような子でもない。何か訳があるに違いない。話しづらそうなのは、今彼女が話している友人そのものというより、その子に纏わる何かが詩音を躊躇させるのだろうと老人は察しを付けた。詩音が言葉を見つけられなくなったタイミングを捉え、老人は優しく語りかける。


「詩音。そのルカという友達のことを私に何とかして欲しいという訳かい?」

 答えはノーに違いない。その先を彼女が言い出すかどうかを早乙女は辛抱強く待つことにした。


「おじいちゃま…… 」

 詩音は項垂れていた。話しながらどんどん目線が下がる。話すんじゃなかったと後悔しているようにも見えた。


「なんだい。やっぱり私に言えないことだったかな? それなら私は約束通り、今のお話は忘れるよ」

 老人はさらに目を細め、包み込む様な話し方をした。その様子に、詩音はついに決意を固め、次の言葉を口にした。

「おじいちゃま…… その子のお母さんはおじいちゃまの良く知っている方です」


 詩音は項垂れたまま小さな声を漏らした。その声は、まるで罪人(つみびと)の懺悔のように重苦しく響いた。老人は、その悲痛さは理解できたが、内容はさっぱり理解できないでいる。私の知り合い? 孫娘のクラスメイトの母親が? さて、娘の梨華と同じ年頃の教え子か? まるで見当がつかない老人は孫娘に聞くしかなかった。


「それは誰だい? 私の教え子かい? それとも母さんの友達かい?」

「いいえ…… 」


 詩音はしばらくその続きを口に出せないまま沈黙した。祖父はそれでもまだ当てがない。そして、とうとう孫娘がある店の名を口にした時でさえ、老人はその名とルカという名が結びつかなかった。


「桔梗…… というお店の」


 美智子?…… 必然的にその名が思い浮かんだ。だが、なぜ美智子をこの孫娘が知っているのだ? 

 

 早乙女は、自分の知らない不都合な真実を目の前の孫が語ろうとしている不気味さに慄いた。そして、孫娘が最初に口にした『別居』という言葉が何度か繰り返されてようやく、罪人(ざいにん)は誰あろう自分自身であったことを強く意識し始めた。

 だが、孫娘の詩音は、祖父が思っていることと違う次元で、祖父を罪人(つみびと)であると思い込んだままだった。

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