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慎哉と一花、美智子と諸岡

「ちょっと待って」

 駅に向かう一花(いちか)ケンを慎哉が呼び止めた。百貨店裏の角を曲がり花屋の前で立ち止まると、ずらりと並んだ花盥を覗き込んでいる。足止めされた堅がむずかり、早く行こうと一花の左手を強く引いている。

「早くして!」

 まとわりつく堅に苛立った一花が声を荒げる。だが、慎哉は右手で待って待ってと合図をよこし花盥から目を離さない。その中から咲き盛る赤いバラを一本、また一本と五本選び、このままでいいからと言い添えて店番に手渡した。受け取った店番は持ち手あたりの棘を丸め、根元を赤いリボンで結わえてから慎哉の手に戻した。それを後ろ手に、慎哉は一花のもとに歩み寄る。


「ほら。これ、お前に」

 急に差し出されたバラに一花が驚く。地団太を踏んでいた堅も、感触を確かめたくなる緋色に魅せられたか、花に顔を近づけた。


「ほら。いいから、お前にだ」

「お前にって…… 」

 これから慎哉は元の家族と会う。求めた花束は、久しぶりに再会する家族に差し出されるものとばかり思っていた一花は、素直に受け取ることができないでいる。


 一花は一花なりに覚悟を決めてこの時を迎えていた。慎哉とこのまま別れることになっても仕方ない。その時が来ただけのこと。そう思おうとしていた。だが、本当の心の内は慎哉に見透かされていたらしい。それが悔しくも可笑しくも、嬉しくも恥ずかしくもあり、結局困った顔でバラの花の、幾重にも広がる花弁に目を落とした。


「先に帰るのが嫌ならどこかで待ってる? 京介の店で待っててもいいぞ。どうせ一時間もすれば話は終わるだろうし」

 一花の表情を誤解した慎哉がサラリと言う。一花は返す言葉が見つからない。押し付けるように手渡されたバラを受け取ると、そっと薫りを確かめた。それを見ていた堅が花びらを触ろうと手を伸ばす。だが、棘に触れてしまったようで、出した手を急に引っ込めた。


「じゃあ約束の時間だから、もう行くよ。京介の店で待ってて。一時間、一時間だから」

 一花の返事を待つことなく、堅の頭をひとつ撫でて慎哉は路地を駆け出した。国道の車列をかわし道を渡ると、一度だけ振り向いてふたりに大きく手を振った。


 一花は遠ざかるその後ろ姿をずっと目で追い続けた。彼が路地を突き当りまで進み、左手の格子戸を潜り姿が見えなくなるまで、その場に立ち竦んだ。そして、慎哉の姿が視界から完全に消えてようやく、堅の右手を強く握り息子の小さな顔を見下ろした。

「ケン、アイスクリーム食べよっか?」

 そう言いながら百貨店の屋上あたりに目を上げる。

「え~っ…… アイスクリームじゃなきゃダメ?」

 一花はそんな堅が愛らしくて堪らない。思わず頭をギュッと抱き寄せる。

「じゃあ、何でも好きなもの言いなよ」

「クルクル回るお寿司!」

「ないもの言うんじゃないの!」

 一花がコツンと軽い拳固を落とす。堅はえへへと笑顔で母親を見上げた。



 ふたりが駅方向に向きを変えた瞬間、反対から走ってきた女性の肩先が一花に触れた。運悪くバラの棘が指先に触れたようで、その女性はあっと小さな声を上げた。


「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」

 咄嗟に謝る一花。相手の指先に滲んだ血の色を見つけ慌ててハンカチを取り出そうとした。しかし、女性は大丈夫ですからとひと言だけ言い残し、花屋のある路地を駆け出した。

 堅が心配そうな顔で一花の顔を見上げる。一花は心配ないよ、というふうに息子の頭を優しく撫でて女性の行く先を目で追った。

 一瞬の出来事で女性の表情を捉えたわけではないが、慎哉がこれから会う人物は恐らく彼女であろうと一花は予感した。国道の手前で車が途切れるのを待つ女性の後ろ姿は、時々慎哉に会いに来る流香を思わせる。スッキリと迷いのない立ち姿だ。一花は血の繋がりは誤魔化せないものだと思いながら堅の右手を引いた。


「ケン、パパは好き?」

「うん」

 間髪入れず息子がそう応える。一花はホッとすると同時に覚悟が決まった気がした。すると不意に商店街を抜けた先に回転寿司屋があったことを思い出し、さぁ行くよ、と顔を上げた。目を伏せて笑うのは止めよう、一花がそう決めた瞬間でもあった。その顔を、堅が嬉しそうに見上げて大きな笑顔を見せた。



✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤



 口紅の跡が薄く残ったコーヒーカップを眺めている。諸岡はかれこれ三十分近く、同じ姿勢のままカフェの窓際に座っている。

 

 美智子が深夜発信したメッセージに翌朝気づき、それから断続的に交わしたやり取りで今日のことは知らされていた。昼過ぎからはここで直接会って話も聞いた。だから、彼女の言葉の表も裏もすべて理解したつもりでいるが、いざ、ひとりこの場所に取り残されると、あらゆる物事が自分の預かり知らぬところで決められてしまう不快感が湧き起こり、美智子と面と向かっていた時は感じなかった不安と苛立ちが同時に押し寄せて来た。


(これが不倫を続ける者たちの心理か……)


 諸岡は「不倫」という言葉に絡め取られた自分自身を、できるだけ冷静に見つめようとした。


 美智子には法律上の配偶者がある。

 たとえ双方が納得した上での、しかも、まもなく実際に離婚する予定の夫婦であったとしても、彼らは他人から見れば()()()()()()夫婦でしかない。彼らふたりだけがその未来を決めることのできる当事者で、自分はその結果を甘んじて受け入れることしか許されない、言わば半当事者に過ぎない。

 ひょっとすると、再会した彼女たちは思いもよらぬ結論を導き出すかもしれない。今の今、彼女が口にしていた決意や結論とは裏腹の結果になることもあり得るだろう。このまま彼女は姿を消し、二度と自分の目の前に現れないかもしれない。それは自分に対する明らかな裏切りだが、世間から裏切りと指弾されることは決してない。

 

 一体、自分は美智子の何だったのだ?


 諸岡はこれまで考えることのなかった虚しい結末を予感し、眼下を行き過ぎるだけの、表情のない他人を眺めた。自分はこの街の異邦人に過ぎないことを思い知る。彼女だけがこの街に連なる由縁で、それがなくなれば自分がここにいる意味は根こそぎ無くなる。

 夕闇迫るこの時間、桔梗に向かう以外、この街のどこにも行くあてはない。かと言って、この場所で美智子を待ち続けるのは辛すぎる。諸岡は上手く吸い込めない息を無理やり深く吸い込んで、ようやく重い腰を上げた。


 中央通路の人混みに紛れる。その流れを邪魔しないよう東口に向かう。いつもなら南寄りの階段を下りるが、今日は流されるまま北寄りの階段を下り、商店街に向け歩いた。

 我知らず桔梗から遠ざかる方向に足が向く。商店街のどの店も諸岡の歓心を引くものはない。ただひたすら歩く。あっという間にアーケードの端に辿り着いてしまった。道路が隔てた向こう側には二階建ての回転寿司屋があり、視線を上げると窓際の席に何組かの客が見える。その中に無邪気な男の子の笑顔があり、()()()()()()から飛び出したオマケを手にして喜んでいる。その幸福そうな笑顔に、諸岡は自分が作らなかった家族というものの姿を垣間見る。この先も多分手にすることのない、知ることのない充実がそこにあるように感じられた。


ふらふらと、足が向くままその店に入る。平日だがすでに満席で、待ち合いのスペースには人が溢れている。諸岡は迷いながら順番待ちのレシートを引き抜いた。

 回転寿司店の中でもここは一段と騒々しい。まるでゲームセンターの中にでも入っている気分だ。そんな中に場違いな老夫婦がボックス席で向かい合っている。流れる皿に被せられた蓋が外せず、何度も何度も取り逃している。呼び止めた店員は少々お待ちくださいと言ったきり、別の仕事に忙しそうだ。老夫婦はお茶の淹れ方すらわからず周囲を見渡すが、誰も手を差し伸べようとしない。

 あの老夫婦の片割れはいずれ我が身だ、そんなことをふと思う。ふたりならまだ笑えるこの状況も、ひとりだときっと堪えられない。自分の行く末がそこに見える。諸岡は老夫婦から目が離せなくなった。


「あれ? 珍しい人みっけ」

 ハッとして諸岡が振り返ると、バーで見かけた例の女がいて、無防備な垂れ目で諸岡に笑いかけている。

「変なところで会っちゃいましたね」

「今日はスマホ、してないんだ」

「四六時中はしませんよ。女子高生でもあるまいし」

「アハハ、LINEはこういう暇つぶしの時にするんだよ」

 そう言って女は順番待ちの人々をざっと眺めた。確かに、大半の者は液晶に目を落とし、隣りに座る家族や友人とも没交渉だ。


 そこに小学生くらいの子供が走り寄り、彼女にドスンと抱きついた。女はその勢いによろめき、諸岡に寄りかかる。

「なに!」

「お花! 忘れてるよ!」

 そう言って子供は窓際の席を指さす。ああそうだ、といって女は諸岡を無視して席に戻り、真っ赤なバラを手にして戻ってきた。

「子供さん?」

「そう」

「その花は息子さんからのプレゼント?」

「アハハハ」

 その時の笑顔がやんわりしていて、バーで見かけた時のどこか儚げなものとも違っていたから、諸岡はそれ以上の話を聞く気が失せた。

「じゃあね」

「ええ」

「ほら、行くよ」

 女は息子を手招きして去っていった。すれ違いざま、その子供が不思議そうな顔で諸岡を見上げたから、こんな時はどんな顔をするものだろうと一瞬思案したものの、結局視線を逸らし知らん顔をした。


 アーケードを並んで遠ざかるふたりの後ろ姿が人混みに消えた。諸岡は、ふたりが振り返らないかと見ていた自分が可笑しくなり、自虐の笑いがこみ上げた。

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