現実世界の美智子と貴文 その2
帰りの新幹線の中で、諸岡はふと花屋のことを思い出し、また美智子に話し出した。りんどうを買い求めた時の違和感を拭えなかったのだ。
「百貨店裏の花屋だけどさぁ、あそこの少女と婆さんってやっぱり妙じゃないか? 昨日もみっちゃんとメールしながら夜中にあの近くを通ったんだけど、小学生がまだ店番してたぞ」
何気なく話題に出しただけだったが、美智子はびっくりするような声で反応した。
「えっ! そんな時間まで? あ~、昨日、帰りに寄った時にちゃんと言えばよかった。あそこのお婆さんがあまりに素敵だから忘れちゃったんだよね。確かに急に入れ替わったりするのはやり過ぎだしね」
窓側の席から通路側に乗り出すようにして話し始める美智子は、まるで修学旅行の女子高生のように快活だった。たった数時間の息抜きが彼女にいつもの活力を呼び戻したようだ。
「みっちゃんもそう思った? あれは驚くよな」
「ホントよね。だってさ、どの花にしようかなぁ~って盥を眺めているうちに音もなく入れ替わるんだから、びっくりするって。ありゃ心臓の悪いお年寄りなら、きっとコロリと逝っちゃうよ」
昨日、受験生のひとり娘が冷たいと愚痴っていた四十代の母親とは思えないほど、底抜けに明るく弾けた笑顔で彼女は身振り手振りを交えて話し続けた。
「あそこをご贔屓にしている老教官はお気づきになっていないのかな?」
「ううん、きっとね、馴染みのお客さんにはそういうイタズラはしないんだと思うよ。だって、先生はいつも店の婆さんが花束をアレンジしてくれた、って言ってるもの」
「そうなんだ。確かに花束にするのは婆さんなんだけど、店を振り返ると女の子がちょこんと店番してて、それが妙に婆さんと背格好が同じだからびっくりするんだよ」
「そうだよね! 私はね、昨日、そう昨日! あの子がまた夜遅くまで店番してるから、さすがにマズいんじゃないかと思って店に入ったの。何も買わないのも変だと思ったから、ケイトウ買って、他のと組み合わせて、これどう?って差し出したら、受け取ったのがお婆さんで、もうひっくり返るほどびっくりしたから」
臨場感たっぷりに話す美智子。諸岡は堪らず彼女の頬に軽く口づけた。
「…… アリガト……」
今の今まではしゃいでた美智子が途端におとなしくはにかんだ。
「ご、ごめん……」
諸岡は諸岡で、大胆なことをした割に、狭い座席の中で固まったように動かない。
「ねえ……」
「ん?」
「昨日、零時過ぎまでどこで何してたの?」
「…… ん」
「危うく聞き逃しそうになったわ……」
「なんとなく帰れなかったんだよ。後ろ髪引かれる、っての? そんな感じで」
「ふ~ん」
そう言いながら美智子は諸岡の肩に寄り掛かり、流れる車窓に見慣れた田園風景を認めてふっと目元を綻ばせた。
「このあたりに住んでたこともあるんだよ」
「へぇ~、ずいぶん田舎だね」
「そう。田舎。短い間だったけど」
「そうなんだ。いつ頃?」
諸岡はその話の続きを聞きたくはなかった。それは諸岡の知らない、諸岡の登場しない彼女の思い出の地の話だろうから、嫉妬することなく穏やかに聞いてやれる自信がなかったのだ。
「それはね…… ヒミツ」
諸岡を振り返った美智子は、まるで女子学生のように純真な笑顔を見せた。その陰りない笑顔は、この地での思い出はすでに遠く過ぎ去った過去であり、ただ懐かしいだけだと物語っていたから、諸岡はそれ以上の言葉をすべて飲み込んでそっと美智子の肩を抱いた。
それからほどなくして新幹線は桔梗のある街のターミナル駅に着き、花屋の話も忘れ去られた。ふたりは交わした指の先を分かちがたく、何度も別れの言葉を重ねた。
「また」
「うん…… また。ありがとう」
「…… うん。気をつけて」
「着いたらLINEする」
「うん。それじゃあね」
「フミちゃん…… 」
「ん?」
「呼んだだけ」
「……いいから。もう行って」
「うん。じゃあ……」
新幹線を下りた美智子は振り返らずにホームを去っていく。それはふたりの暗黙の了解事項だが、ひとりで新幹線に残された諸岡は、その後ろ姿が消えるまで目が離せない。いつもの日常を取り戻すには少し時間がかかるのだった。
東京駅に下り立った諸岡はそのまま自宅マンションに帰る気にならず、新幹線改札口を抜けると、在来線で美智子のいる街に引き返すことにした。
平日の夕方四時過ぎ、帰宅ラッシュ前のこの時間は乗客もまばらで、横並びの席に座わった諸岡は、反対側の車窓に流れる景色をぼんやり眺めることができた。見慣れた景色がしばらく続き、ビル群が途切れると県境の鉄橋に差し掛かる。それを越えると徐々にあの街に近づいたと実感する。考えてみると仕事でこの鉄橋を越えることは滅多になく、もし早乙女教官に誘われることがなかったら、いや、美智子がいなかったら、ここを渡る電車に乗ることが果たしてあっただろうかと思うような場所だ。だが、今は週に一度はこの橋を越えあの街を目指す。そして、美智子が待つ桔梗へ向かい、最近では美智子と別れてもあの街のどこかで彼女の気配と別れ難く、繁華街をうろついている。四十を超えた自分がこの落ち着きのない行動をすることに、もし誰かがその一部始終を見ていたらさぞかしおかしいだろうと思うし、誰かほかの人間が同じようなことをしていたら、きっと自分は笑って窘めると思うのに、自分にだけはこういう行動も許されている気になる。考えてみると恋などしたことのなかった半生でようやく恋する相手が現れたことに、諸岡は恥ずかしいような、照れ臭いような、しかしどこかで開き直るような気分もあって、外を眺めているのに景色はちっとも目に入ってこない状態が続いた。
ターミナル駅に降りたが、桔梗に向かうにはまだ早い。駅ビルの三階から中央通路を行き交う人を眺められるカフェがあり、そこから流れる人々の様子を観察することにして時間をやり過ごそうと、諸岡は軽快な足取りで駅ビルの階段を上った。




