早乙女と花屋の女性と詩音
詩音は気が重かった。毎週木曜日、いつもなら授業が終わり次第祖父の屋敷を目指すのだが、今日は市民センターに併設された図書館に向かっている。受験勉強を理由に祖父の家を訪ねるのを止めてしまおうかと思っている。月曜日、友人に関する噂話を祖父に話してしまったこと、その結果として祖父の秘密を暴いたかのようになってしまったことが、彼女の足を祖父の待つ屋敷から遠ざけるのだ。
時刻を確かめるとすでに五時。何の連絡もしなければ、祖父は今日の外出を諦めるだろうか? そんなことを想定してみたが、それはない、ともう一人の自分が打ち消してしまう。この日ばかりは自分を待つのももどかしく、外出の準備を整えて庭先で待っている祖父だったから、今頃きっと何度も何度も腕時計を確認し、この時間まで迎えに来ない自分にイライラしていることだろう……
ついに心配な気持ちが勝った詩音はスマホを取り出した。
ルルルルル ……………
呼び出し音が虚しく繰り返す。繋がらないと予感しながらも、実際に繋がらない呼び出し音を聴くと冷たい孫だと詰られている気分になる。念のために母親にも電話をしてみる。待ちかねた祖父が母親を呼び出し予定通り出かけていないか期待したのだが、母親の反応はそんな淡い期待を虚しく打ち砕く。逆に何をやってるのと問い詰められ、今すぐ駅前まで急げと命じられてしまった。気がつくと詩音は全速力で走り出していた。
その頃、早乙女は花屋の奥から店先に戻り、力なく丸椅子に腰を下ろしていた。差し出された湯呑を受け取り、暖を取るようにそれを両手で包み込んでいる。
「彩さん、僕はどうすればいいんだろうね。何が正解なんだろうか?」
老人のひとり語りは店番にすら届かないほどの小声だが、彼女はそれに小さく頷いているように見える。
「そうだよな。余計だったよ。まったく、僕は昔から余計なことばかり繰り返している」
小さな湯呑を両手で抱え、少し前屈みになって話す姿は、いつもの若々しさがなく、目線もうつろだ。
「でも、君も知っている通り、僕は一度だって悪意はないんだよ。下心だってない。考えてもごらんよ、今の僕は誰かの踏み台にでもなるほかは何の役もたたないんだからね」
老人は力なく呟いた。その声は誰かの同情や歓心を買うためではなく、間もなく虚しく消え去る者が、最期の言い訳をしているように聞こえた。
「最後まで僕を大事にしてくれたあのふたりが別々に幸せになるより、同じ幸せを手に入れられればと思っただけだが、彼女の娘のことにまでは気がまわらなかったよ。迂闊だった。あの子が自分の孫娘の友人だったなんて……。そのことで詩音が心を痛めるとは想像もできていなかったよ」
老人の乾いた目から、残された最後のしずくが零れるようにポツリと涙が落ちた。その様子に店番は、肩に手を置くでも回すでも、何か慰めの言葉をかけるでもなく、老人と目線の高さを合わせたまま、ひたすら寄り添い続けた。
「彩さんはずっと前から気付いていたのかい?」
老人が店番の目を見て問いかける。だが店番がそれに応える様子はない。ただ静かに、いつもの穏やかな笑みを向けるだけだ。
「何度も見ていたはずなのに…… 結局、見たいものしか見えていないという事だね」
老人はさらに力を落としたように見えた。
「こんな時、花を持っていくバカもいないから、今日は悪いけど何もいらないよ」
しばらくして、老いた男は徐に背筋を伸ばした。それからさらに時間をかけてようやく立ち上がり、店番に握手を求めて手を差し出した。店番はややはにかみ、老人の枯れた右手を両手で包み込む。すると、老人の顔に生気が戻り、落ち着いた笑顔が蘇る。そして手慣れた様子で店番の頬に自分の頬を寄せた。一瞬、店番はうら若い乙女のように頬を染める。老紳士は心を許した女性に接するように、その瞳の奥を見つめ続けた。
「彩さんは変わらないよ、昔から」
それだけ言い残すと、今日は本当に何も買い求めぬまま、「桔梗」のある路地を目指して歩き始めた。
「おじいちゃま!」
国道に沿った歩道で車の切れ目を待っている老人を詩音が呼び止めた。
「おぉ詩音、どうしたんだい? そんなに走って?」
「おじいちゃま!」
詩音は老人の左手を掴むと、前屈みになったまま苦しそうに激しい呼吸を継いでいる。
「どこから走って来たんだい?」
「し、市民……、せ、センター」
「市民センターぁ! あんなところからよく走ってこれたね」
直線距離で三キロはあるだろうにと、祖父は孫の顔を心配そうに覗き込んだ。
「おじいちゃま、ごめんなさい。お約束の日なのに」
「あ~、そんなこと、どうでもいいのに。第一、私は詩音が思っているほど年寄りじゃないよ」
そう言って笑うが、詩音にはその笑いも、残されたエネルギーを無駄にしているように思えてならない。
「ううん、ダメよ、やっぱり。約束は約束だから」
「妙なところが梨華に似たな」
老人は自分の娘と孫の共通点が嬉しそうだった。
「今日はお花はなしなの?」
あるべきもの、祖父の左手にあるべきものがない落ち着きの悪さに、詩音は不安げな顔になった。
「うん。今日はそんな気分じゃない」
老人は心持ち硬い表情で応えた。それが詩音を不安にさせる。
「おじいちゃま。私が言ったこと、気にしてる?」
「ん? どうしてだね。詩音は友達の心配をしただけだろう? 詩音の友情は正しく美しいと思っているよ」
「そんなんじゃありません。そんなんじゃ……」
あの時、詩音が言い淀んだことを思い出し、早乙女は孫の様子を気にかけた。
「詩音から聞いたなんてことを言うつもりはないから安心しなさい」
祖父は一体何を言おうとしているのだろう? 詩音は祖父が教育者然とした上から目線で話すことが気になった。
「おじいちゃま、あれはお友達のただの噂話なの。それに……」
「それに?」
「それに、本当はおじいちゃまがその話を聞いて、どんな反応をするか確かめたかっただけで……」
「ん? よくわからんな」
「だって、おじいちゃまが…… その…… ルカちゃんのお母さんを……」
「えっ? 私が? なんだって?」
「だって、お花を必ず買っていくし、それは決まった人にだけ渡すものだって…… それに」
「それに何だい?」
「コロン、つけてるでしょ?おじいちゃま……」
早乙女は十七歳の孫娘から恋路を邪魔されているようで思わず吹き出しそうになった。そうか、女の子というのはそういうものの見方をするものだったかと、面白くも新鮮で懐かしかった。
「参ったな」
「ううん、嫌いじゃないのよ、そういうオシャレって。ステキだと思うけど……」
「思うけど?」
「だって、相手が友達のお母さんだと」
それはあながち誤ってはいない。だが、美智子に対する感情は男女の性愛とは少しばかり違うのだと、歩道での立ち話で十七歳にわからせるのも無理な気がした。
「詩音。その心配はお門違いとだけは言っておこう」
「オカドチガイ?」
「そう。まあいい。心配しなくていいよ、と言う意味だ。でも心配かけたことは謝る」
「…… 私」
「いいから。気をつけて帰るんだよ」
ふたりはそこで別れた。老人は孫との会話で、美智子に言うべきことは言っておこうと覚悟を固めた。孫娘は祖父が流香の何かにかかわっていることを思い、その後ろ姿を不安げに見送った。
弱々しい秋の陽が、詩音の前方に重く長い影を落とした。




