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現実世界の美智子と貴文

 東京駅から六十分、上越と信越に別れる駅の新幹線改札口を出たところでふたりは言葉もなく腕を組んだ。いつもはアップにしている髪の毛を下ろして現れた美智子はひと回り小さく見える。両の腕の中にすっぽり収まりそうな彼女を見下ろして諸岡は頬を緩めている。なに? というように小首を傾げる美智子は年齢よりずっと若く見えて愛らしい。なんでもないと応える諸岡に、へんなのといって美智子が肩を寄せ、そのまま連れ立って歩き始めた。


 数時間後の上り電車では街に戻る。だから駅から足を伸ばすことはない。駅ビル内の飲食店を何箇所か移動するだけだ。大の大人がこんなデートじゃ人に言えないね、などと彼女は笑うが、諸岡は意外にも気にしていない。むしろ、このままでいい気もしている。彼女は永遠に少しだけ高嶺の花。指先はきっと届いているが、あえて触れない存在でいいと思っている。


「ゴメンねフミちゃん。昨日のLINE、呆れちゃったでしょ?」

 無防備な顔で美智子が諸岡を見上げる。

「全然。それより眠くない? 三時過ぎてたよ、昨日…… いや、今朝」

 諸岡はアクビ混じりに笑う。

「眠い? どこか部屋に入る?」

 その言い方が、まるで男女の秘密めいた響きを伴わないから諸岡もホッとする。

「いや、新幹線の中で寝てきたからいいよ」

「そう。ゴメンね」

「いつも言うけどさ、そう謝ってばかりだとつけあがるよ、ボクは」

「フミちゃんならいいよ」

 桔梗での美智子と明らかに違うふたりきりの時の美智子に、本当は戸惑っている。無防備な美智子は好きなのだが、ますます手出ししにくくなるのだ。絶対的な信頼は絶対に裏切られない、そんな覚悟を諸岡は胸に抱く。

「いつものところでいい?」

「うん」

 ふたりは駅ビル内にある馴染みの店の暖簾をくぐった。



 店は大きな飛行機事故の際に救助員たちの仕出しを担ったことで有名になった店だった。この地の名店だが、恋仲のふたりが腰を据えて話し込むには落ち着かない。そんな店をふたりはわざわざ選んだ。ここなら知り合いに出会ったとしても、偶然出会ってランチを共にしたと言い訳ができる。


「流香ちゃんは今朝どうだったの?」

 LINEで散々やりとりした話題をあえて続ける。愚痴に結論はない。美智子がもういいと言うまで聞いてやる。諸岡はそういう愛し方をする。

「うん。それがね、もう朝から無言なわけ。テーブルに朝食もお弁当も用意してあるのに、完全無視。いやんなっちゃう……」

「お弁当も?」

「そう! お弁当も! 無駄を返せ!って言いたくなる」

 彼女は出された鶏肉料理を頬張り、笑いながら愚痴っている。

「で、どうしたの? そのお弁当」

「食べたよ。勿体無いし」

 可愛く笑う。ホントにあどけない。諸岡の頬は緩んだままだ。

「で、もうこれ食べてるわけだ?」

「だって、女子高生のお弁当なんて、小学生のよりちっちゃいよ。部活してる頃は違ったけど」

「ボクは男子校だから、女子高生の華奢な弁当なんか見たことない」

「そっか。みんなドカベンなの?」

「アハハ、その言葉を知ってんだ。みっちゃんホントはいくつ?」

「えっ…… まる子ちゃん世代です! フミちゃんより下です!」

「そっか。みっちゃんもあれ観てたんだ」

「うん。観てた」

「ももこさん、死んじゃったね」

「うん。早すぎだよね」

 ふたりは人気漫画家の死をそれぞれに悼み、急に口数が減った。ふたりにとって九十年代は未来輝くど真ん中の頃で、バブル後の重苦しさはまだ実感しなくてよかった年頃だ。美智子は自分の来し方を振り返り、娘の流香が今まさに夢見るべき年頃なのだという事に気づいたようだった。


「フミちゃんは大学受験の経験あり?」

「あるよ。結構マジな受験生」

「そうなんだ。あの()が荒れてるのは受験のプレッシャーなのかな、ってふと思ったから」

「そっか…… もう大昔過ぎて受験のプレッシャーは忘れたなぁ。でも、家族がやたら気を遣うのがイヤだったかも」

「そんなことあったの?」

「うん。ボクが部屋に入ると、テレビ消してたかな」

「うわっ、王様受験生だ」

「普通だと思ってた」

「普通じゃないでしょ。でも、我が家は私が帰るまであの子はひとりだし。私が帰ってもテレビは見ないからなぁ」

「テレビ見ないでもっぱらLINE?」

「LINEはフミちゃんとだけだよ」

「アハハ、別に誰としてもいいよ」

「ホントだよ。他にはいないよ、そんな相手」

「いてもいいんだけどね」

「重荷だから?」

「みっちゃん…… 弱気なみっちゃんは結構メンドクセー!」

 そう言って諸岡は笑った。多少無理して笑ったような硬さがあったが、美智子にはそれが彼の誠意として伝わった。

「フミちゃん…… 私とこんな付き合いでもいいの?」

「こんな、って?」

「こんな…… 鳥のお重を食べるだけの……」

「バカ、店員さんが見てるぞ!」

 後ろを振り向くと確かに若い店員さんがいて、美智子にニコっと笑みを向けた。

「マズかった?」

「バカ! マズいもなにもオオマズだろ!」

 そう言ってふたりで笑った。


 美智子の目元から緊張したこわばりが消えていった。諸岡は自分に対して飾らない笑みを見せる美智子が愛しい。美智子はいつも変わらない諸岡に安心していられる。

「フミちゃんはモテるでしょ?」

「モテませんね。モテ期はまだ未経験です」

「ホントに?」

「うん。男子校で、陰気な大学生で、傾きかけた出版社の編集者でモテる要素なんてどこにもないから」

()()()()のオダギリジョーはカッコよかったのに?」

「……オダギリジョー、同じ年ですが、それが何か……」

「ゲッ…… そ、それは…… お気の毒」

 そう言いながら、顔を伏せた美智子の肩はずっと震えている。


 どうやら、彼女の気持ちも切り替わったようだ。諸岡はホッとして二本目のビールを注文した。


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