それぞれの夜
胸の上に置いた指先がまだ震えている。ベッドに横たわったものの激しく跳ねる動悸を如何ともし難く、美智子はキッと見開いた眼で天井を睨みつけている。落ち着かない気持ちのままスマホを手に取る。先ほどまでメッセージをやり取りしていた諸岡のアイコンが目に入る。続きをどう書き出そうか、ちらと考えたが言葉が浮かばない。知らず知らず通話ボタンを押していた。
……
呼出音が空しく鳴り続ける。諸岡の声は戻ってこない。
諦めてスマホを投げ出しまた天井を見る。娘の様子が気になり、壁際に耳を寄せる。厚い防音ボードが隣室の気配を消し、自分の荒れた呼吸だけが跳ね返ってくる。
眠れそうにない。
なぜ? なぜ?
誰に宛てるでもないひとり言を、美智子は何度も何度も繰り返した。
ベッドの上で手鏡を覗き込んでいる。左の頬に細い指の跡が赤く残っている。流香もまた、胸の鼓動がいつまでも収まらない。
慎哉にも、詩音にも、他の誰にもメッセージを送信する気にならない。ミニーマウスの大きな抱き枕に身体を預けそのまま目を閉じた。
仲の良い母娘に戻れたと思った。だが不用意なひと言が、想像以上に母親を傷つけてしまった。後悔したし謝りたいとも思ったが、咄嗟に言葉が見つからなかった。
今日一日のことが次々に蘇る。バス停で見かけた父親と、その息子と、その子の母親の姿が何度も何度も繰り返し脳裏に浮かぶ。その度に、あそこへは行けない、自分の居場所はない、そう思う。
では、ここが自分のいるべき場所だろうか? いや、ここはママが新しい生活のスタートを切る場所で、自分は誰も知らない場所へ行くしかない。それはどこなのだろう?
抱き枕のミニーが涙で滲んだ。
木曜日十八時でどう? そう返信したが返事がない。慎哉は流香からのメッセージを待っていた。いいの? と念を押したがそれにも返信がない。突然途絶えたメッセージは事態の暗転を思わせたが、それを確認することは憚られる。
一花の目を避けて玄関を出る。外気は思った以上に冷たい。仕方なく隣のコンビニに向かい、ビール類が並ぶ大型冷蔵庫の前に立ってみる。相変わらずストロング系ばかりだ。それを買う気にもなれず、入り口に戻る。目の前のマンション七階の部屋を見上げる。暖色の明かりが漏れるが人影はない。そこへ戻るのも躊躇われ、もう一度冷蔵庫の前に戻る。最近CMが目立つ新商品を手に取り、レジに向かった。
一緒に入るのを嫌がる堅を無理にバスルームに押し込んだ。泡立ちのいいシャンプーをいつもの倍の量使い、息子の髪の毛を入念に洗い始める。最初こそ嫌がっていた堅もそのうちおとなしくなり、一花の太腿の中でこくりこくりと揺らぎ始めた。
今度の木曜日、ちょっと出かける…… 慎哉がスマホの画面を眺めながら呟いた。堅はどするの? 咄嗟に子供の名前を出した。慎哉がここに留まるのは、彼と血のつながらないこの子のためだと知っている。彼が大切なのは段々雰囲気が似てきたこの男の子だと思っている。男の子は生まれてから父親に似るという。堅の子供らしからぬ諦めた横顔は慎哉にそっくりだ。
一花は洗い終えた堅の髪の毛に強いシャワーをかけようとする。だが……思いとどまった。何の疑いもなく自分に凭れかかる息子をギュッと抱き締めた。
濡れた髪をブローし終えても鏡を見つめている。昼間、ショートヘアは似合わないと言われたことを思い出す。髪をアップにしたり下ろしてみたり。正面を向いたり横顔を眺めたり。いつまでも詩音は鏡の中の自分から目が離せない。
連絡先を交換した一ノ瀬のアイコンを意味もなく眺めて、ふぅとため息をつく。
ふと、流香のことを考える。街に戻る電車の中の、あの夕暮れの気配も一緒に蘇る。あの時、同じ電車に揺られていた人々は今どんな時間を過ごしているのだろう。流香だけが特別な時間を過ごしているのだろうか? 自分だけが何事もない平穏な時間の中にいるのだろうか? いや、決してそんなことはない。誰にでも同じだけの幸せと同じだけの不幸が、時間差でやってくるだけだ。彼女が特別ではない。自分も特別ではない。そう思わないと心が落ち着かなかない。
一ノ瀬のアイコンをもう一度眺める。こちらから連絡するのは恥ずかしいことだろうか? そう思っただけで、結局スマホを手に取ることもなく、詩音はベッドに潜り込んだ。
書斎に積み重ねた古い書物を仕分けしている。娘と孫のふたりが困らぬよう、価値のないものから処分しようと考える。だが、どの書物にも過去の断片が染み付いており、古い紙の匂いすら手放し難い。諦めてまた元に戻し、早乙女は窓の外を眺めた。
隣のマンションの窓明かりに照らされて、庭の盆栽がほどよく浮き上がる。あのマンションがまだなかった時分、黒塀の内側は不気味な闇に沈んでいた。その頃の方が良かったかと問われると実は微妙な気もする。ただ、あの頃は隣に妻がいて、退屈するとつまらないことを話しかけてきた。その姿は美智子の姿に重なる。アマダイを盛ったざるを掲げた無邪気な姿は、かつて、この部屋の中にいつでも存在していたものと同じように思えた。
もっと大事にすればよかった…… 一瞬そんなことを思ったが、窓から忍び寄る冷気に押され、老人はそのまま寝室に消えた。
駅前の中華料理屋で遅い夕食の席に着いた。スマホは自室に置き忘れてしまった。美智子からの返信は突然途絶えた。今夜はもう返信はないだろう、そんな気がした。ギョウザと半チャーハン、五目そばにビールを注文する。
店の小さなテレビではプロ野球チームの優勝を繰り返し報じている。浮かれた選手がインタビューしようとする女性アナウンサーに頭からビールをかけている。そのシーンを見た店のオヤジが、苦虫を噛み潰したようにちっ、と舌打ちする。それは彼らの蛮行に憤ったのか、ふがいないジャイアンツに憤ったのかわからないが、なんとなく話しかけづらい。
習慣で五目そばにはたっぷりの酢をかけたいが、瓶の底には僅かしか残っていない。諸岡は仕方なくあるだけの酢で我慢して、五目そばを掻き込んだ。
桃はとっくに寝てしまっている。杏は母親とソファに座り、コメンテーターが説明するオリンピックメダリストの不祥事を熱心に聴いている。
日曜日の夜がそれぞれに更けた。




