美智子と流香 その4
こんな時、いつもの流香ならぷいと席を立ってしまうのだが、今夜の覚悟は余程固いらしい。キッと睨む美智子の強い視線にも怯む様子を見せず、テーブルに広がったコーヒーのシミを黙々と拭き始めた。ティッシュペーパーがコーヒーの色を吸い取り、テーブルが元の白色に戻る頃、ふたりの間の荒んだ空気が徐々に融解し始める。美智子がふぅとため息をひとつついて立ち上がり、もう一度コーヒーの缶を開けると、甘くふくよかな香りがふわりと部屋を包み、背後でずっと流れていた九十年代のラブソングがふたりの間を取り持つようにその場を和ませた。
「これってどっちの趣味?」
流香が卓上の小さなスピーカーに目を向けつつ、コーヒーカップを口元に運んだ。
「ベイビーフェイスのこと? パパ」
「ふ~ん。これ、聞き覚えがある。車の中でよくかかってたでしょ?」
「そうだったかなぁ」
美智子にははっきり思い出す光景があったが、それを口に出す気にはならないようだった。
「パパはさ、昔付き合った女が好きだった曲をずっと聴いてたからね。呆れるでしょ」
「あのあたりのCD全部?」
「そこら中のCDは全部。アハハハハ、笑えるよ、まったく」
美智子が友人の呆れた昔話を懐かしむように話すので、流香はホッとしてコーヒーの薫りを深く吸い込んだ。
「ママはそれを知って何とも思わなかったの?」
「どうだったかなぁ…… もう忘れたよ。そんなこと」
「でも今は平気で聴けるんだね」
「だってさ、AAAはどうも趣味に合わないしさ」
美智子が悪戯っぽい顔で皮肉る。流香は悔しいけどなぜか嬉しくもあった。
しばらく、ふたりでベイビーフェイスに耳を傾けた。美智子にとっては懐かしいラブバラードだが、流香にはスローテンポ過ぎて物足りない。この曲に同じ思いを寄せることは無理でも、ふたりとも冷静さを取り戻すことは出来たようだった。
「ルカ、あと少しじゃない。今、ここで一生分の結論を出し急ぐことはないと思うんだけど」
思い出の中から抜け出た美智子が静かに語りかけた。
「大学で色んなことを経験しておいでよ。ここで暮らすとか違うところで暮らすとか、そういうことはどっちでもいいような気がするんだけど、違う?」
流香の悩みがどうであれ、美智子だって娘のためだけを考え続けてきたのだ。自分の価値を押し付けるつもりはないし、たとえ親の希望と相容れない進路を選んだとしても受け入れる用意はある。ただ、そこに慎哉の影を見ることが嫌で仕方がなかったのも事実で、似たもの父娘のふたりを苦々しく思ったことも正直数知れない。もし、流香が自分のコピーのようならどんなに良かったか、そう思った日もあった。だが、そんなことを思ってしまう都度、自分を罵った。自分は一体誰の幸せを願っているのかと、本当に自分を強く戒めてきたのだ。この子が大学を卒業するまでは…… そんな頑なな決意を何度も自分に確かめた。
「ホントはね、やってみたいことは色々ある。大学に行くのが全て無駄と思ってるわけでもない。でも、ここから通える場所で、ママとパパの顔がちらつくところにいると、それは息苦しい。ふたりには忘れられた存在になりたい」
親の顔がちらつくことが息苦しい、忘れられたいと娘が言う。その言葉の重さを美智子はとても一人では受け止められない気がした。間違いなく何かがどこかで間違っていたのだろう。その間違いの皺寄せが全部この娘の肩にのしかかっていたとしたら、この子の背負った重荷に、自分はそれと気づかず、さらにさらにと次々荷を重ねてきたことになる。
「どうしたいの? やっぱり家を出る? それからどうする? ちゃんとやれる?」
美智子は矢継ぎ早に質問を繰り出した。こんな時、どんな言葉をどのようにかければいいのかわからなかったのだ。
「さっき一生分の結論を出し急ぐな、って言ってなかった?」
「あっ…… ごめん」
ベイビーフェイスが流れている。流香にはこの曲と結びつく思い出は車で移動したことくらいだが、美智子には慎哉との捨てきれぬ思い出もあった。ふたりで、未だ見ぬ子の未来をを語り合ったこともある。その時の慎哉の横顔がふと浮かんだ。
「一度、パパも呼んで三人で話そうか」
母親の口からこんな提案があると想像してもみなかった流香は、まじまじと母親の顔を見つめた。
「いいの?」
「あなたたちふたりでこそこそ同盟結ばれるよりね」
「バレてた?」
「やっぱり…… そうじゃないかと思った。わかってても、そうでした、って聞くとイヤな気になるもんだね」
言葉とは裏腹に美智子の顔は柔らかな笑みを湛えた。それに気づいた流香は、子供らしい素直さを取り戻す。
「じゃあさ、ママが働いているお店で話そうよ。たまにはトルコライスじゃないちゃんとしたものが食べたい」
美智子は子供のようなリクエストを言い出す流香がいじらしくて仕方なかった。ちゃんとしたもの、おいしいもの、そういう食卓を用意してこなかったことを、この時初めて後悔した。
「いいよ。オーナーに頼んで、流香が好きなものを用意してもらうよ」
「やった~! じゃ、ステーキで!」
「田舎料理の店で?」
「え~~~っ、じゃあどんなのがあるの?」
「魚介類とか、変わったお豆腐とか……」
「そっちかぁ~。まあいいよ、なんでも。パパは好きだね、きっとそういうのが」
「そう?……」
そうだろうと思ったが、そうだね、とは言えない。慎哉に対して美智子はあくまでも頑なだ。しかし、流香とこんな着地点を見つけられたのなら良しとしよう。いつか、三人で話そうとは思っていたのだから。
「パパにはママが連絡してくれる?」
「えっ……、あなたしなさいよ」
「めんどくせーなー。まぁいいや、ママがメールして返信ないと困るしね」
話しながら抹茶アイスの蓋を揃って開けた。ハーゲンダッツはバニラだな、美智子はそう思ったが、おいしそうに食べる流香を見てそれは口にしなかった。
「今度の木曜日はどうか、だって」
しばらくして流香が液晶画面を美智子に見せる。モズのアイコンが木曜日がいい、そう応えている。
「これ、パパなの?」
「そう。西島秀俊のMOZUからモズ」
「まったく、いくつになってもくだらない……」
「ホントだよ。だけどのっぺらぼうのママよりいいかも」
「そうなの? 変に感じる?」
美智子は諸岡もそう感じるのだろうかと一瞬男の顔が頭をよぎった。
「さあね。人によるんじゃね?」
その醒めた言い方に美智子は諸岡が言っていた言葉を思い出す。ひょっとして、流香は自分が諸岡とLINEのやり取りをしていることを嫌がっていたのだろうか? 美智子は恐る恐る質問してみる。
「人のスマホが鳴るのって気になるほう?」
「そりゃ気になるでしょ、普通。誰とやり取りしてるのかな、くらいは思うんじゃない?」
「…… 」
「ママは気にしたことないの? 普通の親は子供のスマホはすごく気にするらしいけど。うちはママもパパもホント気にしないよね」
「…… 」
「関心なかった?」
「…… そういうものかと思ってた」
「ふ~ん。変わってるね。ラクチンでいいけどさ」
そうではない。娘の変化は直ぐにわかる、そう思い上がっていたのだ。結局、何も気づいていなかったようだが。
「木曜日でいいの? いいって返信するよ」
「うん」
美智子は諸岡と続けてきたメッセージのことを流香がどう思っていたのかに気を取られ生返事を返した。
「六時でいいよね。お腹すくのイヤだし」
流香が時間を指定するまで、美智子は生返事のことに気が回らないままだ。
「はい、決まり。ケンも呼んじゃうかな」
聞き慣れぬ名前に美智子がぼんやりした意識を取り戻す。
「誰? ボーイフレンド?」
「あれ? 知らなかったの? パパの子ども。ケンちゃん」
「あなた、そんなことまで知ってたの?」
「時々会ってたからね」
「…… 」
「この際、ママも彼氏呼びなよ。パパにも奥さん連れておいで、って言ってみよっかな」
「流香っ!」
美智子は思わず流香の頬を思い切り引っ叩いていた。娘に…… 娘に指図される筋合いの話じゃない! 美智子の開きかけた心は、貝よりも固く閉じた。




