流香と慎哉
夕方のマクドナルドは、高校生や子連れの若い母親たちで賑わっていた。慎哉は注文の列に並び、頭上のメニュー表を見上げている。自分用のビッグマックセットとナゲットはすぐに決まったが、流香には何がいいだろうと迷っている。小学生の彼女が何を注文していたか記憶を辿るが思い出せない。高三になった彼女の嗜好を想像するが見当がつかない。ダメだな…… 思っただけなのに声が漏れる。前の女性が怪訝な顔で振り向く。あっ、スイマセンとつい謝る。
列の進みが遅い。前方に目を移すと、流香と同年代の子が馴れない手付きでレジを打っている。なぜかその子から目が離せなくなる。
ふと隣に人の気配を感じる。見ると流香がいてメニューを見上げている。慎哉はホッと胸を撫で下ろした。
「パパはマックが好きだよね」
「えっ? 流香が好きだと思ったから」
「いつまでも小学生じゃありません」
「そっか。じゃあ、店変える?」
「そうだなぁ…… じゃあコーヒーだけ飲むよ。そのあとはまた決めればいいし」
流香の横顔は大人びて見える。慎哉は、もうとっくに親離れの時期を過ぎた娘に、今頃ようやく気づいた自分を情けなく感じた。
コーヒー片手に席を探したが適当なスペースがない。ふたりはそのままフードコートまで歩き、窓際に人気のない場所を見つけ腰を下ろした。
「この前ケンちゃんとここでアイス食べたよ」
「そうだってね」
「聞いた?」
「うん。お姉ちゃんは意外に怖い、だってさ」
「パパが甘やかすから」
「そうかなぁ。でも、流香は真っ当に成長しただろ?」
「それってパパのおかげ?」
「じゃないな」
慎哉はなぜかしみじみ嬉しかった。娘がまともなら、それが自分の教育の成果だろうが美智子の注いだ愛情の賜物だろうがどちらでも良かった。そんな感慨に浸っている慎哉に、流香がポツリポツリ話し始めた。
「ねえ、パパ?」
「ん?」
「ホントにひとり暮らししていい?」
「う〜ん、結論から訊かれてもなぁ」
「だって、大学生になったらどっちにしても家を出るよ」
「そうなの? ママとはもう話をしたの?」
「しない。でもいいの。ママは反対しないはず」
美智子が反対しない?…… それはあり得ないと思う。急に家を出たいと言い出した娘と妻との間に何があるのだろう? 親子喧嘩の原因は何だ? 考えてみるが思いつかない。それどころか、ふたりを放り出した自分に、ふたりの関係に割って入る権利はないよなぁ、などと思ったりもする。そんな逡巡があって曖昧に返事を引き延ばしていると、流香が少しずつ核心を話し始めた。
「ママはさぁ、もっと好きに生きればいいと思うんだよ」
こう切り出されては慎哉も言葉がない。美智子に強いた犠牲を意識しないではないのだ。
「だから、もう離れてあげたい。私のために我慢して欲しくない」
「そんなこと言われたの?」
「言うわけないでしょ! あの人が」
そうだろう。彼女は息苦しいほど真っ当な人だ。
「そういうのがイヤ。自分もああなりそうでイヤ!」
何がそう言わせるのだろう? ただの親子喧嘩でないことだけがわかる。
「ねえ、流香。何かあった?」
「話したくない」
小学生の頃から頑ななところはあった。この子もじっと我慢してしまうのだ。泣いて騒ぐより、じっと涙を堪える子だ。七年前の別れ際、自分とは一緒に行かないと言ったその時も、この子は涙を零しながらも、泣き声は漏らさなかった。あの時とよく似ている。
「私ね、ママには何も言えなくなったの。直ぐにママの気持ちを考えて、こういうこと言われたらイヤだろうなとか考えて、ママに合わせちゃうの。それがイヤ」
慎哉は、窮屈そうに羽を縮める檻の中の鳥を見るようで辛かった。伸び伸びとさせてやれていない自分を恨めしく思った。だが、いまさら何ひとつ彼女のためにできることがない。
「ねえ、パパ。ひとり暮らししていいよね?」
縋るような視線は、彼女がもう何日も、何ヶ月も思いつめてきたことを物語っていた。
「パパとママが話し合っていいかな?」
「ダメ! ママには言わないで!」
「そっか…… じゃあママに恨まれるな、パパは」
「恨まれていいでしょ? パパもそっちがいいでしょ?」
恨まれて決着させる…… 十八にもならない子が、なぜそんな結論の出し方をするのだろう? ひょっとすると、彼女は彼女自身のためではなく、家族三人の中途半端な関係に、自らの手で終止符を打とうしているのだろうか?
「流香はパパを恨んでる?」
この質問は避けてきた。この子から連絡があるたびに、恨まれていないとホッとした。だが、心の何処かで、彼女が本当は自分に対して強い憎しみを持ち続けているのではないかと、ずっと引っかかっていたのだ。
「恨んでなんかないよ。パパだもん。ダメなパパだけど、私はパパから酷い仕打ちはされてないもん」
「ママには酷い、って意味?」
「当たり前じゃん。極悪非道だよ。クズだよ」
そう言って流香が笑ったから、慎哉は救われた。
「でもなぁ。流香の一人暮らしをパパが許した、なんてこと、ママは許さないだろうなぁ」
「そこなんだよね。どうなると思う?」
「流香に裏切られた気分になるだろうな」
「そうなの?」
「流香はそこは勘違いしてると思う。ママが流香を重荷だとか、流香がいるから自由にできないとか、そういう感覚はないと思うけどなあ」
「毎日、はんで押したような生活してるのに?」
「そう思うけどなあ」
「私ね、ママのそういうところは似てない気がする。飽きっぽいのはパパに似てるかも」
「良くないところから似るんだな」
「小顔はママに似てよかった」
確かに、我が娘ながらショートボブがこれだけ似合う子もいないと親バカにデレつく慎哉。緊張が緩んだか、お腹がぐぅと鳴った。
「お腹空かない?」
「うん、ちょっと」
「何か食べてく?」
「そうだなぁ……でもママに悪い」
こういうことかと慎哉は思った。流香は行動のひとつひとつを見えない美智子に縛られているのだ。自分が別居中の父親と会うことも、母親にどんな気持ちを抱かせるか、それを知っていて、どこかで手放しの感情を晒せないのだろう。それがイヤだと本能が訴えているに違いない。
「じゃあ、何かお惣菜でも買って帰る?」
「ママはお惣菜嫌いなんだよ、忘れた?」
「そっか…… マック嫌いやら惣菜嫌いやら、メンドクセー!」
慎哉が心底面倒くさそうにしたので、流香は呆れたように笑い出す。
「じゃあさ、マックでナゲットだけ食べない。あれ好きなんだよね」
「変わんないな、そこは」
「パパも好きじゃん」
「15個入りで足りるかな」
「さあね」
ふたりで笑いながら席を立った。
何も結論は出ていない。だが、人生のうちで、常に結論を出し続ける生き方も窮屈ではないか。似たもの父娘のふたりは、そんなところは同じ感覚でいるようだった。




