美智子と早乙女と諸岡
「あら、先生いらっしゃい! 今日はいいお魚が入ってるんですよ!」
早乙女が「桔梗」の玄関を入ると、暖簾をかき分けて美智子が明るい声で出迎えた。ただ、いつもなら玄関先まで迎えに出てくれるはずの彼女が、今日はすぐキッチンに姿を消してしまい、早乙女としては手順をひとつ飛ばされた気分になった。やや不機嫌な顔でいつもの席に着く。
「ほら! これ、立派でしょ!」
美智子がざるからはみ出しそうな魚を掲げて早乙女に笑いかける。
「アマダイ、かな?」
「そう! マスターが古いお知り合いから直接仕入れたんですって。綺麗なお魚よね。この黄色の挿し色が素敵でしょ? 水中で泳いでいたらきっと女王様よね」
美智子は子供のようにはしゃいでいた。何かいい出来事でもあったのだろうと、見る者すべてがそう思わずにいないほど、今日の彼女は陽気で明るい。
「お刺身ですよね? それと、半身は煮魚がいいかしら?」
この時間から珍しくキッチンで仕込みをしているオーナーに美智子が話しかける。その声色は、特別の素材を最高の形で早乙女に勧めたいという彼女の人の好さが現れていたから、老紳士も今日ここに来たもうひとつの目的を忘れ、美智子の健全な美しさを愛でることにした。
店はいつもより客足が早く、早乙女のあとに続いて数組の予約客が座敷席を占め、いつもなら座敷に案内されるはずの一見客も珍しくカウンターに席を勧められた。三十代前半の男女ふた組が、この店の雰囲気がわからぬままにカウンター席に座り戸惑いがちにキョロキョロしている。だからどうしても美智子は新しい客に気を配らざるを得ず、早乙女はしばらく手酌で飲むほかなかった。
二本目の徳利が空になる頃、引き戸をガラガラと開けて諸岡が顔を出した。彼の姿を目の端に確認した美智子は、早乙女を迎えた時の明るく爽やかな様子に、仄かにはにかんだ笑みを口許に漂わせた。そのわずかな変化を、今日の早乙女は見逃さなかった。
「いらっしゃい。先生のお隣、空いてるわ。少し狭いけど我慢してね。今日はね、いいお造りがあるのよ。あとでお出ししますからね」
美智子が諸岡の背中に手をやり、並んで上り框から上がってきたので、カウンターに並んだ二組と早乙女は、仲の良いふたりを迎える形になる。誰が見ても諸岡はこの店の特別な常連に見えたから、カウンターの新客は諸岡と目が合うと、自然に会釈をした。
それを見て、早乙女の笑顔は目元が冷たく醒めたように見えたが、美智子も諸岡もそれに気づかない。美智子は変わらず無邪気な笑顔を振りまいている。
「みっちゃん、先生のお酒、空いてないかい?」
僅かだがいつもと様子の違う老人の気配を察し、珍しくオーナーが美智子を諫めた。
「あっ、いけない。先生ごめんさない。諸岡さんもすぐにお持ちしますね」
美智子が慌ててお酒の準備に取り掛かかる。ふたりの常連はふたり二様の笑顔でその後ろ姿を目で追った。
やがていつもの酒が運ばれ、ふたりの盃に美智子が酌をしてキッチンに消えると、穏やかな笑顔の諸岡と、目だけ笑っていない早乙女が静かに盃を交わした。
「今日は出版社は休みか?」
諸岡のラフないで立ちに気付いた早乙女が、盃を口に寄せたまま静かに問いかけた。
「ええ。ここのところ夜が遅くて、今日はサボりです」
諸岡は悪びれることなく笑った。
「サラリーマンと違って編集業は気楽でいいもんだ」
棘のある言葉に、諸岡は一瞬老人の横顔を確認したが、こういう言い方はいつものことと諸岡もそれに調子を合わせた。
「これでサラリーマンだから始末に悪い」
「そうかもしれんな。サラリーマンなのに時間に不規則だと家族もたまらんな」
「そうです。だから未だに独身で」
「君は結婚をしたことのない独身か?」
「ええそうです。四十二です」
「さすがの私もその年には子供がいたぞ」
「そうですか」
諸岡はここまで話に付き合えばもう十分だろうと見切りをつけて会話を打ち切った。
カウンターの隣で三十代と思しきカップルがぎこちなく箸を動かしている。決して畏まった店でもないが、カウンター席で常連に囲まれるのも堅苦しいだろうと、諸岡が隣の男性に声をかけた。
「この店は遠慮せずに今日は何が上手いですか?と訊けば、珍しい肴が出てきますよ。メニューにないものが」
「そうですか。いや、僕なんかメニューにあるものも珍しいものばかりで」
「試しに頼んでみるといいですよ。ほら、あそこにいるオーナーは女性には特別にやさしいから」
諸岡は男性の隣で緊張している女性に声をかけた。
「オーナー、例のあれ、今日はどうですか?」
「例のあれってなんだい?」
「例のあれですよ、あれあれ、大分かどこかの、あの色の良いやつ、あれないの?」
「姫貝のことか?」
「そうそう、それ! あれなんか色合いがいいよね。味もいいけど色合いがいい」
諸岡はそれを勝手に注文し、隣りと、そのまた隣の客に勧め始めた。一見の客は見慣れぬ珍味を有難がり、オーナーの自慢げな蘊蓄に耳を傾け始めたので、気分を良くしたオーナーがいくつも珍味を並べ始めた。
「君は意外にお節介だな。今日は何かいいことでもあったか?」
老人は相変わらず嫌味な言い方で絡もうとする。だが、諸岡も美智子と過ごした数時間前の余韻の中にあるのか、老人の言葉につられることもなく、しばらくは陽気な酒が続いた。
オーナーは老人の顔がいつまでも渋いことが気になりながらも、如才ない諸岡が老人を怒らせることもなかろうと高を括り、新客の前に陣取り、あれこれ料理と酒を勧めた。
黙って飲む酒は徐々にフラストレーションを高めるものだ。陽気になる諸岡の隣で、老人は盃を重ねるほどに無口に、かつ酒量もどんどん増えるようだった。だが、誰もそのことに気付かない。老人はここでも自分の存在がないがしろにされ始めたことに内心ふつふつとした怒りを覚え始めた。勿論、今日は美智子に確かめたいことがあってやってきたのではあるが、その目的を、老人は忘れ始めていた。




