美智子と流香
その夜、団体客を見送り、倍の量の洗い物を手伝ってから店を出た美智子は、いつもよりずっと重い足取りでバス停に向かっていた。歩きながら、少し遅れると娘にメッセージを送信し、視線を上げるとちょうどあの花屋の目の前で、奥の丸椅子に座っていた少女と目が合った。見慣れた光景ではあるが、諸岡の妙な話を聞いた後でもあったから、美智子は切り花を買うフリをして店の奥に声をかけてみた。だが応答はない。少し待ったが人の気配すらない。美智子は仕方なく花盥に目を落とし、その中に鮮やかなケイトウを見つけると、その緋色を際立たせる淡色のアジサイアナベルも数本同時に抜き出して、店の灯りにそれらを掲げてみた。
「これ、どうかしら?」
ケイトウに視線を留めたまま、美智子は背後の少女に声をかけた。返事がないのはいつものことだ。でもきっと笑顔でこっちを見ているはず。そう思って振り返ったその瞬間、美智子は声をあげて後退り、花盥のひとつを蹴飛ばしてしまった。そこには見慣れぬ老婆だけがいて、少女は跡形もなく消え去っていたのだ。
「びっ… びっくりしました。ごめんなさい」
謝りながら盥をもとの位置に戻す美智子に、老婆はただ穏やかな笑みを湛え静かに手を差し出した。彼女が握りしめた花をかしてごらんとでも言うように目配せする。美智子がおずおずとそれを渡すと、老婆はアジサイアナベルの数を少し削り、ケイトウを中央にしてバランスのよい花束をあっという間に作り上げた。
美智子は、今度は目の前で繰り広げられた鮮やかな手さばきに目を見開き驚いている。早乙女が持ってきたガーベラも、諸岡が差し出したりんどうも、そのどちらもこの老婆の手により息吹を吹き込まれたことを実感する。いつも何気なく受け取ってきた小さな花束が、こんな神がかった手から生まれたと思うと、美智子は店を覗いたそもそもの目的を忘れ、老婆の指先を畏怖に近い目で見詰めていた。
「おばあさんの花束が、いくつか私の手元にも届いているんです。いつもありがとうございます」
美智子は思わず感謝の言葉を口にしたが、老婆は柔らかな笑みだけでそれに応えた。その穏やかな笑顔は美智子の言葉が確実に相手に届いていることを言葉以上に物語る。いつだったか、この店で花束を誂えるとその夜はいいことがあると早乙女が話していたことを思い出す。それは、老婆の繰り出す手品のような所作と、言葉もなく交わされるこのやり取りに、会話以上の温かみを感じるからかもしれないと美智子は思った。
「ありがとうございました」
美智子は財布から千円札を三枚抜き取って、テーブルのかごにそっと置いた。花束を受け取る時に触れた老婆の指先は冷たかったが、その冷たさが温かみとして伝わる不思議さも感じた。
駅に向かう途中、店を一度振り返ったが、そこにはもう老婆の姿はなく、いつもの幼子が足をブラブラさせて座っていた。だがそれは狭い店だから仕方のないことと納得し、美智子は笑顔で手を振った。
桔梗を出た時に感じていた疲れを、気づくと忘れていた。駅前でバスを待つ間も、日頃は気づかない光景にふと目が留まる。階段を下りてくる人々は、ただ無口に目的地を目指す人たちばかりではないようだ。肩を寄せ合って歩く若い二人連れもあれば、笑い合う学生たちもある。似たようなスーツ姿の男たちも、ある者は天を仰ぎ、ある者は項垂れ、またある者は真っ直ぐ前を見据えて歩いている。カジュアルな老夫婦が支え合いながら階段を下りる姿もあるし、ラクロスのクロスを抱えて走り出す女子学生もある。それぞれがそれぞれの場所に向かっている。誰もが生身で具体的な営みを持った人であることを思わせる。そんな人たちと、同じ時間、同じ場所を共有することの不思議を美智子は感じた。
日曜日で桔梗が休みとなる夜以外、美智子は規則正しくこの時間のバスを使っている。流香が中学生になってからの五年半、ずっと来る日も来る日も同じバスに乗っている。よく見かける顔もある。だが、その人たちに対してすら、今夜のように特別な感情や親近感を抱いたことはない。昨夜までは、人ではあるが具体的な誰かではない人たちばかりだったはずなのに、今日は真逆の感慨を持って周囲を眺めている。その内なる変化に、美智子は自分自身が可笑しくなった。そして何故か笑いが止まらなくなり慌ててハンカチで口元を抑えるのだが、それでもしばらくは湧き上がる笑いを抑えるのに困った。
ふと、別居中の夫を思い出す。自分と流香を躊躇なく捨てた男。もう会う気もないし言葉を交わす気にすらならない男。なのに、ふと思い出すのがあの男、というのが重ねて可笑しい。だが、諸岡でいい筈なのにと思った瞬間に笑いたい気持ちが跡形もなく消え去った。
『七年間か……』
美智子はふたたび疲れを感じた。手にした花束が一瞬もたらせた幸福な時間が、あっという間に消え失せると体の重みだけが残った。
そんなところにバスが来る。最後列ひとつ前の歩道側の席に腰を下ろす。隣には若い女性が座った。見慣れた景色、見かけたことのある顔、それらが意味もなく周囲にあった。
バスが大型マンション群を過ぎた辺りで、自転車を漕ぐ後ろ姿にハッとさせられる。色のない周囲の中で、その自転車とそれに跨る少女だけが意味を持って浮かび上がった。
『流香!』
こんな時間に何をしているのだろう? ここら辺りは街路灯こそ明るいが人通りは少ない。美智子は躊躇い無く降車ブザーを押してバスを降りた。
「流香!」
すぐにやってきた自転車を呼び止める。
「やっぱり…… そうじゃないかと思った。乗ってりゃいいのにさ」
「何してるの、こんな時間に」
「家に帰ってるところだよ。用がないなら先に帰るよ」
あろうことか娘は母親を置き去りにして自転車を漕ぎ出そうとする。
「まっ、待ちなさいよ! 置いてく気っ!」
「勝手に降りたのはママじゃん! 知らないよいちいち……」
「だから待って!」
叱ると言うより懇願半ばの言葉に、娘も仕方なく自転車を下りて押し始める。
「何なのよ…… ったく。小学生じゃないっての」
「小学生じゃないから心配するんでしょ!」
「バカみたい……」
これまで手のかかったことのない娘に、美智子は最近、時々見知らぬ姿を垣間見る。
あの花屋で花を買い求めるといいことがある、なんて嘘ね…… 美智子は右手のケイトウとアジサイアナベルを恨めしげに見つめた。
しばらく二人で並んで歩いた。チェーンがカラカラと空回りする音だけが響く。美智子がこのまま黙っていれば、自宅まで無言で帰り着きそうだったが、彼女はその無言に耐えかねたように話しかけた。
「そうだ、モモちゃんとアンズちゃんに会ったよ」
「…… 」
「塾で会わないけど元気? って言ってた」
「塾、なんて言ってる時点でアウトだから」
流香が小さく毒づいた。
「詩音ちゃんもいた。美人になったね、あの子」
「…… 」
無言のまま流香が自転車に跨った。なんの躊躇いもなく右足を踏み出そうとしている。
「流香!」
「もういちいちうるさい!」
美智子は呆然とその後ろ姿を見送った。もう十八歳になるのだ、親離れして当然だ、そう思い込もうとした。自分は自分の人生を送ればいいだけのこと。あの子だってもう子供じゃないんだし…… そう自分に言い聞かせた。
右手のケイトウが目に入る。その柔らかな紅色を握りつぶしたくなる強い衝動を、美智子はようやくのことで抑え、人通りのない歩道を歩き続けた。




