美智子と早乙女と諸岡 その2
「ここのカウンター席は特別だな」
少し呂律の絡んだ老人が口の端を歪めて語り始める。
「ホントそうです。私など、先生の威を借りないとここには座れません」
諸岡がすぐに反応して軽口を叩いたが、今日ばかりは老人に向かって下手な冗談は通じそうにないと見て取ったオーナーは苦い顔で笑っている。
「いや、最初に誘ったのは私だが、そのあと馴染みになれるかどうかは君の才覚だよ」
老人の大袈裟な物言いにオーナーは益々困った顔になる。いつもと明らかに違う老人の態度を感じ取った彼は、それと気付かれぬよう、諸岡に目配せでアラームを出す。諸岡もそれに気づき、いつもより丁寧に受け答えする。
「私は先生とここで盃を交わしながらお話を伺えるのが楽しみなだけです」
その言葉に嘘はなかった。いつもならその言葉を素直に受け取るはずの早乙女だが、今日は違った。
「老人の昔話が面白いなど、君は奇特な人だよ」
いつまでも皮肉な物言いが止まない老人に、諸岡も口を閉ざした。明らかに妙な空気がふたりの間に流れ、オーナーは奥のキッチンに姿を消した。
「諸岡君、僕は大学でも院生相手の講座しかなかったから、十七やそこいらの子の気持ちがわからなくてね。いつも困っているよ」
「はあ……」
老人が唐突に持ち出した話題に、諸岡は返す言葉を見つけられない。ただ、日頃の早乙女は愚痴をいうような老人ではなかったから、何か腹に据えかねる若者でも目にしたのだろうと単純に考えた。
「実は今ここに来る前に駅の喫茶店にいたんですが、隣で高校生らしい少女がふたりで楽しそうに話していて、そのうちのひとりが知り合いの娘さんと同じ名前だったんで驚いていたところです」
そう言うと、諸岡は無意識に美智子の姿を探した。偶然隣り合わせた少女が美智子の娘ではなかったか確かめたいと思ったのだ。
「私もここに来る前にやはりふたり連れの少女たちに出会った」
老人は硬い表情のままそう言葉を返した。
「へぇ。お互い、今日はそういう年齢の子に縁がある日ですね」
諸岡はようやく笑える話題が見えたようでホッと胸をなでおろす。ところが、老先生の様子はどうしてもいつもとは異なる。
「君はその年齢の娘さんたちとよくかかわりがあるのか?」
「えっ? 仕事でですか? ないですよ。高校生でしょ? 女子高生。そんな子と下手にかかわるとロクなことにはなりませんよ」
諸岡は明らかに冗談を言ったつもりで手を横に振りつつ笑ったのだが、老人はなぜか聞き捨てならないというふうに噛みついた。
「君はそういう目でしか彼女たちを見ていないようだな。人格形成の上で彼女たちが微妙な時期にあることを、まるで理解していないようだ」
「…… すいません」
諸岡は驚いた。いや、本心では空いた口が塞がらないほど呆れかえった。これは明らかな言いがかりで、そんな目に遭わなきゃならない理由が見つからない。失礼にも程がある。老人の身に何があったかは知らないが、八つ当たりが過ぎる。だが、相手は世話になっている老人でもあり、一旦は怒りを鎮めて口を慎んだ。
「はい! お造りから。あとは焼き物か煮物か、どちらがいいかしら?」
何も知らない美智子が会話に入ってきた。だが、ふたりの様子がいつもと異なることに気づく様子がない。彼女も諸岡と過ごした時間の中にいたままだったのかもしれない。
「先生はどちらにします?」
「うん。じゃあ煮物で」
「では、ボクも」
何気なく諸岡はそう答えたが、これにも老先生は噛み付いた。
「はっきりと好みを伝えたらいいだろう」
「えっ?」
「好きなものを好きに注文しろと言っているんだ。いちいち私の顔色を窺わなくてもよろしい」
諸岡と美智子は顔を見合わせた。老人の偏屈とはこんなものか、いつも怜悧な理性とダンディズムの塊のような老教官ですら、このような老醜を晒すのか、そんな唖然とした顔で互いを見合った。
「ふたりが目と目で会話するのは不愉快だ。悪いが君は向うの席に移ってくれたまえ!」
何が老人の気に障ったのか、諸岡も美智子もその真意を測りかねた。はいそうですか、とも、なぜですか、とも言い出せず、諸岡も美智子も、ただその場に固まるしかなかった。ふた組のニューフェースは、いきなり始まった常連の剣幕に恐れをなして縮こまっている。
「先生、今宵は私がお相手させてもらっていいですか?」
オーナーが奥から小さな冷酒徳利とちょこをもって先生の前に座った。
「これは名品ですよ。ここの蔵元が古くからの友人でね。品評会に出した樽の一本を毎年必ず送らせるんですよ。今年のはまだですが、これ、賞をとった年のものです」
老先生は闇雲に振りかざしたこぶしの下ろしどころがなく、上手に割り込んだマスター相手に日本酒談義を始めるしかなかった。
「フミちゃん…… こっち」
美智子が小さな声で諸岡をカウンターの反対の隅に誘った。諸岡は老先生に一礼して、無言で席を移動した。その目は険しく、理不尽に堪えかねるというふうにも見えた。
「ごめんなさい。こんなことないのよ、いつも。何かあったのよ、きっと」
「気になんかしてないよ。ダンディズムの権化も、ひと皮むくとただの人ってことだよ」
諸岡の目は笑っていなかった。盃を持つ手も小刻みに震えている。美智子の目の前で恥をかかされたことに怒りが収まらなかったのだ。
カウンター席は先ほどまでの快活さを失い、美智子もその場をどう切り回せばいいのかわからなかった。立ち位置も定まらぬまま、カウンターとキッチンとを行ったり来たりしている。諸岡は出されたアマダイの身を丁寧にほぐしながらも、折角の味付けを楽しめぬまま、静かに盃を重ねた。
やがて新参の客たちが勘定を済ませ、コの字のカウンターで向き合う形になった老人と男は、どちらとも居住まいが悪くなり落ち着かない。とうとう先に老人が腰を浮かせた。それを見て、諸岡は玄関先に先回りし正座した。
「先生。今日は誠に申し訳ございませんでした。私の不用意な発言で先生のお気を悪くしたこと、心からお詫びします」
諸岡は深く頭を下げた。理不尽だとしても、世話になっている年上の者に逆らうという選択肢はあり得なかったのだ。
「世話になった」
老人はひと言、男に言葉を投げたが、立ち止まることなくその場を立ち去ろうとした。
「先生! あんまりです。諸岡さんが可哀そう過ぎます。理不尽です」
美智子は一気にまくし立てた。この老人が常連客であったとしても、今夜の振る舞いはどうしても許せなかったのだ。オーナーもカウンターの奥で仕方ないという顔で見ている。彼にしても今日の様子は最初から老人の御乱心に映っていた。
上がり框に腰を下ろして靴を履きながら、老人はひと言も言い訳することがなかった。ただいつも通り、手入れのいい革靴をゆっくりと履き、背筋を伸ばし、それから店内を振り返って軽く会釈をした。
「美智子君、目の前の大切な人をお大事にな」
美智子はそれを諸岡のことと受け取った。諸岡は果たして誰のことを指すのだろうと訝しんだ。店のオーナーは常連が再びこの店を訪れる日がいつになるのだろうかと寂しい顔になった。
カウンターの花挿しのガーベラが、少し萎れて見えた。




