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詩音、早乙女と流香の家族

 約束の時間に遅れた美智子が「桔梗」の格子戸を潜ろうとしたちょうどその時、板前法被姿のオーナーが玄関先に姿を現した。

「おお、来たか。おふたりともお待ちかねだよ」

 硬い表情でオーナーが美智子を迎える。

「オーナー…… 今日はすいません。ふたり? ですか?」

 怪訝な顔で美智子がオーナーに歩み寄る。

「うん。ご主人と娘さん。あとひとりはみっちゃんだろ?」

 流香(ルカ)が呼ぶと言っていた慎哉の義理の息子、そしてその母親は一緒ではないらしい。そうとわかった美智子の表情はやや緩んだが、オーナーの表情は硬いままだ。


「オーナー、それは?」

 彼が手にした臨時休業の木札に目がとまる。

「うん。今日は店を休もうと思ってね。だってほら…… みっちゃんも困るでしょ?」

 オーナーは諸岡のことを含んだのだろうが、それは有り難いをはるかに超えて大きなお世話だ。しかし、店のオーナーにすれば他の客の前で痴情がもつれるのは避けたいと思って当然だ。

「ご主人とは別れたとばかり思ってたから。ちょっとびっくりしてさ」

「すいません。いろいろ事情があって」

「先生や諸岡さんは知ってるのかい」

「諸岡さんは。でも先生には……」

「だろうね。ご主人に名乗られて驚いた顔してたよ」

 そう言うと、オーナーは格子戸の方に数歩踏み出した。

「えっ! 先生が? いらしてるんですか?」

 美智子が驚いた声を出す。

「うん、お孫さんと一緒だよ」

「お孫さん?」

「そうだよ、みっちゃんとこのお子さんと同級生らしいじゃないか?」

「えっ…… 」


 格子戸に臨時休業の札を掛け終えたオーナーが、ちょっと呆れたという顔でひとりごちた。

「世間は狭いよ。しかし、今どきの家族ってのはこんなものなのかね。だって、子供や孫が同級生なら、いろんな行事で一緒になるだろうに。例えば運動会とかお遊戯会とか」

 オーナーがお遊戯会を例にあげたことがおかしくて美智子は思わず笑ってしまったが、美智子の父と同世代のオーナーは意外にも真面目な表情を崩さない。美智子の目をしっかり見つめて静かに言葉を継いだ。

「みっちゃん、夫婦にはいろいろな形があるだろうけど、子供は無関係だからね。あれだけ素直に育った娘さんには感謝することだ」

 美智子は返す言葉を見つけられない。その様子を見て取ったオーナーは、優しく彼女の肩を抱き玄関に入るよう促した。


 座敷の奥から、懐かしい声が聞こえてくる。かつて、休日の朝には当たり前に聞いていた賑やかな笑い声。決して嫌いではなかったが、いつの間にか消えてなくなったその声に、娘の笑い声が重なっている。美智子は目を伏せてその声のする座敷の奥に向かった。


「遅くなりまし……」

 背を向けて座る先生とその孫娘、こちらを向いて座っている慎哉と流香に、きちんと正座して挨拶をしようとした美智子だったが、早乙女の横に座っていた孫娘が振り返った瞬間に言葉を飲んだ。

「シオンちゃん、あなた……」

 詩音は戸惑いがちの小さな会釈で応えた。それを見て早乙女が先に口を開く。

「たまたま流香さんと花屋の前で会ってね。これからここで夕食だというから、それならということで話し相手にこの子も連れてきた。だけど、何か大切なお話のようだから、私たちはすぐ席を移るよ」

 その言葉を慎哉が制した。

「いえいえ先生。もしよろしければご一緒してください。今日は流香の進路相談でして、元大学教授が同席されるならこんな有り難いこともない」

 慎哉の言葉に流香はうんうんと大きく頷いた。昔からこのふたりはなぜか気が合う。美智子は自分のいないところで既に話が決まっている不愉快さを感じ、座卓から離れた場所で膝の上の拳を握りしめた。それをみた早乙女がすぐに腰を浮かせる。

「いや、やはりご家族のお話しに私たちはお邪魔だ。またいずれ」

 そう言い残し、早乙女は詩音を促してカウンター席に移動した。伏し目がちにふたりをやり過ごす美智子。頑ななその姿に慎哉が呆れたと言わんばかりに小さく愚痴る。

「なんでそういきなりふくれっ面するかね」

「こういう顔です、昔から」

 そう言われると慎哉も取り付く島がない。流香はふたりを無視してメニューを手に取った。


 座卓は挨拶も差し障りのない会話もなく重い空気が支配した。七年という歳月は、道ですれ違う赤の他人と同程度の関心しかふたりに呼び起こさない。見た目の変化も互いに顕著だが、それすら無邪気に指摘しあえなくなっている。オーナー自らが注文をとりに来てくれた時以外、三人は別々の方向に視線を逸らせたまま、徒に時が流れた。


 最初の料理が運ばれる。特別な飼料で育まれた希少牛で作られたというローストビーフに、流香が迷わず箸を伸ばす。続いて慎哉もひと切れ摘み、冷酒を手酌で飲み始める。だが、美智子だけは背筋を伸ばし正座の足を崩さない。


「ねえ、ふたりとも私のことで話し合うんじゃなかったの? もうどうでもいいってことでいいわけ?」

 ローストビーフを頬張りながら、流香が呆れたと言わんばかりに声を出す。

「パパは基本的に賛成」

 慎哉が肉を頬張りながら、流香に旨い旨いと目線を送る。流香も美味しい美味しいと話を合わせる。ふたりは料理に関心を移したように見えた。

 その会話に入っていけない美智子は、慎哉の言葉と態度をただの無責任と断じた。この七年間がここで無罪放免されたなど、思っていたなら許さない、そんな気持ちが目元に現れる。なのに、目の前の父娘(おやこ)は、許し難いほど普通の父娘にしか見えない。それが悔しくてたまらない。


「あなたはなんでも基本的に賛成。あとで反対」

 美智子が小さく溢す。何事も人任せのくせに結果には口うるさい慎哉を思い出したのか、苦々しい表情が浮かぶ。一方の慎哉も、拗れた美智子は決して心を許さないことを知っており、知らん顔を決め込んでいる。ふたりとも、ここで会うことの意味を既に忘れていた。


「ママは?」

「ママはもう何も言いません。お好きにどうぞ」

 感情の昂ぶりを微塵も感じさせないその言い方に、流香の顔が一瞬で曇る。何のためにわざわざ三人で集まったのだろう…… ローストビーフを咀嚼する速度が落ち、それまでの料理を愉しむ顔が、仕方なく栄養素を摂取する無表情に変わった。


「そう。じゃあ、好きにするから」

 流香が箸先で料理を弄びながら冷たい声を出す。慎哉は知らん顔で酒を煽る。美智子は伸ばした背中を少しも緩めない。


 続いてサイコロ状のステーキが運ばれる。美智子が小さくすみませんとオーナーに礼を言う。だが、今度は誰もそれに手を伸ばさない。慎哉はお酒のお代わりを注文し、流香は再びメニューを手に取った。

 美智子はそれこそ蝋人形のように表情も姿勢も崩さない。流香にはそうする母親の気持ちが痛いほどわかったが、その頑なさに息が詰まりそうになる。


「ママ、もう好きにしたら」

 流香が歪んだ半笑いを口の端に浮かべ、掴んだステーキのひとかけらを口に放り込む。美智子にはそれが自分を見透かした皮肉に見えたから、今度は美智子が耐えられなくなる。

「偉そうな…… 誰に似たんだか」

 背筋をピンと伸ばし、目線を上にあげて静かに言い放つ。その姿にとうとう流香が耐えきれず声を荒げた。


「ママでしょ! もうすごいイヤ! そうやって自分は全部我慢してます、って顔をするのが! 私は好きにするから! 私のためなんて言うのはもう一切やめて!」

 流香の声は次第に大きくなり、最後に手元にあったおしぼりを美智子に投げつけた。そして、その瞳からぽろぽろ大粒の涙を溢し始めた。

「あなたのため? そんなこと、言ったことないでしょ!」

 美智子が言い返し、おしぼりを投げ返す。

「言ってるのと同じなんだよ! 遅く帰ってきて、立ったままご飯食べて、はぁ、とため息ついて、誰かとLINEして…… ウザイんだよ!」

「流香、言い過ぎ」

 見かねて慎哉が流香を止めようとする。だが、その言葉は流香の怒りに火をつけただけだった。

「パパが悪いんだよ! ママはひとりで…… 一生懸命で! なのに放り出して! 捨てて! あんた最低だから!!」

 慎哉は言葉がない。


 目の前の美智子は平然と真正面を向いたままだ。変わらず慎哉とは目を合わせようとしない。慎哉は、こんな妻の姿を見るたびに敵わないと思う。ここは彼女にとって職場だ。そこで自分の恥を平気で曝け出す。繕うことなく、ありのままの状況をどうぞご覧ください、これが私の家族でございますと、そう言わんばかりに平然としていられる。弱さを隠したり逃げたりすることを決して許さない強さが慎哉には耐えられない。


「もういい!」

 流香が席を立って玄関に向かった。それを見て詩音がすぐさま流香の後を追った。慎哉は一瞬腰を浮かせたが、目の前の美智子が微動だにしないので、中途半端な体勢を元に戻し、妻と真正面から相対した。


「これまで苦労をかけた。流香のため…… それは無駄だったのかもな」

 慎哉の言葉はひとことも美智子の心に届いていないようだった。彼女は平然とその言葉をやり過ごし、目を合わせず冷たく言い放った。

「何とでも言いなさい。私はあの時決めたことを守っただけ。今さらあなたにあれこれ言われる筋合いはないわ」

 七年前、流香のため、という言葉を繰り返した美智子の姿を思い出す。あの時の覚悟を、揺らぐことなく保ち続けた妻を、本当は労るべきなのだろう。だが、慎哉はそんな言葉すら跳ね返されることを知っている。だからもう何も言えない。


 美智子が目の前の料理に手を付ける。背筋を伸ばしたまま、付け合わせの野菜まで綺麗に片づけると、ご馳走さまと手を合わせた。落ち着く間もなく並んだ皿を片付け始め、とっくりと盃だけを残して席を立った。


「相変わらず落ち着かないねぇ」

 慎哉は手酌で飲み続ける。広い座敷にポツンと彼ひとりが取り残されている。この景色も七年前と同じだ。美智子と一緒にいてもなぜか感じた孤独を、今ここでも感じている。


 カウンターの中に入った美智子は袖をまくり洗い物を始めた。オーナーも早乙女もただその姿を眺めている。ふたりの声を拒絶する頑なさがその後ろ姿にはあった。


「オーナー、お店開けてもいいですか? まだ早いし、これからのお客さんもきっとありますよ」

 その言葉にオーナーはどう反応すべきか迷って早乙女の顔を見る。早乙女も言葉がない。ふたりを無視して、美智子は格子戸の木札を取りに外に向かった。


 それを見て慎哉が座卓から腰を上げる。カウンターの手前で正座し、ふたりに向けて丁寧に頭を下げた。

「お騒がせしました。オーナー、ローストビーフ、絶品でした」

 勘定を済ませ出て行こうとする慎哉と、木札を手に戻ってきた美智子が玄関先で鉢合わせたが、ふたりとも互いの視線を合わせようともしない。早乙女は美智子をチラリと見たのち、意を決して慎哉に声をかけた。

「伊勢原さん、もう少し飲んでいきませんか?」

 慎哉は静かに振り返り、美智子の方をチラリと見て、もう一度早乙女に深々とお辞儀をした。

「人を待たせていますので。今夜は失礼します」

 その言葉に何の反応も見せず仕込みを確認する美智子と、サバサバした表情の慎哉を見比べて、早乙女ももう言葉がなかった。

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