二次元世界の美智子と貴文
『フミちゃん、起きてる?』
深夜零時を回った時間のLINEは美智子からに決まっていた。諸岡には日常的にLINEをやり取りする相手は彼女の他にはいない。
『起きてるよ』
バーのカウンターにいることは伏せて短く返信した。
『今いい?』
桔梗で見かける美智子と、液晶の中の彼女は明らかに受ける印象が異なる。自分がりんどうを贈った女性はこっちだな、諸岡はそんなふうに思いながら、目元を緩ませて返事を書き込む。
『もちろん。今日はなかなか話すチャンスがなくて残念だったよ』
『うん、ゴメンね』
『何を謝ってんだか(笑)』
『だって、フミちゃんが変なこと言うんだもん』
『送別会、って言葉から連想しただけだよ。深い意味はないから』
『ごめんね』
店の中ではしっかり者の女将然とした美智子だが、実際の彼女は臆病なところがあることを諸岡はもう十分理解している。彼女の内面を知れば知るほど、彼女はひとりの女性というより弱々しい幼馴染みのような存在になる。諸岡はその儚さを愛するものの、異性に対する男の猛々しさを見失う瞬間があった。無意識のうちに、いい人間を演じようとしてしまうのだ。今も、美智子が何を思い浮かべたか想像はできたが、その壁を無理やり乗り越えて前に進む勇気が諸岡にはまだない。何度もごめんねを繰り返す美智子に、どう返信したものか、諸岡は液晶をじっと見つめて考えあぐねた。
とその時、背後に人の気配を感じて振り返る。するとそこには、この店で何度か見かけたことのある女性客が肩越しに液晶を覗いていて、諸岡は一瞬ぎょっとして仰け反ってしまった。
「何か?」
頗る気分が悪い。諸岡の顔はあからさまに不機嫌に歪んだが、女は気にする様子もない。不躾とも傲岸不遜とも思えるが、スッと相手の胸のうちに入り込む無防備な感じがして、諸岡はポケットにスマホを仕舞い彼女と向き合った。
「LINEする相手があるなら、ここよか部屋に帰ってすればいいのに、って思ったの」
彼女は乾いた笑顔で隣に座り、ラフロイグをロックで注文した。
「時々見かけますよね?」
「それは違いますね。私はあなたを時々見かける。あなたは必ず私を見かけてる、でしょ?」
なるほど、そうなのかも知れない。月に一度か二度訪れるだけのこの店では、諸岡は一見の客に過ぎない。
そう思ってグラスを手にしたところで再びスマホが震えた。諸岡は一瞬躊躇したが、女から顔を背けてスマホを取り出し、美智子からの送信内容を素早く確認した。
『ごめんなさい。気にした?』
返信が遅れたことで、カンのいい彼女はこちら側の様子にいつもと違う気配を感じ取っているようだ。これ以上返信が遅れると、どんな言葉を送り返しても美智子は妙に気を回してしまうから、諸岡は手早く、気にしてないよ、と送信した。するとまたすぐに折り返しがある。
『良かった…… 嫌われたかと心配してた』
返信の間合いだけで何かを感じ取ってしまう。こういう時の美智子は何かで弱気になっているはずで、諸岡は少し彼女のことが気になった。
『どうかした? 話、聞こうか? 電話でもいいよ』
『ううん、LINEのままでいい』
『わかった。じゃあ、言える範囲で教えてくれる?』
『うん…… 長いけどいい?』
『長いのを読むのは本職ですよ(笑)』
『(笑)そうだった』
『では、心置きなくどうぞ(笑)』
(笑)のマークそのままに諸岡の顔が綻んでいる。知らず知らずLINEに気を取られていた彼は、隣の女の強い視線に気づくのが遅れた。
「あなたのような人に思われる人ってどんな人なんだろ?」
「えっ? そんなに変かな。LINEくらいするでしょ?」
「ううん。会話するようにLINEする中年は稀」
「中年…… はっきり言うね、初対面で」
「だから、初対面じゃないよ。何度も見かけてるし」
「それは失礼、挨拶もせずに」
「ハハハ、挨拶はいいよ、フミちゃん」
見てたな、こいつ…… 諸岡は脇から汗が流れ落ちるのを感じた。
「キミ、そりゃルール違反だわ。のぞき見するのはマナー違反」
できるだけ声を抑えて、しかし不愉快なことがしっかり伝わる程度の言い方をしたつもりだったが、女性はまるで意に介す様子がない。しかし、帰ってきた言葉はまるで裏腹な印象を残した。
「ゴメン。もうしない」
あっさりと、しかもスッキリ謝られたことに意外な爽快感があった。諸岡は思わず女性の顔をまじまじと見つめてしまう。ロックグラスを傾けるその横顔はツンと突き出た鼻筋に対し、やや垂れ気味の目尻がアンバランスで、もし、目元に泣きぼくろでもあればさぞ可愛いだろうにと思わせた。
「ボクの名前を見た以上、キミも名乗るべきだと思うけど?」
自分よりずっと年下の女性にナメられたままなのも癪に障る。諸岡は出来る限り冷静に彼女にそう言ってみた。
「一花。よろしくね」
「いちか?…… どんな字を書くんだろ? 数字のいちに、なつ? かおり? はな? それとも…… 市場のいちじゃないよね?」
「文字にする必要ある? あっ、それとも私ともLINEする?」
完全におちょくったように笑うが、彼女の垂れ目はかなりかわいい。悪女と言うより、せいぜい悪戯っ子のようにしか見えないのだ。諸岡は余計な抵抗を止めることにした。
「おじさんを揶揄うもんじゃないよ」
諸岡という男は自分をよく知っている。自分のどちらかと言えば陰鬱な表情は、まだ二十代の女性からちやほやされる外見でないことくらい、通勤電車の車窓に映る姿で毎日確認済みだ。
「自分で自分をおじさんという人は善人だけど嫌いだな」
ラフロイグをぐいっと飲み干した一花は正面を向いたままで呟いた。
「私ね、善良なおじさんはもういいの」
一瞬、強い目線で諸岡を睨んだ一花は、それっきり無言になった。諸岡も、そういわれたところで対処の仕方がわからない。ふたりの間に妙な空気が流れた。
ところに急にポケットのスマホが震える。美智子から結構な長文のLINEが送られてきた。諸岡は勘定を済ませ、一花と名乗った女性にそれじゃまた、と声をかけて外に出た。
LINEに綴られたメッセージには、長々と愚痴が書かれていた。
『こんなこと、フミちゃんにしか言えないから聞いてね。もし、私の方が変だと思ったら怒ってくれていいからね。でも最後まで読んでください。だって、ホントに誰にも言えないんだもん。
流香のこと。もうどう接していいかわかんないよ。取り付く島がないんだから。
さっきね、帰りのバスの中で流香が自転車に乗って出歩いてるところを見かけちゃったの。あの子受験生なのよ。それなのにあんな時間に出歩くなんて普通じゃないわ。いいのよ、別に気晴らしくらいしても。近所にラウンドワンがあって、そこで友達とボウリングでもするのならいいの。昼間よ。昼間に出かけるとかならいいの。でも、夜、私より遅くなるなんてことはイヤだわ。イヤなの、そういうふしだらで見境のない感じが。ちゃんとしてればそれでいいの。父親がいないからって思われたくないの。父親がいないから、だからダメだって言われたくないの。
だけど、話にもならないの。声を掛けようにも反応がないんだもん。言葉がね…… あの子を通り過ぎていくのよ。通り抜けて向う側に行くの。彼女には私の言葉はちっとも届いてないの。それがイヤなの。
ふたりで暮らしてるのよ、私たちは。もう七年もふたりきり。私はちゃんとしてるわ。フミちゃんもきっとこんな私じゃつまんないだろうと思うけど、でもあの子が大学を卒業して、そしたらあんな男とはきっぱり別れて、私も私の人生をやり直すって決めてるから。
なのに、あの子、中学生のころまではホントに聞き分けもよくて、私に隠し事なんかひとつもなかったのに、最近、私を避けるのよ。どうしてだと思う? わかんない? フミちゃんはわかる? わかんないか…… 娘の気持ちなんて、フミちゃんがわかったらおかしいわね』
子供が今日の出来事を息継ぎもしないで母親に話しているような文章に、プロの編集者としては笑うしかなかった。だが、諸岡はこんな美智子が好きなのだ。好きでたまらない。できれば、ギュッと抱き締めてやりたいと思う。
一方で、諸岡と美智子には明確な隔たりがあった。現実世界ではこのLINEでのやり取りのように無邪気に振る舞うわけにはいかない。そのくらいの分別をふたりとも当然のように持ち合わせていた。だからこそ、この二次元の世界で凭れかかってくる彼女はそのまま受け止めてやりたい。
そんなことを考えながら諸岡は駅へ急いだ。途中でさっき寄った花屋の横を通り過ぎる。やはり店番はいつもの少女だ。おいおい今何時だ? 夜中の零時はとっくに回ってるぞ。いいのか? と思いつつ、自分が余計な口出しをする筋合いでもないと思った諸岡は先を急いだ。そしてタクシーに乗り込むと、美智子への返信をし始めた。彼女が眠いと言うまで、いつまでも続けるつもりで。




