流香と詩音
バス待ちの列に並んでいた詩音は、後ろからポンと肩を叩かれ、思わずビクッと身体が跳ねた。誰だと振り返り、相手の顔を確かめ、今度は心の底から驚いた。そこにいたのが流香だったからだ。彼女はショートボブと綺麗に描いた細い眉ですっかり大人びて見えたが、うわさに聞いたささくれ立った感じはなく、詩音には中学時代とさほど変わらぬ印象を与えた。
「なんでそんなに驚くかなぁ?」
言葉とは裏腹にずっと笑顔の流香。その笑顔に、不自然なほど大袈裟に驚いてしまった詩音も徐々に落ち着きを取り戻した。
「だって、急に現れるんだもん。ビックリするよ」
「アハハ、階段下りる前からシオンちゃんには気づいてたんだけど、ビックリさせたくてさ」
流香の笑顔は昔からシャープでボーイッシュだったが、中学生の頃より可憐な女らしさが加わっていて、詩音は好きな顔だなぁと改めて思った。
「髪の毛、切ったんだね?」
詩音は耳横でハサミの手真似をして流香に話しかけた。
「うん。バッサリいっちゃいました。どう似合ってる?」
流香はブルーのマニュキュアが目立つ指で、サラッサラな前髪を掻き上げた。
「似合ってる、すごく。うらやましいほど」
「シオンちゃんに褒められると嬉しいな」
「ホントだよ。イセっちはもともと美人だし」
詩音は中学時代に使い慣れた流香の苗字をもじった呼び名を無意識に使っていた。
「うわっ、その呼び方! 久っさしぶりにされたっ!」
「あっ、ゴメン。だって言い慣れてるから」
「だよね。いつだったか、これからはシオンとルカって呼び合おうよ、って決めたのに、シオンちゃんはいつまでたってもイセっちって呼ぶしさあ。あの時は笑っちゃったよ」
「自分だって、シオンちゃんって言うじゃん」
「だね、アハハハハ」
ふたりで笑いあえて互いにスッキリした表情になった。
「せっかく会ったんだし、どっか寄ってかない?」
誘ったのは流香だった。
「うん、いいよ」
詩音も即答で了解する。一年近く会っていなかったのに、ふたりの距離感はあっという間に元通りに修復された感じがした。
「中央通路を見渡せる三階に新しいカフェができたの知ってる?」
「ううん、駅ナカ?」
「違うよ。前からあるんだけど、改装して綺麗になってる。歩いてる人を見下ろしてると何時間でも居られるよ」
「出た! イセっちの人間観察!」
「面白いよね。この人なんで急いでるんだろ? 商談に間に合わないのかぁ? とか、よそよそしいふたり連れ見ると、あ~、こりゃ別れるな、とかさ、好き勝手に想像できるじゃん」
この話しぶりは中学時代からそのままだった。何事も常識の延長でしか考えられない詩音は、自由に羽ばたくイメージのある流香に憧れを抱いていた。あの頃とまったく変わらない流香を目の前にして、ひょっとすると流香に関するうわさは、桃や杏の勘違いかもしれない、あのふたりは昔からテキトーなゴシップガールだったから、などと思うのだった。
駅ビル三階まで階段を歩きながら、詩音はごく当たり前に当面差し迫った進路の予定を訊いてみた。
「イセっちはどこ行くの? 国立?」
「う〜ん、どうだろ。無理っぽいかも。詩音ちゃんは?」
「R大の推薦もらえないかなぁ、って」
「ふ〜ん、スゴイね。うちは私立は無理だから」
詩音は桃たちの話を思い出していた。進学せずに働くという噂話も、あり得る話のように聞こえた。
改装されたカフェは通路に面して全面ガラス張りで、流香の言うとおり、中央通路を急ぐ人たちの様子が手に取るようにわかる。偏光ガラスで通路からは見えないはずだが、通り過ぎる人の顔があまりにはっきり見えて気後れするのか、窓際には中年のおじさんがひとり座っているだけでほぼ空いていた。
「勿体ないよね。なんでみんな暗い室内の席に座るんだろうね。私は絶対窓際だな。新幹線も窓際。シオンちゃんは通路側でしょ?」
「…… はい」
「おトイレ行くときに恥ずかしい人だもんね、シオンちゃんは」
「…… 家族と座る時は窓際だよ」
「それは当たり前」
そう言って流香は笑った。屈託のない笑顔と他愛ない話題。詩音は中学生の頃の休憩時間のようだと思った。
しばらく、差し障りのない話をしていたが、流香が唐突にある提案を持ちかけた。
「シオンちゃんは大学は通学する予定なの?」
「うん。通えなくはないから」
「だよね。シオンちゃんちのパパはひとり暮らしを許さない感じの人?」
「う〜ん、どうかなぁ。でもね、今は多分ダメだと思う」
「どうして?」
「おじいちゃまが…… 祖父がね」
「フフフ、おじいちゃまでいいじゃん」
「だね」
詩音は妙に照れた。
「おじいちゃまがちょっと具合良くなくて、誰かが連れ添っていないと心配なの」
「介護?」
「ううん、そこまでじゃないけど、危なっかしいの。そのくせ出歩きたがるのよ」
「困った爺さんだなぁ」
事情を知らない流香は屈託なく笑った。事情を知っている詩音は笑えない。
「じゃあシオンちゃんとルームシェアは無理か」
桃と杏の話はやはり満更嘘でもないように思われた。いくら仲良しだったとしても、偶然会ったばかりの友人に、いきなりルームシェアを持ち出すなんて、突然考えついたとは思えなかったのだ。
「ゴメンね」
「なんでシオンちゃんが謝るの?」
「だって、なんだか深刻そうだったから」
「うん。深刻。深刻に、お腹空いた」
流香はお腹を押さえてテーブルに屈み込んだ。
「何か食べようよ。食べて行ける?」
「いいよ。何にする?」
それからふたりは、ルームシェアの事は一旦忘れて、十七歳の胃袋を満たすことに専念した。流香はいつもひとりで食べてるから詩音と一緒だと美味しいと言い、詩音はママに栄養バランスのことを言われなくて済むから美味しいと言い、何度も美味しいねを繰り返しながら、ごくありふれたパスタとピザを平らげた。
食後のスウィーツを食べながら話題を戻したのは流香の方だった。
「今日さぁ、パパに会ってきたんだ」
「うん」
流香はパパっ子で、詩音は父親とのエピソードをよく聞かされていた。いつもなら、また流香の父親自慢かと思うところだが、杏から流香と母親の確執めいた話を聞いたあとだけに、詩音は話の先をどう聞いたものか困惑していた。
「すぐじゃないんだけど、アパート借りてくれるって」
「大学生になったらでしょ?」
「ううん。それより早いかも。今ね、作戦練ってるの」
「作戦?」
「そう。ママを説得する作戦」
桃たちの話は正しかった。流香は着々と準備を進めているようだった。詩音は流香の家庭の複雑な事情をすべて知っているわけではないが、両親の別居は流香から、いや……、クラスの誰かの噂話で知っていたから、やはりなんらかの影響があるのだろうと思った。
「お母さんは反対なの?」
「たぶん」
「話してないんだ」
「話せば反対するだろうしさ」
「そうなの? 優しそうなお母さんなのにね」
流香の顔が僅かに曇った。
「シオンちゃん、うちのママ知ってたっけ?」
「うん。顔はね。実はつい最近もバスで会った」
「そんなこと言ってたね。詳しいことは聞いてないけど」
「モモちゃんとアンズちゃんと昔話してた」
流香の顔から表情が消えた。今の今まで感じていた温かな熱が一気に冷めたような印象を与えた。
「モモんちとアンズんちはおばさんたちがつるみ過ぎててなんかヤダ」
あっ、ゴメンと無意識に謝る詩音に、流香は冷たい言葉で話を切り上げようとした。
「たぶんみんな好き勝手な噂流してるんでしょ? 大体想像つく。別にほっとけや、って感じだよ」
流香は眼下に流れる人の波に目を落とし、ふぅとため息をついた。詩音は継ぐべき言葉を見失った。
長い沈黙がふたりの間を割いた。互いにその場を修復する術を知らず、立ち上がれもせず、向き合えもしなかった。
「イセっち……」
詩音が発した言葉に、隣の中年男性がハッとした顔をしてふたりを見たから、詩音は自分の声がそんなに大きかかったのかと恥ずかしくなり、慌ててその男性に頭を下げている。
「ルカちゃん、ゴメンね。気分悪くした?」
隣の中年がずっと見てて気分が悪くなった流香は、不機嫌な顔をもとに戻せないまま、詩音に返事をした。
「ゴメン、シオンちゃんには関係ないことだった」
不貞腐れた顔だから詩音はますます不安になる。
そのまま、なんとなく会話は途切れ、詩音が時計を確認したところで流香が立ち上がった。
「シオンちゃん、付き合ってくれてアリガト。そろそろ帰ろっか」
詩音はこのまま帰りたくはなかったが、流香はもう何も話そうとしない気がして、諦めて立ち上がった。
「また会えるといいね」
流香の言葉が寂しく響いた。彼女は何にも期待していない絶望の淵にある気がした。
「今度、ヘアカットする時、教えて。私も切りたい」
詩音が真剣に言う。流香は驚いた顔になり、やがて徐々に頬が緩んだ。
「いいよ、シオン」
「良かった、ルカ」
この店に入った時の陽気さは失われていたが、中学時代の親友は再びその信頼を再構築し始めたように見えた。




