終章
桔梗を出た美智子は、流香と諸岡のふたりに、どこ? と短いメッセージを送信した。予想通り返信があったのは諸岡からだけ。今頃になって流香を追いかけなかったことを悔やみながら、美智子は重い足取りで諸岡の待つカフェに向かった。
中央通路を見下ろせるカフェの窓際で、諸岡は入り口に背を向けて座っていた。三時間ほど前まで一緒だった彼が、別れた時と同じ姿勢のままで待ってくれていたように見える。自分には諸岡がいると思えることの嬉しさと、流香からの連絡がない不安とその両方を抱え、美智子は諸岡の前に腰を下ろした。
「お待たせしました」
「…… 大丈夫? 浮かない顔してるけど」
「うん…… 流香がいなくなった」
「喧嘩になっちゃったか?」
「…… 」
「心当たりは?」
「…… ない。でも、友達が追いかけてくれたし……」
諸岡には美智子の心がここにないことがすぐにわかる。
「みっちゃん」
「…… ん?」
「心配事は放っておかない方がいいよ。あとで後悔しないためにも」
美智子は諸岡の目をじっと見つめた。
「フミちゃん、私どうしたらいい?」
「ルカちゃんが行きそうな場所に心当たりは?」
「…… わからない」
「さっき友達が、って言ってなかった? その子の連絡先は?」
「あっ……」
早乙女の孫としてではなく、流香の中学時代の友人として探せば彼女にはたどり着けるかもしれない、美智子はすっかり記憶から抜け落ちていたふたりの関係を思い起こした。
「ほら、出来る事があるなら全部やらなきゃ!」
「わかった。フミちゃん、ちょっと待ってて。そうだ、これ、先生から預かった原稿」
美智子は早乙女から託された封筒をテーブルの上に置くと、慌ただしく席を立ちスマホを手にカフェの外に消えた。
その後ろ姿を見送りながら、諸岡はテーブルに置かれた封筒を手元に引き寄せる。数日前、理不尽に自分を辱めた老人の顔を思い浮かべ、諸岡は口の端を歪めた。とても読む気にならず、一度は手にした封筒を放り出す。
美智子は店の外で誰かと電話で話し始めた。だが、その横顔はいつまで経っても不安な様子のままだ。諸岡も徐々に落ち着かなくなる。彼女を見守るほかは何もできない自分の無力を思い知る。
もどかしい気持ちを鎮めようと目の前の封筒を再び手に取る。こんな時に何を呑気な、そんな苛立ちを感じながら原稿を取り出す。二十枚ほどの手書き原稿には几帳面な文字がびっしり並んでいる。パラパラとめくった最後の数行に、諸岡の目が止まった。
『ここに写った誰も彼もが必ず幸せになると信じて疑わない』
その言葉に引き寄せられ、諸岡は原稿を数ページ遡って読み始めた。
…… 花屋の奥は磨りガラスの引き戸で店先と仕切られていて、そこを開けると今度は重い緞帳が目の前を塞いだ。それを手繰って部屋に入ると、昔、映画館に入ると感じた、床に撒かれたオイルと椅子のファブリックから立ち上るあの匂いに包まれる。
やがて暗さに慣れた目を凝らすと、この秘密の空間が間仕切りで区切られた細長い迷路のようであることがわかる。通路の両側には古い写真がずらりと並べられていて、店番の彩さんがスイッチを押すと、そのひとつひとつに薄暗いダウンライトが当たった。
「これは……」
「そう。この裏に映画館があった頃の写真」
彩さんは落ち着いた声で応えた。もう何十年もこの店に通い続けているのに、奥にこんな場所があるなんてことを男は知らされていなかった。
白黒の写真が入り口から年代順に並んでいる。手前から数枚は、「昭和」というより「戦後」と呼ぶにふさわしい時代の、ざわざわした雰囲気を伝えてくる。そこに写る人々は途上国の若者に似た熱気に溢れており、一様に希望に満ちた顔をしている。男は子供の頃に感じた時代のうねりを思い出した。
「誰が撮影したものですか?」
「最初は父。途中のここから私」
そう言って彼女は最初の間仕切りを折り返したあたりにある一枚を指さした。その写真には一輪のガーベラを手にした若い男の背中が写っている。まだ真新しい映画館のチケット売り場に向かうところのようだ。
「こ、これは…… 」
男は息を飲んだ。幅広でだぶついたスーツ姿に見覚えがある。それは当時、大学の研究室に入ったばかりのこの男だった。
男の回想をよそに、彩さんが続けて数枚先の写真を指さす。そこには男の左腕に凭れかかる若い女性の穏やかな笑顔があり、幸せそうに男の顔を見上げている。低く差し込む夕陽に女性の後れ毛がキラキラ煌めいていて、横の男は照れ臭そうだ。若かりし日の自分を目の当たりにした男は同じ顔で照れている。
「どうしてこんな写真を……」
「幸せな時は忘れてしまいがちだから」
彩さんが残した写真は、男に忘れかけていた幸福を呼び戻す。あの頃に思い描いた未来ではなくても、当時の記憶そのものが男を幸福にさせるのだ。
その細い通路はさらに続いた。間仕切りを折り返すたびに写真は現在に近づき、そこに写る人々の様子は豊かな彩を纏い始める。一律で単純な笑顔から多様な幸せがそれぞれを包む様が見て取れた。
時代が昭和から平成になり、映画館のレンガがどこか色褪せた朽ち色を纏う頃、通路の写真は終わりに近づく。そして最後の一枚には、映画館が閉館することになる日の前々日の日付が付されていた。
写真は、映画を観終わった親子三人が並んで歩いてくる姿を写し取ったものだった。三歳くらいの女児を真ん中に左右にふた親が手を繋いでいる。親たちは幼子の手を勢いよく振り、女児の体は宙に浮いている。その顔は斜め前方に続く幸福な未来を見ているようで、明るく弾けんばかりに輝いている。父親は娘の視線の先を追い中空を見上げている。母親は、幸福そうな顔で父親の横顔に何か語りかけている。どの顔もこの瞬間の幸せが、未来永劫続くことを一瞬も疑っていないように見える。
「映画館が閉館になったあとも、この親子は幸せでいたんでしょうか?」
男はぽつりと呟いた。
「こんな一瞬の記憶があれば、誰もが幸せになれるものです」
彩さんはそう言って小さく頷いた。それは、ここに写った誰も彼もが必ず幸せになると信じて疑わないというふうに見えた。
……
「みっちゃん!」
諸岡は人目を憚らず大声で美智子の名を呼んだ。その声に美智子も一瞬諸岡を振り返ったが、耳からスマホを離さない。諸岡はじれったくなって原稿を手に店を出た。
「行こう、みっちゃん! 写真を見に!」
諸岡は説明を端折って美智子の手を引き階段を降り始めた。
「ど、どこへ?」
「あの花屋。そこにある写真をルカちゃんにも見せてやらなきゃ!」
「写真? 花屋さんの?」
美智子は諸岡が言っていることがわからない。ただ、どこを辿っても流香に行き着かないことに諦めかけていた彼女は、諸岡に引き摺られることを心地よく感じていた。自分を幸せな世界に連れて行くのは目の前の彼だと、ふと思った。
「花屋の奥に古い写真が並べてあるらしい。その最後の一枚はキミたち親子三人のものじゃないか?」
「えっ?」
「それを早乙女先生は見たんだよ。キミたち親子がその写真を見ればきっと過去を取り戻せる、そう思ったようだ。小説に託してそのことを描いている。ボクにはその気持ちがわかる」
その言葉を聞いた美智子は急に立ち止まる。
「ちょっと待って。そんなこと、私は望んでない!」
「わかってる。でもね、その写真をキミもちゃんと見て、それから考えても遅くはない」
「フミちゃん! あなた何もわかってない! 私は過去には戻らないよ。それを疑うつもり?」
「いや、そうじゃない。だけど、過去のすべてが不幸だとは思えない。キミが見ないとしても、ボクは見ておきたい」
「フミちゃん!」
そう言うと、美智子は強い抵抗を示し、その場から動かなくなった。困った諸岡は早乙女の書いた原稿を美智子に渡し、写真のことに言及した場所を読むように勧めた。街路灯の下で美智子はそれに目を通す。
「フミちゃん…… どうしてこんな写真を見たいの? 本心では見たくないんじゃないの?」
「そうだな。そうかもしれない。でも、そこから目を背けたボクをルカちゃんはどう思うだろう? そんな男は母親の愛人でしかないだろ?」
美智子は言葉がなかった。諸岡は自分の見ている遥か先の三人のことを見ている、そんな気がした。
「ルカちゃんを放っておいちゃダメだ。距離は置いても、気持ちを離しちゃダメだ。それに、そのことは伝えなきゃダメだ。よく似た母と娘だとしても、何も言わなきゃ伝わらない。ボクとのことも、ちゃんと伝えなきゃ。ボクはちゃんとルカちゃんに話そうと思う。これからはボクも父親だと言おうと思う。だから、ほら、行こう、花屋に」
諸岡は美智子の左手をもう一度強くつかんだ。美智子もそれに抗えず、諸岡に手を引かれて歩き始めた。
花屋の店先で、老婆はふたりがやって来ることを予め知っていたかのように迎えた。無言で奥の引き戸を開け、中に入るよう促す。吸い込まれるように奥へ進むと、そこには早乙女が描いていた通りの空間が広がっている。ふたりは途中の写真には目もくれず、最後の一枚を目指して迷路を進んだ。
最後の一枚の前にはソファーが置かれていた。そこに流香と詩音が身体を深く沈めて座っている。流香は目を閉じているように見えた。
その姿を見つけ、美智子は両手で顔を覆い泣き出してしまった。それは流香を見つけ出したためか、それとも一瞬だけ目にした写真に過去の記憶が蘇ったからかわからないが、声を上げ肩を震わせて泣いた。
そんな母親に気づいた流香がソファーから立ち上がり、美智子に歩み寄った。
「愛されてるね、私」
流香は小さく呟いた。そして、母親の肩を抱き並んで写真の前に立った。薄暗くてその横顔から表情を伺うことはできなかったが、諸岡には写真の中の幸福が今に繋がっているふたりにしか見えなかった。
やがて、流香は諸岡に向き直り、穏やかに微笑んだ。
「流香です」
とても綺麗な瞳をしている。諸岡は昔から知っている子供に再会したような気分になった。
美智子はまだ泣いている。流香と諸岡は美智子の気が済むまでそっとしておこうと、互いの目を見合わせた。
詩音が諸岡に挨拶をする。彼女が早乙女の孫と知った諸岡は、詩音に原稿を渡し、祖父の思い出を辿ってみるように勧めた。詩音は、若き日の祖母と祖父の姿を見つけて穏やかな笑みを溢した。
店番がガーベラの花を手にやってきて、四人それぞれに手渡した。
「それ、希望だよ」
老婆の後ろに隠れていた幼い子供が四人にそう告げて、またすぐにその姿を隠した。四人にはその子が希望を連れてきたシャイな天使に見えた。




