一花と慎哉 その2
一花は、隣りで眠る慎哉の寝顔をつくづく眺めた。出会った頃より目尻の皺は深く濃くなっているようにも見える。だが、こうして無防備な顔を向けられると、憎らしさと同時に愛しさも湧いてくる。ついでに、やっぱり自分にとって必要な男には違いないと思うし、それどころか、ある意味では命の恩人なんだからと思い直すところもあって、心の中にさざ波が立つ。寝ている間に首を絞めてやろうかと軽い殺意を感じた時期もあったが、それは何も考えずに抱きつきたいという気持ちの裏腹であったことに今は気付いているから、結局一花は自分の内なる感情を持て余し、寝返りを打つしかない。今度は目を見開いて天井を眺めた。
「同情なんかまっぴらだから!」
慎哉に一緒に暮らさないかと言われたとき、一花が思わず口にしたその言葉を、あの時の慎哉はあらかじめ判っていたかのように平気な顔で聞き流した。その時の、慎哉の落ち着き払った顔を、一花は今でも忘れられていない。妻も子もあるのだから本当は迷ったに違いないし、口に出してはみたものの、自分が拒否するのを待っているんじゃないかと深読みしたりして、そんな自分が情けなかったことも、悔しさでいっぱいだったことも、一花は昨日のことのように思い出し眠れなくなることがある。
「一花のためだけじゃないんだよ。生まれてくる子供のためだけでもない。ボクが自分自身のために、お前を必要としている。わからないかもしれないが、そうなんだから」
あの時、慎哉は確かにそう言った。自分のためだと繰り返した。同情なんかじゃない、自分のために誰かに必要とされたいと。
「あんたには必要とされている家族も、会社もあるじゃないの。そんな見え透いた嘘なんか、誰が本気にすると思ってんの? バカじゃないの?」
一花は口を極めて罵った。お金持ちの、恵まれた人間の、ちょっとした同情心を向けられたところで、そんなものが長続きしないことは、テレビドラマだって取り上げないから、そう毒づいた。
「わかってもらえないよな…… それはそれで仕方ない」
慎哉は寂しそうに笑った。何度も誰かに裏切られてきた人間が、またか、というような醒めた笑いを口の端に乗せ、悔しそうに俯いていた。あの頃はまだ口髭もなかったし、仕立てのいいスーツにネクタイを外した姿がどこか不良少年の続きをやっているようで、馬鹿馬鹿しい演技だと思いながらも、彼から目が離せなくなったのも事実だ。
「私があなたを必要としているとか、あなたを好きかどうかってことは関係ないんだ」
「ああ。それはもういいんだよ。君はボクのことが好きなはずだが、この先もずっと否定するだろうよ。でもいいんだ。君の目がボクを求めているから」
一花は慎哉を思い切り張り飛ばした。それは、すべてを見透かしているように語る慎哉に、どうしても抵抗したかっただけで、抵抗することだけが目的だったかもしれない。慎哉が正しいとか正しくないとか、自分が相手を必要としているとかしていないとか、そういうこととはまるでかけ離れた次元で、彼が自分を求めていることが伝わってきたし、彼女もそこに留まりたくなかったわけじゃない。でも、それが許せなかった。慎哉のことも、そしてそんな自分も。
「バカみたい……」
それ以上、一花は継ぐべき言葉を持ち合わせていなかった。父親のいない子供を産んで育てることに不安がないわけではない。誰かに縋りたい。そんな気持ちを逆手に取られている気がして納得できないのだ。今、このまま彼の言葉に乗っかかれば、これまでの孤独な生活が、ここでようやく終わりを迎えるかもしれないと思ったのも事実だ。ペットではなく、生きている人として子供が欲しいと願った一花だが、本当はもっと温かな家庭を求めていたのだから。だけど、出来過ぎたストーリーからあとで放り出されるのはもうご免なのだ。
ごそごそと寝返りを打って慎哉が目覚めた。
「ん? 今何時? 寝ないの?」
「…… ねぇ」
「なに?」
「引っ越さない? ここ、息苦しい」
「引っ越しかぁ」
慎哉が上半身を起こした。一花もそれに倣って半身を起こした。一花の豊かなバストを自然に手のひらで包み込みながら、慎哉がさも何事でもないという口調で答えた。
「いいよ。どこでも」
おそらく自分が決めれば、彼は否定はしないのだろう。大まかな希望を伝えると、慎哉はきっとその条件を満たす場所を探し出してきて、気づいたら新居での暮らしが始まっているのだろう。だが、そんなことを望んでいる訳じゃない。
「止めた。どこに行っても同じだわ、きっと」
慎哉はその答えも織り込み済みだったという表情で口の端を緩める。
「好きにすればいい。ボクは君とケンのためなら何でもするよ」
そうなのだろう。だけど、なぜこうも自分は満足しないのだ? 一花は胸のわだかまりが理不尽な理由によるものとわかっていても、口に出して慎哉を意味もなく詰るしかなかった。
「最近、あの子、よく来るね」
「流香?」
「前は月に一度あるかないかだった」
「そう?」
「なんだって?」
「別に大した用事じゃないよ。お小遣いが足りなくなっただけだよ」
「ふ~ん。離れた父娘って、援助交際と同じだよね。気味悪い」
慎哉は弄んでいた一花のバストから手を放し、ベッドに潜り込んだ。
「寝るよ。おやすみ」
一花はいたたまれない気持ちでベッドから起き上がると、隣りの部屋で眠る堅のベッドに潜り込み、小さな背中を抱くようにして眠った。あまりの窮屈さに、堅は無意識のうちに寝返りを打とうとするが、一花はギュッと抱き締めてそれを許さない。
不幸せじゃないから幸せとは限らない。一花にとって、たったひとつだけ確かなものは、結局この腕の中にすっぽりと納まるこの子だけなんだと思い、強く目を瞑った。
やがて、堅と一花から静かな寝息が漏れ始め、いつの間にか一花の腕の中から堅が解き放たれた。




