美智子と流香 その2
重い足取りで家に辿り着いた美智子は明かりが漏れる玄関のカギを自分で開けた。明かりは点いていても、物音もせず温かみもない。流香はいつものように自室に籠り、ヘッドフォンでさらに閉ざされた自分だけの世界にいるようだった。
シャワーを使い、顔の手入れもそこそこに、キッチンで立ったままお茶漬けを掻き込んだ。空腹ではないが、何かを流し込まないと心が落ち着かない気がしたのだ。そこに流香がやってきて冷蔵庫を開けた。
「お腹すいた。何かない?」
「食べてないの?」
キッチンは朝出かける前に美智子が洗い物をしたままで、料理をした形跡がなかった。
「友達と会って夕方ピザ食べたけど、ちょっとお腹空いてきた。コンビニで何か買ってこようかな」
「タコライスでもつくる?」
「そればっか…… もう飽きたよ」
「贅沢言わないで。イヤなら作らないから」
「いいよ、別に。隣で何か買ってくるから」
流香は美智子の言葉を受け流して出て行った。好きにすればいい。美智子は流香のことまで考える余裕がなかった。
束の間、ホントに束の間、諸岡と一緒に過ごせて気分が晴れていたのに、同じ日の夜、こんな気分にさせられるとは夢にも思っていなかった。あの老人は何を好んで人と諍いを起こすのだろう? ひょっとして諸岡に対する嫉妬心だろうか? そうだとすると、さすがに笑える。娘ほどの相手に、そんな気持ちになれる男という生き物が理解できない。凭れかかれば支えてくれそうな人、とは言っても、凭れかかると同時に手を出されたのではたまらない。そういう意味で凭れかかりたいなんて一度も思ってないんだから、そう思いながらドレッサーの前に座り、手順通りの手入れを始めた。
弛んではいない。まだ、大丈夫。そう思う反面で、慎哉と出会った頃のぼんやりした目元はいつのまにか引き攣ってキツイ印象を与える。諸岡が現実世界の自分に手出ししようとしないのは、この強い目線のせいかしら、ついそんなことを思うと、クリームを延ばす指先に力が入ってしまった。
コンビニから戻った流香が何度もドアチャイムを鳴らす。
「鍵ぐらい持って出なさいよ」
余計なひと言がつい口を突いて出る。
「ふん」
流香は知らん顔をして部屋に入ろうとする。それがどうしても許せない。
「流香!」
つい大声になる。
「なに」
「何か言いたいことがあるならハッキリ言いなさい! もういい加減にして!」
ダメだ。相手は受験生だ。気も立っているに違いない。声を荒げてどうする。美智子はいきり立った自分を無理にでも抑え込もうとして顔を歪めた。
「ママ」
「なに」
「私ここ出るよ」
「何言ってんの、大学もまだ決まってないくせに」
「大学は止めた。意味がない」
「意味がないかどうかは入って確認しなさい!」
「くだらない」
「なにが」
「なにもかも」
「何が何もかもなのよ!」
美智子は流香をひっぱたこうとして手を振り上げたが、その時、LINEの着信音がして一瞬怯んだ。
「ほら、お呼びですよ」
流香はそれだけ言うと知らん顔して自室に閉じこもり、ガチャリと音を立てて鍵をかけた。
ダイニングテーブルに腰を下ろし、美智子は塞いだ気持ちのまま諸岡からのメッセージを読む。
『今夜のことは気にしないでおこうよ。ね』
直接の被害者は諸岡の方だから、彼が怒りを抑えて自分に話しかけてくれている気持ちが嬉しかった。
『フミちゃん…… 会いたい』
それだけ打ち返していた。打ち返しながら涙が溢れてきた。
『また親子喧嘩?(笑)』
諸岡からはあっさりした返事が戻る。
『もうイヤ。今すぐ来て』
もうどうにでもなれ。
『え~、だってもう新宿線に乗り換えちゃったよ』
『引き返して来て』
『タクシーで?』
『そう』
『で、またタクシーで帰るの?』
『そう』
『じゃあイヤだ』
『いいよ。じゃあ泊めるよ』
『親子喧嘩の最中に?』
『そう』
『やっぱイヤだ』
『はくじょうもの~~~~~~~~』
『こっち来ればいいじゃん』
『娘を置いて出られません』
『娘の居るところに男を連れ込むのはいいわけだ』
『もういい……』
『ゴメン、冗談』
『冗談になってない』
『だからゴメン』
『泣く……』
もう泣いている。涙が止まらない。今、諸岡がLINEを打ち切ったりしたら、きっと自分は大声で泣いてしまう、美智子はそう思った。
『泣いていいんだよ』
少し間があって届いた諸岡からのメッセージは諸岡らしい一文だった。
『泣けない』
涙を流していても泣けはしない。泣いたら負けなのだ。この七年間、ずっとそう思ってきた。
『ひょっとしてさ。LINEの着信音オンにしてる?』
諸岡が急に変なことを聞いてくる。
『してるけど』
『それはまずいんじゃないの?』
『どうして? 鳴らなきゃ気づかないでしょ?』
『ルカちゃん、そういうの気にしない子?』
『しないでしょ。だってあの子のスマホなんか鳴りっぱなしだよ。ラインラインって煩いったらないんだから』
『そうか。でもね、前から気にはなってた』
『なんで?』
『ルカちゃんがみっちゃんに冷たくなったっていうのはさ、LINE始めてからじゃないかなと思ってたから』
『受験生だからイライラしてるのよ』
『意外に鈍感な母親?』
『悪うございました』
『怒った?』
『ううん…… 悲しかっただけ』
『怒ってんじゃん』
『だってフミちゃんにまでそんなふうに言われたら、もうどうしていいかわかんない』
突然、流香の部屋のドアが開いた。彼女はリビングには顔を出さず、そのまま浴室に向かったようだった。いつもなら着信音のことなど気にもしなかったのだが、諸岡に言われて気になった美智子は、着信音量を最小に絞り込んだ。
『今日のデート、楽しかったよ』
諸岡が急に話題を変える。デート…… その言葉はふたりの関係にも当てはまるのか、美智子はちょっと寂しさを感じた。
『ああいうのもデートなの?』
『デートじゃなきゃなんだよ。打合せか?』
プッと噴出した。いくらなんでも打合せはないだろう。そう思う間に段々怒りが収まってくる。
『そうね、打合せね。ランチタイムミーティング、今日はちょっと場所を変えましょう、くらいな感じ?』
『腕を組んで歩くのに?』
『そのくらいのスキンシップなら』
『新幹線の中でキスするくらいも許せるんだ?』
美智子は諸岡とふざけあっていると気分が落ち着いてくる。傍に居たいという気持ちもあるが、居なくてもこの状態が続けばそれでいいとも思う。ただ、彼を失いたくないという気持ちだけは強くある。
『そのくらいは許すよ、フミちゃんだから』
『そのくらいまでなの?』
ドキドキしてきた。
『会いたいね……』
そう送信していた。きっと、今夜も諸岡は美智子のために夜を徹してメッセージのやり取りをしてくれるのだろう。それを信じて疑わなくていいだけでも、自分は幸福だと美智子は思ったが、ドキドキする気持ちがいつまでも収まらないのも確かだった。




