人待ち橋
永代橋袂の茶店の親父が橋袂から身投げした女を助けたことから物語は始まる。
人待ち橋
沖田 秀仁
竿先で『休み処』の幟が千切れるほどはためいている。
鉛色の空で唸りを上げ、川面を渡る風は身を切るようだ。
大晦日も近いというのに、永大橋を行き交う人も潮が退くように疎らになった。日暮れまで半刻はあるはずだが、橋詰めの茶店で足を休める客は誰もいなくなった。見廻りの途次に立ち寄る八丁堀同心貝原佐内も急ぎの用事でもあるのか、今日は店先から声だけ掛けて手先二人とともに木枯らしに吹かれるようにして橋を渡っていった。長兵衛は貝原主従の姿が見えなくなると空を見上げて眉間に皺を寄せた。厚い雲に掻き消えた日差しがそのまま夜の闇に変わる前に、早々と店仕舞して帰る方が良いかも知れない。
長兵衛は店先のお菊へ視線を遣った。
「お菊、少し早いが店仕舞いとするか」
そう言って、長兵衛は土手の坂道を下って行く佐平の後姿に目を遣った。
判で押したように木場人足の佐平は仕事の退ける五つ過ぎに姿を見せて、牛の涎のようにいつも長っ尻を決め込む。やっとのこと佐平が腰を上げたのを汐に、長兵衛は貝原佐内を見送った店先から声をかけた。師走の夕暮れ時に氷のような川風に吹かれて茶店で一休みする酔狂な客は佐平以外にはいないだろう。
「あいよ。そういえば、雲行きが怪しいね。どうやら雪になりそうな塩梅だから、早仕舞いした方が良いかもしれないね」
と、お菊は縁台を拭いていた手を止めて、夕暮れ時のような空を見上げた。
突風のような木枯らしが板囲いの床店を吹き飛ばすように襲い掛かり、お菊の解れ毛が風に震えた。お菊は前掛けの上から着物の裾を左手で抑えて雑巾を手桶に戻した。いくら拭いても凍てつくような川風が砂埃を巻き上げて、縁台ばかりか明かり障子を巡らした四畳半の座敷さえも砂でざらついた。
「どうだ、佐平はお前の手を握ったりするのか」
長兵衛はお菊が拭きおえた縁台を店の中へ運ぼうと両手で掴んだまま、屈んだ声でお菊をからかった。
「何言ってンだい。父親が親分だったと知ったら誰も怖くて手出しなんかしやしないよ」
怒ったような口吻でそう言ったが、お菊の物言いはどこか愛嬌がある。
そうはいっても年が明ければお菊も二十と四になる。世間では行かず後家と陰口を叩かれる齢だ。冗談半分にからかうどころではなく、本気で婿を心配しなければならない。が、お菊にその気があるのかどうか一抹の不安があった。本人にその気がなければ強引に誰かと所帯を持たせることなぞ出来ない相談だ。
誰にも一つや二つ、人に言えないことがある。お菊の心の奥に秘めたわけがあることは初から分かっていた。だてに人間を五十年からやっているわけではない。だが、そのことをお菊と顔を突き合わせて訊き出せないもどかしさがあった。
二人は父娘のように暮らしているが、お菊は長兵衛の実の娘ではなかった。拝み倒すようにして一緒になった恋女房のお重と長年連れ添ったが、子宝には恵まれなかった。
お菊と巡り会ったのは今年の弘化から嘉永へと年号が変わった春のことだった。天保年間は天災と人災が重なった何とも暗い時代だった。ことに天保の四年と七年と九年の三度に及ぶ大飢饉は惨状というしかなかった。関八州から東北にかけて飢餓地獄の故郷を捨てた流人たちが大量に江戸の町へ流れ込み、岡っ引だった長兵衛も無宿人狩りに何度も引っ張り出された。幕府も流人たちの窮状を見かねて天保七年十月に御救い小屋を神田佐久間町河岸に建て、翌十一月には江戸四宿(品川、板橋、千住、新宿)にも建てた。
天災は飢饉だったが、人災は時の老中だ。天保十二年五月十五日に老中に就いた水野忠邦が奢侈禁止令などを発したのが始まりで、天保の御代を寛政改革の質素倹約をお手本とするご政道を始めたから堪ったものではない。天保十四年閏九月十四日に水野忠邦が老中職を罷免されて失脚するまでの間の嵐が通り過ぎるのを亀のように全身を縮めて過ごした。その三年にも満たない傍迷惑な御改革を、虎の威を借りて江戸庶民に無理強いしたのが南町奉行に就任した鳥居燿蔵だった。彼は「甲斐守」を名乗っていたため、名の燿蔵と甲斐守を併せて「妖怪」と江戸庶民は侮蔑をこめて陰で呼んでいた。
鳥居燿蔵の取り締まりは陰湿を極めた。奢侈禁止令に反するとして老舗料理茶屋が停止に追い込まれ、芸者稼業も禁止となり厳しく取り締まられた。庶民の暮らしも歌舞音曲を伴う派手な婚礼のみならず、葬儀までも豪華になってはならないと取り締まりの対象とされた。果ては着物も高直な緞子などの絹織物も『奢侈禁止令』に反するとして、商家の妙齢の娘でさえ往来で絹糸の着物を引ン剝かれたりした。当然のことながら御城下の盛り場はどこも火が消えたようになり、商家は軒並み何処も不況をかこった。長兵衛の暮らす深川門前仲町もすっかり様変わりしてしまった。
そうした陰鬱にして息が詰まりそうな御政道の本家、老中水野忠邦の失脚とともに天保年間が終わり、弘化になって鳥居燿蔵も南町奉行を更迭された。その弘化は実質三年余りで終わり、弘化五年二月二十八日に年号が嘉永へと改まった。
そうした過酷な時代が終わった弘化四年の晩秋、長兵衛は三十年近く夫婦として過ごした二つ年下の女房のお重を急な流行病で亡くした。やっと野暮で腹立たしい御政道が終わって、これから夫婦でのんびりしようかと話していた矢先のことだった。
お重に先立たれてすべてに張り合いをなくし、野辺送りを済ませてから一月近くも戸を閉てた家の中で呆然と腑抜けていた。もはや岡っ引として数名もの下っ引たちを顎で使う気力は残っていなかった。
泣き暮らして一月経ってやっとのこと引き戸を開けて表へ出ると、長兵衛は昼下がりの眩しい秋晴れの空を見上げて目を細めた。家の中で泣き暮らしているうちに、すっかり足腰が弱ってしまったようだ。それでなくても膝の痛みにはここ数年来悩まされてきた。今では店先の饅頭を盗んだ悪餓鬼を追いかけることすら出来ないだろう。
女房に先立たれた孤老の岡っ引は惨めったらしくていけない。人から怖れられてこそ岡っ引のお役目も勤まるが、同情を買うようになったら年貢の納め時だ。長兵衛は初冬の空を見上げて十手捕縄を返上しようと心に決めた。そして覚束ない足取りでよろよろと八丁堀へと向かった。
芝居ならここでチョンと柝が入って幕が閉まるが、生身の人生は芝居のようにキリが良くない。お迎えが来るまで人は生きなければならない。しかも生きてゆくにはお足が必要だ。年寄りだからと天から小判が降ってくるわけではない。
十手を返上したからには何かをして働かなければならない。懐の金子もお重の葬儀などですっかり使い果たしてしまったし、もとより碌な蓄えもない。暮らし向きは切羽詰まっているはずだが、長兵衛はお足を稼ぐ当てのないまま十手を返上した後も仕舞屋に籠ったきり無為に日々を過ごした。まるで生きる屍のようで情けないが、さりとて身過ぎ世過ぎに何をやれば良いのか見当もつかなかった。
四十九日の法事を済ませた頃から、やっと次第に人心地が戻ってきた。すると、なぜだか仕舞屋が無駄に広く感じられて余計に寂しさがつのった。絶えず心の中に隙間風が吹き込むようで、どうにも気が滅入って仕方なかった。壁や板の間や細々とした道具に沁み付いているお重の思い出が何かのきっかけで甦って辛かった。泣き暮らしていてはお重に申し訳ないと思うようになった。いっそのこと四畳半一間の棟割長屋へでも移ろうと所帯道具を始末することにした。
一人暮らしで不要となった所帯道具を纏めて道具屋に売り払い、最後まで取っていたお重の婚礼箪笥を開けてお重の着物を整理していると、畳紙の底にかなりの小判や小銭が整然と残されているのを見つけた。思わず長兵衛の目から涙が落ちた。
お重は老後の暮らしに備えてこつこつと蓄えていたのだ。長兵衛も最盛期には十人からの下っ引を使う門前仲町きっての腕っこきの岡っ引だったため、袖の下などの実入りに不自由しなかった。長兵衛が派手な暮らしを望んでいたわけではないが、お重は長兵衛の稼ぎの割に口煩く贅沢を戒めて暮らしの隅々まで始末に努めた。そのため時には余りの吝嗇ぶりに些細なことから口喧嘩になることさえあった。しかし長兵衛からはなんといわれようと、お重は頑なまでに老後に備えて蓄えていたのだ。
ここ数年夜更けて夫婦二人が話すのは決まって老後の暮らしだった。子宝に恵まれなかったため老醜をさらさず誰にも迷惑を掛けずに、とどのつまりは二人して死ぬまで元気で暮らし、最期は今生の別れを親しい人たちに告げて、半日の患いでボックリとあの世へ行けたら良い、と話しのオチはいつも決まっていた。
十手捕縄を返上して隠居したら、暮らしの糧に小体な茶店でも始めよう。寿命が尽きるその日まで気の利いた小女でも雇ってのんびりと過ごすのも悪くない、と長火鉢を挟んで夜長話に花を咲かせたものだ。年寄りの繰り言のように同じ話を夜ごと何度も繰り返し話した。しかし長兵衛の隠居を待たずに、お重はさっさとあの世へ逝ってしまった。
本来『同行二人』とは御大師様と二人ずれだが、長兵衛はお重と二人ずれの『同行二人』で茶店を始めようと思いを固めた。
翌朝から長兵衛は元岡っ引の顔の広さを生かして出物を探した。門前仲町界隈の沽券は高直で手が出ないため、盛り場から離れた人通りの多い場所に狙いを定めた。すると佐賀町の自身番の書役が永代橋火除地の床店が売りに出ていると教えてくれた。さっそく見に行って長兵衛は一目で決めた。大川河口に架かる永代橋袂の人通りの多さもさることながら、決め手は何よりも値段が手頃だったからだ。
床店があるのは永代橋東詰の広小路だ。橋袂の火除地を広小路と呼ぶのは両国橋西広小路と同じだが、その広さと繁華さとでは月と鼈ほどの違いがある。両国橋西広小路には芝居小屋や見世物小屋などがあって江戸で有数の盛り場になっている。それに比して永代橋の東詰めの火除地は猫の額ほどで通りの両側に数軒ずつの床店があるだけだ。しかも軒を連ねるすべての床店が判で押したように三間四方の平屋で、杮葺きの屋根に板囲いの作りだった。もちろん火除地に厠もなければ井戸もなく棲むのは禁じられている。当然のことながら、近くで火事があって延焼のおそれがあると火消しの頭が判断すれば、イの一番に取り壊される決まりだった。
長兵衛が手に入れた床店は火除地の通路を挟んだ北側、橋袂の道具屋の隣で元は古手屋だった。長兵衛が店の出物を捜していたのと、折よく古手屋の店主が店を畳もうと古着を片付けているところで、とんとん拍子に話が進んだ。
古手屋の店主が店仕舞しようとしていたわけは、古着が色褪せするのに音を上げたからだ。当初は店が南向きのため陽差しが店の中まで差し込んで明るくて良いと思ったが、実際に商売を始めると常に店の中に陽が差し込むため、店土間に吊るしているだけで古着が売り物にならないほど色褪せした。南に面した床店は古手屋には向かなかったようだ。
沽券を買い取ると、長兵衛は大工を入れて古手屋から茶店への造作替えに取り掛かった。まず、間口三間を向かって右から一間と半間それに一間半の三つに分けて、奥の板壁から半分までを釜場と廊下と座敷に作り替えることにした。奥行きは二分して前半分の三和土はそのまま残して縁台などを並べることにした。
左の奥から土間の半ばまでの一間半四方に床を張った。その縦横一間半の床に畳を入れて四畳半の座敷とした。茶店にとって座敷は不可欠だ。茶店は一息付くために休む所だが、店先に縁台だけあれば良いというものではない。子女にとって他行は何かと不便を伴うが、着崩れた着物や帯を直したりする座敷は欠かせない。そこで子女が帯を解いたり足を投げ出したり出来るようにと、座敷の廊下側と店先側の二面には人目を遮る明かり障子を入れた。そして奥の板壁にも明り取りのために中連窓を作った。夏には窓の明かり障子を開けると大川を渡る涼しい川風が入り、大川端に整然と並ぶ佐賀町の米倉屋敷の海鼠壁や対岸の小網町あたりの武家屋敷が見渡せる絶景が広がっていた。
着崩れを直すのと同様に、子女が用を足すのも何処でも良いというわけにはいかない。そのため正面右の一間に仕切った釜場の奥を半間ばかり空けて屋内にもう一つ壁を作り、その半間幅を厠にした。出入りには廊下を半間ほど短くした所に裏へ出る引き戸を作った。その引き戸を左へ引き開けて出た右側、つまり釜場の板壁と床店の壁の間の幅半間、奥行き一間が厠だ。ただ厠といっても開き戸をあけると二尺ばかりの高さに板床が張ってあり、その中ほどに長さ二尺に幅一尺ほどの穴と金隠しがあり、その穴の下に肥桶を置いただけの簡素なものだ。その肥桶は近在の農家が十日に一度、荷足船で取り換えにやって来る。その度にいくばくかの野菜を肥料代として置いて行く。
茶店に欠かせない釜場は厠に半間取られたため、奥行き一間に幅一間の狭苦しいものになった。廊下との境には板壁を作り、出入りには半間幅の出入り口を開けて、目隠しに長暖簾を下げた。畳二畳ほどの狭い釜場だが、店先側と横の板壁に中連窓の蔀を作って風通しを良くし、へっついの傍らに水瓶を据えた。出来ることなら荷船で売りに来る水屋から一荷四文の上水を買って水瓶を真水で満たしたかったが、商売に目鼻がつくまでは少しばかり塩っ気のする佐賀町の井戸水を手桶に汲んで運ぶことにした。
そうした細々とした造作を大工に指図していると、斜向かいで糸瓜水や紅を商う還暦過ぎの老婆が顔を出して一緒になって板に描いた図面を覗き込んだり、大工や長兵衛と何かと話をするようになった。身の丈は四尺余りと小柄な上に背中も丸くなって背格好は子供のようだが、旺盛な好奇心としゃがれた声で疲れを知らないほど饒舌に喋る老婆だった。
土間だけの古手屋から茶店へと三間四方の床店を手妻のように変える大工仕事に興味を持ち、何かと嘴を挟むうちに座敷のみならず厠まで作ると知るや「わっちにも手水場を使わしておくれ」と申し出た。火除地に厠のある床店はなく、その都度土手坂下の長屋まで足を運んでいるようだった。
そうした大工仕事の詮索が一段落すると、当然のように当たり障りのない世間話から身元調べと話題が進んだ。そして長兵衛が十手捕縄を返上した元岡っ引と知るや「頼みごとがある」と言い出した。
「元親分なら地回りの嫌がらせを何とかしておくれよ」と懇願した。
「地回りだと、どこの誰が何と言っているンだ」と、長兵衛は岡っ引の顔で訊いた。
「門前仲町の辰五郎ってゲジゲジ野郎が毎月晦日にやって来て、場所代を払えと」
と、お米は何かを恐れるように小声で答えた。
「門前仲町の辰五郎だと、あの独活の大木か」と、長兵衛は聞き返した。
辰五郎なら餓鬼の頃から知っている。六尺近い相撲取りのような巨漢だが、門前仲町では地回りどころか、大声で啖呵の一つも切れない大人しい三十過ぎの独り者だ。普段は富岡八幡宮仲見世で用心棒のようなことをしている。その辰五郎が火除地の床店からみかじめ料を取り立てているとは驚きだった。
やくざがシマとか縄張りとかいって冥加金を巻き上げるのをみかじめ料といった。もちろん御法度だが、無法者を取り締まるのに時にはやくざの力も借りるため、見て見ぬ振りをすることがあった。しかし本来が御法度だから元岡っ引の長兵衛が筋を通して話せば辰五郎は手出しができない。しかも気の弱い破落戸の辰五郎の暮らしが立つようにと、仲見世の肝煎に用心棒にと紹介したのも長兵衛だった。岡っ引の目の前では猫を被って仕事まで世話させたくせに、裏に回れば弱い者いじめしていたのかと思ったら腹が立った。
「どんな脅しをかけているかは知らねえが、手前の地所でもないくせに地代を払えとぬかすとは飛んでもねえ野郎だ。辰五郎に勝手はさせねえから安心しな」
と、長兵衛はお米に言って聞かせた。
「夜に突風が吹いて、床店が一夜にして跡形もなく消えることだってあるンだぜ、」
と、辰五郎の間抜けたような声色を使って、お米は辰五郎の脅す様を演じた。
なるほど辰五郎が二、三度体当たりすればあの巨躯だ、柱は沓石から簡単にずれるだろうし板壁はばらばらに壊れるだろう。野分が吹き荒れた後のように床店が木っ端となって火除地から大川に蹴落されるのは容易に想像できた。
床店は人が暮らすのを禁じている。人が暮らせば明かりや煮炊きに火を使い、火除地本来の意に反するからだ。だから日暮れに床店の戸締りを済ますと、銭目の品を道具箱に入れて家へ持ち帰らなければならない。それが床店商売の厄介なところだった。
「辰五郎には金輪際この火除地に近づかないようにさせるぜ」
と、長兵衛は胸を叩いた。
誰でもこの世に頭のあがらない人の一人や二人はいるものだ。辰五郎の場合は長兵衛と仲見世の肝煎だ。その夜、長兵衛は門前仲町の肝煎を訪ねて辰五郎を呼び出して、きっちりと話を付けた。
辰五郎の一件もあって、大工との打ち合わせで火除地へ何度か来るうちにお米と気軽に話すようになった。住処について門前仲町から通うのは遠いと相談したところ、お米の誘いもあって長兵衛は年内に門前仲町の仕舞屋を引き払って、永代橋からそれほど離れていない北川町飛地の徳右衛門店へ居を移すことにした。お米もその徳右衛門店の北筋の奥から二番目の家に独りで暮らしていた。
お米の夫は腕の良い錺職人だったが、十年以上も前に心の臓の病で亡くなったそうだ。それを汐に一人娘が嫁いだ黒江町の紅粉屋の当主が一緒に住んではと誘ってくれたが断ったという。たまに会うだけなら嫁ぎ先の姑も一緒に世間話に興じる話し好きな老女でいられるが、一緒に暮らして二六時中鼻突き合せていれば、どうしても相手の嫌なところが見えてくるし鼻につくものだ。老女二人の不仲が元で娘夫婦の間に隙間風が吹くようになっては、それこそ元も子もない。
その代わり、紅粉屋で良く売れるが値の張らない糸瓜水を『紅屋』から仕入れることにして、売りに出ていた火除地の床店の沽券を手に入れてもらった。
「お月様は遠く離れているから仰ぎ見て安穏な心持がするのさ。あれが夜通し目の前にあった日にゃ、鬱陶しくていけないだろうよ」
と言って、お米は大口を開けて一人で笑った。
人は誰しも心にいくばくかの寂しさを抱えている。が、同時に我侭の身勝手さも棲み付いている。若いうちは世間が広く見えて、その分だけ心の中を覗き込むことが少ないが、齢を重ねるとそうもいかなくなる。すると不平や不満が無遠慮に口をついて出るようになる。年寄は何かと厄介だ。
年内に茶店の支度をすべて整え、満を持して正月明けに店を開けた。
店開きの初日から松が取れる頃までは門前仲町の顔見知りが来てくれて足の踏み場もないほどだった。急遽お米さんが自分の店を閉めて手伝うほどだったが、それも正月七日までのことだった。顔見知り客が一通り顔を出すと、その後はぱったりと客足が途絶えた。それでも当初は一見客がぽつりぽつりと来ていたが、やがて一月も下旬になると誰も寄り付かなくなった。
老夫婦が夢にまで見た茶店だったが、実際に幟を上げて始めてみると隠居仕事というわけにはいかなかった。客がつくまでは出費を抑えて一人で頑張ろうと始末したのが裏目に出たのだろうか。茶店にしては女っ気女がないせいかも知れないが、なかなか客が寄り付かなかった。たとえ店先の縁台に腰を下ろしても橋袂の気忙しい往来のせいかゆっくりと寛いでくれなかった。わずかお茶一杯八文を頂戴するのも、饅頭一個三文のお足を稼ぐのも、傍目に見るほど甘くないものだと思い知らされた。
それでもたまに通りすがりの客が来ることはあっても、茶店の主人が長兵衛だと分かると急に落ち着きをなくしてそそくさと帰って行く。元岡っ引の老爺が独りで切り盛りしている茶店に長居するような客は滅多になく、仕入れた団子や饅頭が夕刻には無残なほど売れ残った。
茶店を始める前は足腰にいくらかは自信があったが、いざ始めてみると一日中立ったり座ったりの繰り返しと慣れない客商売の気疲れから、日が傾くころには物も言いたくないほどくたびれ果てた。いつ店を閉めようかと思いつつ、長兵衛は日課のように毎朝店先に幟を上げて土手下の佐賀町飛び地の長屋の井戸から水を手桶に汲んで来て湯を沸かし、夕暮れには稼ぎのないまま灰ばかりになった釜の下を始末して、足を引き摺るようにして帰る日々を過ごした。
人知れず悶々と日々を重ねている間にも、いつしか季節は陰鬱な冬から明るく晴れやかな春へと移った。世間ではやれ向島長命寺の花見だ、やれ墨堤の桜だと浮かれているが、長兵衛の茶店は相変わらず閑古鳥が鳴いていた。ただ貝原佐内と二人の手先だけは町廻りの帰りの夕刻に立ち寄ってくれたが、それすらも商売の邪魔をしているとしか思えなかった。八丁堀同心が縁台に腰を下ろしているような茶店に、気軽に立ち寄る客はよほど喉の渇いた者か、八丁堀に親しみを覚える酔狂しかいない。
桜吹雪の舞う春の昼下がり、長兵衛は釜場から出て店裏の石組の上の爪先立つようなわずかな空地に佇んだ。そして初夏を思わせる日差しのきらめく川面に花筏が流れるのを眺めて小さく溜息をついた。誰か小女を雇って手伝わせるほど稼ぎの上がる商売でないのは目に見えているし、お重が残してくれた蓄えもすっかり底をついてしまった。質の悪い烟る安炭を使っているが、それでも幾許かのお足は入用だ。明日の炭をどうしたものかと思案して溜息をついた。
八方塞だ、とわずかに頭を振って黒襷を外した。呆然と肩を落として俯いていると、いつしか紐を両手で伸ばしてそれをじっと見詰めていた。ふと我に返り「首括るなぞ、なんてこった」と長兵衛は縁起でもねえ、と首を強く振った。
自分を奮い立たせるべく大きく息を吸い込んで眦を決して、春霞と桜色にかすむ墨堤へ昂然と顔を上げたが、それも長くは続かなかった。もう一度ため息を吐くつもりで肩の力を抜くと、すぐ隣から「ふっ」とかわいい溜息が聞こえた。
首を巡らすと幅一尺ばかりしかない店裏に年の頃二十と二、三の若い女が立って、先刻までの長兵衛と同じように遥か夕暮れの大川に視線を泳がせていた。惚れた男に袖にされ思い詰めているのか、すっかり気落ちしている様は肩を落とした姿から見て取れた。
五尺五寸の長兵衛より一尺ばかり低い身の丈に、何度も水を潜った茶江戸縞の地味な着物に、やはり使い込んだこげ茶の帯を締めている。横顔のため顔立ちまでは見て取れないが、器量は並み以上と思われた。ただ、鬢の解れが目立つ銀杏返しや顔の何処か薄汚れた印象が気になった。
親切心を起こして、長兵衛は丸まっていた背筋を伸ばし表情を和ませた。つい今しがたまでグウの音も出ないほど塞ぎ込んでいたのだが、そこはお節介焼きの江戸っ子だ。
「どうしたい、」と声を掛けようとわずかに左手を上げた。がその刹那、待っていたかのように若い女は胸元に両手を合わせて大川へ身を翻した。
「あっ」と声を出す間もなく、幻でも見ているかのように女はゆっくりと弧を描いて、二丈ばかり下の花筏に降り立つかのように見えたが、花弁の海に吸い込まれて消えた。
「大変だ」との声が喉元で固まり、金縛りにあったかのように長兵衛は手を大川へ差し伸べたまま、大きく波紋状に広がる花筏の揺れを呆然と見詰めた。
長く思えたが、それはほんの一瞬のことだった。長兵衛はすぐに金縛りから解けたが、強い思いと急ぐ気持ちが喉の奥で鬩ぎ合って声が塞き止められた。ただ口を大きく開けて、子供のように両手をばたばたさせた。幸いにも近くを下っていた醤油や味噌樽を積んだ荷足船がすぐに岸辺へ漕ぎ寄せた。そして舳先に立つ船頭が花筏の中へ長柄の鉤を差し入れ、帯に鉤をかけて舷側に引き上げた。
「目の前を天女が降って肝が冷えたぜ。足でも滑らせたかい。爺さんの身寄りかえ」
大声で聞かれると、長兵衛は即座に「ああ、そうだ、」と応じた。
咄嗟に「そうだ」と返答したが、なぜそう答えたのだろうか。長兵衛にしっかりとした考えがあってのことではなかった。ただ若い女が身を投げるのには必ず深いわけがある。しかもここで長兵衛が「そうだ」と返答しなければ、若い女は自身番へ連れて行かれる。すると、どうなるか。
女が身投げして死に損なった場合、自身番で曰く因縁を根掘り葉掘り訊かれ取調書に残された挙句、罰として岡場所などへ下げ渡されるのが決まりだ。世を儚んで身投げした女にとって息を吹き返した時から、この世の地獄が始まるのだ。
身投げでもそうだが、心中で生き残った場合はもっと悲惨だ。男女とも死にきれなかった時は日本橋の高札場に三日晒された後に士農工商以下の身分に落とされる。どちらか一方だけが生き残った場合は死罪とされた。
そうした過酷な掟が長兵衛の頭の中にあったわけではない。ただ深川門前界隈を縄張りとしている岡っ引は長兵衛が下っ引に使っていた弥助だ。足を棒にして働く気の良い男かと思って跡目を譲ったが、岡っ引になった途端に強欲で冷淡な一面が顕になった。立場によって人は変わるものだが、自分に見る目がなかったと後悔したものだ。
弥助に若い女の詮議を任せるわけにはいかない。嵩にかかってどんな因縁を吹っかけてくるか分かったものではない。掟に従って岡場所へ堕すより、料理茶屋や水茶屋の仲居へ口を利いてヒモに収まるか法外な斡旋料をせしめるか、悪くすると弥助が口利きをして岡場所へ平気で売り飛ばしかねない。いずれにせよ、自身番に渡したら女は死ぬまで苦界から抜けられないのだ。
荷足船が橋の下へ入ってはじめて我に返り「大変だ」と、叫びながら長兵衛は茶店の裏から人の行き交う往来へ大慌てで飛び出た。そして人込みを縫うように身を翻して火除地の端まで下駄を鳴らして急いで行き、石段を駆け下りようとして見下ろした船着場の騒ぎに驚いた。
床店の切れた火除地の端から石組の壁面に沿って、踏面三尺に幅二間の大石段が大川の水面の下まで続き、その大石段が桟橋の代わりの船着場と荷卸し場になっている。廻船で江戸へ運ばれてきた荷のうち、深川へ送られる味噌や醬油や酒などの品々は石川島沖で廻船から艀に乗せ替えられて橋袂の階段下に下ろされる。だから常に何人かの仲士がいるし、御城下へ行く客待ちの猪牙船の船頭たちがたむろしている。
長兵衛が石階段へ駆け寄り下を覗き込んだ折には、早くも猪牙船の船頭たちが荷足船の舳先を抑えていた。艀の到着を待っている仲仕たちも荷足船の舷側を手繰り寄せて横付けにして、他の仲仕が持ってきた戸板に女を手際よく乗せた。長兵衛が声をかける間もなく、戸板に乗せられた女は石段の上の長兵衛の目の前まで運び上げられた。
「済まねえ、店の座敷へ運んでくれねえか」
長兵衛がそう言うと、仲仕たちは「へい」といって神輿でも担ぐようにして運んだ。
茶店の奥座敷に女を戸板から下ろすと、仲仕たちは何事もなかったかのように引き上げた。長兵衛の傍らで見守っていた界隈の鳶の親方が「縁戚の娘さんかい、飛んだ災難だったな」と長兵衛に声を掛けた。長兵衛は上の空で「ああ」と返した。
若い女を茶店の奥座敷に寝かせたものの、実の処長兵衛はどうすべきか狼狽えていた。
永代橋の袂で商売をしていると年に何回かは身投げに出くわす。岡っ引として可哀想な土左右衛門も何体か検分したこともある。しかし今までは長兵衛とは関わりのないところで誰かがケリを付けていた。だが今回はとっさに長兵衛が親戚面をして身柄を引き受けたものの、どのようにこの始末をつけたものか戸惑った。強面の悪党の相手なら怯むことはないが、若い女にどう声をかけたものか見当もつかない。
座敷の女はすでに意識を取り戻しているのだろうが、恥ずかしさからか目を瞑り横たわったまま身を縮めていた。どうしたものかと、長兵衛と鳶の親方は顔と顔を見合わせた。茶店の様子を窺っていたのか、斜向かいの床店で糸瓜水を売っている老婆のお米が身投げと察して様子を見に来てくれた。カラカラとちびた下駄を鳴らして入って来ると、
「ずぶ濡れの娘を前にして、何を老いぼれ爺の二人が雁首揃えて、障子を開けっ広げた座敷の前にツッ立って眺めてるンだい。それともナニかえ、店先に群がってる野次馬衆と一緒になって、娘の着替えをお前さん方は特上席で見物しようとでも思ってるのかえ」
そう言いながら、お米は長兵衛と鳶の親方を追い立てるような仕草をした。
その手に風呂敷包みを持っていた。おそらくお米の着替えでも入っているのだろう。
「なんて言い草だい。儂らは心配してるだけだぜ」
と、鳶の親方は口を尖らせたが、きまり悪そうに首を肩の間に埋めた。
長兵衛も叱られた小僧のようなきまり悪さを覚えたが黙って踵を返した。そして店先の野次馬たちに向かって「見世物じゃねえ、早く行きな」と怒鳴って鬱憤を晴らした。そうしている間にも、お米は店土間から廊下へと明かり障子を閉てて回った。
その後に障子を閉て回した座敷に入って、お米が二言三言声を掛けていたが、着替えの手伝い終えたのか、間もなくしてお米は濡れた着物を風呂敷に包んで廊下側の障子から出てきた。女は一人で髪を結い直したり、身繕いでもしているのだろうか。座敷から衣擦れの音が洩れていた。
「わっちぐらいの齢になると大抵のことにゃ驚かないけど、若い者は思い詰めるからねえ」
囁くようにそう呟いて、お米は歯のない口を開けて寂しそうに笑った。
「身投げとされて自身番に引っ張られては大変だから、お米さん、なんとかあの娘の身の上を聞き出してもらえないか。事と次第によっちゃあ儂が一肌脱いでも良いが」
と、長兵衛はお米に頼んだ。
若い女が身投げするとは、よほどの事情があるに違いない。その「よほどの事情」とは若い女の場合は色恋沙汰と相場は知れている。しかし惚れた腫れたのゴタゴタがあったにせよ、身投げするとは剣呑だ。あるいは勘当されて帰る当てがないのかも知れない。もしそうなら身元引受人として「人別」を引き受けないでもないが。
「聞いてみなけりゃどんな事情があるか分からないけど、長兵衛さんが一肌脱いでくれるのならこれほど心強いものはないよ。なにしろ元を正せば十手持ちだからね」
そう言って何度か頷いて、お米は感心したように長兵衛を見上げた。
娘に行く当てがなければ自分が身元請人になると決めたが、長兵衛は不意に戸惑ったようにお米を見詰めた。長兵衛が棲んでいる家はお米に勧められて引っ越した四畳半一間の棟割長屋だ。以前の行灯建ての仕舞屋なら構うことはないのだが。
「他のことは何でもないが、ただ一つだけ困ることがある」
と長兵衛は言って言葉を濁した。
「ナニ、他でもねえ。あの娘に帰る家があれば何でもないが、もしものときはあれだ。必要とあれば儂が身元を引き受けるし、人別もというなら養女にしても良いが、夜は困るな」
と言いながら、長兵衛は沈痛な顔をして腕を組んだ。
夜になると棟割長屋は一間しかないため、若い女と一つ部屋で寝ることになる。
「年は取っているが儂も男だ。養女にした若い女と儂が一つ部屋で寝たンじゃ、世間が五月蝿いだろうぜ。済まねえが、夜はお米さんの家にあの娘を寝かせてやってくれないか」
と頼んだ。お米はふと汚いものでも見るような眼差しをして、
「その齢にもなってお前さんはまだ男かい、いやだねえ」と小さく笑った。
「いやいや、儂が男か男じゃないかはどうでも良いンだ。ただ世間様が、」
と長兵衛が憮然として言い募っていると、障子が静かに開いた。長兵衛とお米は二人して開いた障子へ振り向いた。二人の視線に戸惑ったように端座した女は
「大層ご迷惑をおかけしました」
と言って、座敷に両手を付いて頭を下げた。
お米の地味な何度も水をくぐった藍縞に着替えると、女の若さがことさら際立った。水に濡れ根の崩れていた銀杏返しを解いて、漉き上げて櫛巻きにしていた。うなじの解れ毛が差し込む明かりの中で寂しそうに震えた。
「着替えさせたが濡れた着物を乾かさなければならないし、娘さんも春先の水練で体が冷え切っているだろうから、これから松の湯で体を温めてもらうよ。済まないけど、わっちも一緒に行くから店仕舞をお願いできないかね」
と、お米は長兵衛に言った。
「ああ、いいとも。戸締りは引き受けたから心配するねえ。売り物は後で届けるから、さっきの件、よろしく頼むぜ」
と、長兵衛はお米に小さく頭を下げた。
大川から拾い上げた女がお菊だった。質素な着物に化粧気のない素顔に、整えられたことのない地蔵眉にくっきりと澄んだ双眸をしていた。どこか田舎娘を思わせも面影から、お菊がどんな素性の女なのか、長兵衛は一目見ておよその見当がついていた。
その日の夜も更けた頃にお米がやって来た。町内の湯屋へお菊と一緒に行った折に、お米が聞き出したお菊の身の上話を長兵衛の耳に入れに来てくれた。
長兵衛が見当を付けた通り、お菊は北関東の寒村の農家の出自だった。後にお米がお菊から問はず語りに聞き出した話によると、お菊は天保七年の飢饉の折に、口減らしのために故郷の末寺の紹介で他に十二歳の少女と江戸へ奉公に出されたという。まだ十歳になったばかりだったが、村娘の多くが女郎として女衒に売られたことに比べれば、お菊は幸運だったと思わなければならない。
浄土真宗本願寺派の村の寺の住職に連れられて、お菊は小さな風呂敷包み一つを持たされて、二歳年上の娘と一緒に築地本願寺へ出てきた。村の寺にあった人別を築地本願寺に移し、本願寺の世話でお菊は日本橋の呉服商近江屋へ女中奉公に上がった。人別とは宗門人別帳といって今でいう戸籍のことだ。江戸時代は戸籍の管理を寺が行っていた。
同じ村から出てきた十二歳の子が江戸橋袂の小料理屋へ奉公に行ったのと比べれば、自分はまだマシだと思った。お菊は酒の席が好きでなかったし、酔っておだを上げる男は見るだけでも怖かった。
しかし小料理屋よりマシと思われた近江屋での女中奉公はお菊の淡い期待を裏切った。奉公に上がった日から過酷を極めた。朝早くから夜遅くまで鬼瓦のような女中頭に追い回された。水仕事で右手の平の付け根が盛り上がり洗濯胼胝ができた。冬はあかぎれで指の節々がばっくりと割れた。しかしお菊は歯を喰いしばって耐えた。音を上げたところで帰る家は何処にもないし、情けをかけてくれる人もいなかった。
ただ、お菊は朝昼晩に頂戴する一汁一菜の粗末な膳にもかかわらず、輝くばかりの銀飯が出るのに目を見張った。村で米を食べるのは余命幾ばくもない病人だけで、それも顔が映るほど薄いお粥でだった。普段の暮らしで村人は粟や稗などの雑穀や芋などを食べた。お菊は銀飯が食べられるだけで、真冬の雑巾がけも山ほどの洗濯も辛抱できた。
田舎に残った両親や弟たちが飢餓地獄から生き延びられたのか、というとそうでもなかったようだ。不幸にもその二年後の飢饉で村は全滅したと聞かされた。当時の記録によると、田植えをするのに綿入れを着たほどの寒い夏だったと記されている。深刻な冷害に見舞われ、秋を待たずして餓死した遺体が村の家々や道に転がり、生き残った村人も逃散により村が遺棄され『潰れ』た村が関東から東北に到るまで各地にみられた。
お菊の村も天保九年の飢饉で『潰れ』たと聞かされた。あるいは生り物の不作により飢餓地獄に陥る前に、村人が一斉に村から逃亡したのかも知らない。それを『逃散』と呼んだが、飢餓難民が浮浪人となって江戸へ流れ込み、当時の江戸は寺社といわず辻といわず浮浪人であふれていた。それに業を煮やした老中水野忠邦は『人返し令』を発して、浮浪者を捕縛しては出身の村へ帰農させたほどだ。
お菊は思い出しただけでもわが身の哀れさに涙が出るほどの苦労を何年も重ねて一人前の女中になり、やがて年頃になって店の手代と人目を忍ぶ仲になった。手代は平治といって、お菊が奉公に上がった年の二年前に、十三で近江から近江屋へ奉公に上がった。お菊が店の奥で女中頭に追い回されている時、平治は表で小僧として番頭や手代から追い回されていた。二人は店の奥と表に分かれているため、滅多に顔を合わせることはなかった。
しかしやがてお菊が台所で給仕を任されるようになると、手代に上がったばかりの平治と顔を合わせるようになった。だが顔を合わせるといっても言葉を交わすわけでもなく、膳の支度をお菊がしていた間、平治たちは黙って正座して待っているだけだった。
しかし若い二人にはそれだけで十分だった。存在を目で見るだけで胸が高鳴った。だが胸に灯った恋心ほどに、この世は甘くなかった。近江屋は上方に本店を置く江戸出店だった。店の者たちも近江近郊の在の出自だった。
江戸出店には厳しい仕来りがあり、近江屋では奉公人同士の色沙汰はご法度とされていた。近江屋の奉公人は適齢期を迎えると『国帰り』といって一月ばかり故郷へ帰って在の娘と所帯を持つことになっていた。親の決めた国許の娘と慌ただしく祝言を挙げると、再び江戸出店で十数年間をお礼奉公として単身で過ごした後に、近江屋から暖簾分けにより独立する仕来りだった。祝言を上げた血気盛んな若者も、新妻と過ごすのは十日ばかりで江戸店へ単身で戻らなければならなかった。
お礼奉公の十数年間は単身で江戸の出店で過ごすのが決まりだ。だから夫婦生活は大阪本店への使いの途次に、郷里に立ち寄り一晩過ごすだけだった。年に一度あるかないかの夫婦生活で十数年を過ごすという、あたかも修行僧のような厳しい仕来りだった。その禁を破って江戸の女と不始末を仕出かしたり、郷里の娘以外の女と所帯を持つなどした場合は『外れ者』と呼ばれて身一つで放逐されるのが掟だった。
そうした厳しい仕来りを承知の上で、平治は郷里へ旅発つ前夜に必ず独りで帰ってくると誓った。そしてお菊と契って江戸を後にした。
お菊は平治の言葉を露ほども疑わなかった。十日もすれば必ず平治が迎えに来ると信じて疑わなかった。しかし十日はおろか、その日から音沙汰ないまま一年はあっという間に過ぎた。そして次の年も四季が慌ただしく過ぎ去ったが、平治からは何の音沙汰もなかった。色香匂うばかりの娘もいつしか年増といわれる節目の二十歳を過ぎた。薄暗い店の奥で仕事に追われる日々を過ごしていたが、三年目の当日に平治との約束に見切りを付けた。そして暇乞いを願い出たお菊は追われるようにして十三年間も奉公した店を出た。
だが近江屋を後にしたところで、お菊に行く当てはない。小さな風呂敷包みを一つだけ小脇に抱えて、二日ばかり一人で江戸の町をさまよった。店を出る際に一文も持っていなかったため宿に泊まることも叶わず、夜は人影のない祠で空腹と寒さと恐怖に震えて過ごした。そして三日目の夕暮れに江戸湾に臨む永代橋の袂まで来ると、哀しみと絶望のあまり大川へ身を投げたのだった。
翌朝早く、長兵衛は畳皴のついた羽織を着ると「お菊の件を片付けて来る」とお米に告げて出掛けた。犬や猫の仔を貰うわけではない、人一人の身元を引き受けるとなると、それなりの手続きが必要だ。
渡橋代二文を橋袂の笊に投げ入れて永大橋を渡り、船番所の前を通って真っ直ぐに大通りへと向かった。御城下の地理にあまり詳しくないため、なにはともあれ日本橋へと繋がる大通りに出て、それから西へ下る。近江屋は日本橋に近い室町通から横へ入った脇道沿いにあると聞いていた。
まずは近江屋を訪ねてお菊を預かっていることを告げなければならない。今のままなら拐かしと何ら変わらない。出来ることならお菊が近江屋を出た理由を店主の口からも聞かなければならない。もしかするとお菊は店に飛んでもない不義理を仕出かして出奔したのかもしれない。もしもそうだったら世間様に顔向けが出来るようにケリを付けなければならないし、事件絡みなら八丁堀の旦那の手を借りなければならないかも知れない、と不安な思いを抱きつつ近江屋へ向かった。
たとえお菊が奉公先を出た理由がお米に語った通りだとしても、身元請人の近江屋の了解を得て人別のある築地本願寺に願い出て、人別の送り状を作ってもらわなければならない。その送り状があってこそ、深川の長兵衛の檀家寺へお菊を長兵衛の養女とし人別を移せるのだ。
今はまだ身を投げた直後で、お菊は行く先々のことまで頭が回らないだろうが、人別がなければ帳外者(無宿人)となり首がないのと同じだ。これから深川で暮らすのなら、築地本願寺から長兵衛の檀家寺へ人別を移しておかなければならない。お菊の同意を得たわけではないが、長兵衛は昨夜一晩考えてそうすることが一番良いと思った。
早朝にもかかわらず、御城下の大通りは掃き清められていた。両側の軒を連ねる商家は短暖簾を下げ、店先を大勢の人が行き交っていた。夜明け前に活況を呈す魚河岸は店仕舞いしているが、ほかの呉服屋や乾物屋や刃物屋などが大戸を開け短暖簾を出している。永代橋東袂の火除地の人込みも大概だと思っていたが、それとは比べ物にならない賑わいだ。長兵衛は人込みを縫うようにして日本橋三越本店の前を通って、室町通りから一筋入った本小田原町へと足を向けた。
近江屋江戸出店は間口三間ほどの小体な店だった。当時の呉服店は担ぎ売りが主で、手代衆が反物を入れた行李を背負って顧客の許へ出掛けて商う。そのため朝早くから注文の反物を行李に詰める作業に追われる。長兵衛が訪れた時は数名の手代たちが店の板の間で帳面片手に反物を行李に詰めていた。
近江屋は男衆で切り盛りしているようで、店土間にも上方訛りの男たちが忙しそうに働いていた。長兵衛は店先にいた小僧に店主に会いたいと来意を告げた。小僧が小走りに店へはいり、帳場格子に座る小柄な番頭に一言いうと、番頭は座ったまま長兵衛を値踏みするように上目で睨んでから、傍にいた手代に応対を命じた。
「どうぞ、こちらへ」
若い男が出て来ると、長兵衛を土間の続きの長い土間の通路を奥へと導いた。
奥庭に面した部屋へ案内され、沓脱石から縁側に上がり部屋へ入った。そこには細面の五十年輩の男が座っていた。頑固そうな目鼻立ちの男は江戸店主人の清右ヱ門と名乗った。
「お菊のことで来られたようで」
と、清右ヱ門は長兵衛の人品を値踏みするような眼差しで見詰めて上方訛で聞いた。
「三日前に暇を頂戴したいと申し出まして。思い止まるように言葉を尽くしたのですが。夜になっても帰らず行く先も分からず、どうしたものかと案じていたところです」
清右ヱ門の言葉の端々には店の不祥事にしたくない思惑が滲んでいた。
しかし、それかといってお菊の出奔をいつまでも隠し通すことは出来ず、近江屋が身元請人として不始末を問われかねない。さらには人別引受の本願寺へどのように届け出れば良いか思い悩んでいたようだ。
商家の女中奉公はお仕着せと三度の食と寝るところは心配ない代わりに無給だった。盆と正月に僅かな小遣いを頂戴する他に手当は一文もない。ただ女中が年頃になって嫁入りする際に商家が親代わりに嫁入り支度をすべて整えるのが決まりだった。
近江屋はお菊の身元請人となり女中として十年以上も奉公勤めさせた。普通に暇を出すのなら嫁入り支度に相当する金子を与えるのが世間並みだ。しかし手代と割りない仲になった女中に嫁入り支度相当の金子を出すと他の女中に示しがつかない。だから一銭も与えず身一つで路頭に放り出したが、お菊が何かを仕出かせば身元請人の近江屋もただでは済まない。そのお菊が身を寄せた先が判明して、清右ヱ門が傍から見ても明らかなほど安堵の色を浮かべた。
長兵衛はかつて南奉行所同心貝原佐内の配下として十手捕り縄を預かっていたことと、今は永大橋東詰の火除地で茶店をやっていることを告げた。その上で近江屋に差し障りがなければお菊を長兵衛の養女にして、人別を深川の寺に移したいと申し出た。
長兵衛の申し出に清右ヱ門は露骨なほど喜色満面に相好を崩した。そして厄介払いが出来たとばかりに、身を乗り出して「実は」と内輪話を始めた。
「実は、お菊は手前どもの店の手代と割ない仲になっていました。ご存知の通りこの近江屋は上方に本店を置く江戸出店で、奉公人が勝手に嫁を娶ることは出来ない決まりでして。奉公人は江戸の出店で十年間、小僧から手代まで勤めて仕事を一通り覚えてから、郷里に戻って郷里の娘を嫁に迎えるのが仕来りでございます」
そこまで言うと、長兵衛の理解が追い付くのを待つかのように言葉を切った。
そして清右ヱ門は古年増の女中が持って来たお茶を一口啜った。
「生木を裂くように、二人の仲を引き裂いたのは手前です。非情な人間だとお思いでしょうが、それが近江屋の掟で御座います。嫁とりで郷里の近江へ帰った平治を二度と江戸の出店に戻さないように、と本店に書き送っていますゆえ、お菊が何年待とうと、平治が近江屋本店から出奔しない限り、江戸へ戻って来ることはありません」
そう言って、清右ヱ門は手に持っていた湯飲みを茶托に置いた。
「嫁取りの後、十数年間のお礼奉公を勤めあげると暖簾分けか、それなりの金子を持たせて故郷へ帰って嫁や子達と暮らすかを、選ぶので御座います。ただ、近江屋の掟を破った者は身一つで店を追い出され、近江屋のみならず同業者にも回状を回されて、生涯上方の呉服株仲間の店から閉め出されるのです」
――だから何年待っても平治が江戸へ戻って来ることはない、と清右ヱ門は目顔で言った。
なるほど男所帯の江戸出店の規律を守るにはそれ相応の非情さも必要かもしれない、と長兵衛は小さく頷いた。しかし、それなら話が早いと長兵衛は身を乗り出した。
「それではお菊の身元請人を近江屋さんから手前に変えて、手前の養女として人別を移しても近江屋さんに異存はないということで、よろしいでしょうか」
と、長兵衛は確かめるように見詰めた。
「はい。手前どもの店を出奔したお菊の身元請人を近江屋のままにしておくのは定法に背くもの。身元のしっかりとした長兵衛さんなら、手前どもも願ったり叶ったりです」
清右ヱ門は厄介の種を一つ片付けた、とでもいうかのように安堵の笑みを浮かべた。
「それではこれで、」と、長兵衛が腰を上げようとすると、
「番頭の徳兵衛を付けますので、請人の件と人別の手続きに、さっそく番頭と築地本願寺の人別役人の許へ行って下さい」
そう言うと、清右ヱ門は縁側に控えていた手代に「徳兵衛にそのように伝えなさい」と命じた。そして用件は済んだ、とでも言いたげに清右ヱ門は腰を浮かした。
徳兵衛は清右ヱ門より年嵩に見える痩身短躯の男だった。若い頃から担ぎ売りで鍛えたのだろう、やや腰が曲がりかけているが、足腰は矍鑠としていた。無駄口は一切きかず、徳右衛門は築地本願寺までの一里余りの道を長兵衛の先に立って歩いた。
築地本願寺の境内へ入ると、番頭は勝手知ったように宗門人別改所へ連れて行った。そこで町役人立ち合いのもと、番頭がお菊の身元引受人の変更を申し出て近江屋から長兵衛に変えた。その書面を付して長兵衛の「養女」として長兵衛の人別に書き加える旨の人別送状を旦那寺宛に書いてもらった。これでお菊は晴れて長兵衛の養女となり、長兵衛の人別にお菊が加筆されることになる。
長兵衛はその書状を押し頂いて懐に入れ、番頭に頭を下げた。
「さっそくお計らい頂いて誠に有り難いと、御店主殿にお伝え下さい」
そう言うと、長兵衛は急いで深川へと引き返した。
もちろん旦那寺の永代寺へお菊の人別の送状を差し出して、町役立会いの許で養女に加筆しなければならない。そのために朝からはるばると御城下へ出掛けたのだ。
深川にとって帰ってお菊の人別を自分の人別に養女と書き入れたら、せめて昼からでも茶店を開けなければならない。養う家族が出来たからには客の不入りを嘆いても始まらない。とにもかくにも茶店を開けて日銭を稼がなくてはならない、とばかりに着替えると店へと向かった。昨日まで長兵衛に憑りついていた貧乏神が嘘のようにきれいさっぱりと落ちていた。
しかし店を開けても急にお客が都合良くやって来るものでもない。お客がいないなら埃まみれの店や縁台をきれいに拭いておこうと、長兵衛は元気に掃除を始めた。大川から汲み上げる水はまだ冷たいが、良く絞った雑巾で畳の座敷までも一心に拭いた。
「おや、どういう風の吹き回しだえ。難しい顔をして往来を睨み付けるだけだったのに、今日は襷をかけて掃除かい」
斜向かいから眺めていたお米が声をかけてきた。
「おうよ、この年になって養う娘が出来たからには、老け込むわけにはいかねえ。もう一踏ん張りしなきゃなるめえよ」
そう言いながら、長兵衛は少し照れたような笑みを浮かべた。
春の陽射しのように心が浮き浮きした。自分一人の身過ぎ世過ぎのためでなく、人のために生きるということが嬉しかった。長兵衛の中でなにかが吹っ切れていた。
二日ばかり、お菊はお米の家に籠って塞ぎ込んでいた。
長兵衛もお米も余計なことは何も言わず、お菊の気が済むまでそっとしていた。
二日目の夕刻に長屋へ帰ると、お米の家も長兵衛の家もきれいになっていた。十の齢から働いてきた体は部屋に籠り続けるのに向かなくなっていたようだ。そのうえ若さはしなやかな若木のように、何かを切っ掛けに立ち直るものだ。お米がどんなおまじないを掛けたか知らないが、三日目の朝に井戸端で長兵衛が顔を洗っていると、お菊は気後れしたように小声で挨拶をした。そして四日目の朝には長兵衛の後を追うように、お米と連れ立って永大橋詰の床店へやってきた。
恥ずかしそうな顔をして店先に立つお菊を見つけて、長兵衛は目を見張った。薄く紅を引いたお菊の顔は目鼻立ちがすっきりとして垢抜けていた。お米の若い頃の着物か、千本縞の華やかな衣装を纏ったお菊に長兵衛はしばし呆然と見とれた。しかし長兵衛はハッとしたように気を取り直すと、
「勝手に自分の一存でお菊の身請人とし、人別も「養女」として深川の寺へ移した」
と、断りを入れた。
するとお菊は被りを振って涙を浮かべ、深々と頭を下げた。
「いいえ、飛んでもございません。お礼を申すべきは私でございます。菊は近江屋を追われて、身の置き所は何処にもございませんでした」と、涙声で語った。
その言葉を聞きながら、長兵衛は大きく二度三度と頷いた。
この江戸で近江屋以外に行き場のないお菊は帰らぬ男を待ち侘びて針の筵の近江屋で三年も耐え忍んだ。しかしついに近江屋の奉公人の氷のような視線に耐えられなくなって飛び出した。おそらくそうなのだろう、と長兵衛は思い描きつつ何度か頷いて「儂の養女として人別届をしたが、それで良かったンだな」と念を押した。傍らで訳知り顔で聞いていたお米も目頭を押さえた。
お菊が茶店で働くようになってすべてが変わった。
まず常連の客がついた。手妻でも見ているかのように橋袂を行く人たちが縁台に腰を下ろすようになった。そして子女が座敷で一休みするようになった。その女客の多くは富岡八幡宮に参拝しての帰りで、橋下の船着場から御城下へ行く猪牙船の船頭待ちだった。
念願の水も塩っ気のある佐賀町の井戸水ではなく、水屋が御城下から運んで来る上水に変えたため、お茶が美味いと評判が立った。さらに砂埃で薄汚れていた茶店も掃除が行き届き、入り小口の柱の竹筒の一輪挿しに季節の草花が飾られるようになった。
女っ気があるのは良いものだ、と長兵衛の顔も自然と和んだ。お菊は独楽のように良く働いたが、少しばかり度が過ぎていた。奉公先で古い女中からよほど仕込まれたのだろう、長兵衛が止めなければ倒れるのではないかと思われるほど休むことなく健気に働いた。
燕が低く川面を飛び交う頃には永大橋袂の長兵衛の茶店は朝から客で賑わい上々吉になっていた。商売は順調になると評判が客を呼び、益々良い方へ転がりだすようだ。お菊が店に出るようになると、それまで素通りだった八丁堀の旦那まで町廻りの帰途に立ち寄るようになった。
貝原佐内は往来に面した縁台に腰を下ろすと、長兵衛は二人の手先に釜場で休むように声を掛けた。手先が釜場で休んでいる間、長兵衛が貝原佐内の相手をした。
「長兵衛、良い看板娘を見つけたものだな。商売繁盛で何よりだ」
そう言いながら、貝原佐内は盆に湯呑を乗せて来たお菊を見上げた。
お菊は恥ずかしそうに小袖で顔を隠し、目顔で笑って中へ入った。初夏の訪れに燕が橋裏の巣と川面を忙しそうに飛び交っている。
「へい、お菊のお陰で何とか首を括らずに済みそうです」
と、長兵衛は傍らに立ったまま定廻同心の貝原佐内に微笑んだ。
貝原佐内とは先代に仕えていた頃からの長い付き合いだ。当時は朝のご機嫌伺に八丁堀の組屋敷に訪れると、必ず長子の佐内に捕方に必要な十手術の相手をしたものだった。
四十過ぎの男盛りの長兵衛にいかに撃ち込んでも、まだ体の出来上がっていない少年の佐内では勝負にはならなかった。しかし、歳月人を待たず。いまでは佐内が朱房の十手を持つ本所改役同心で、長兵衛は年老いて茶店の釜番になっている。だが、それはそれで自然の成り行きだ。いつまでも男盛りでは誰でもくたびれてしまうだろう。少年もいつまでも少年で大人に頭が上がらなければ、そのうち向上心も燃え尽きるに違いない。
「拙者も倅に跡を継がせて楽隠居といきたいが、まだ倅は頑是ないため、ここ当分は頑張るしかない」
そう言うと、貝原佐内は左の腰を伸ばして差料を腰に帯びた。
二人の手先が出て来るのを待って、主従は茜色に染まった御城下へと橋を渡っていった。後姿を見送りながら長兵衛は首を横に振った。まだ四十前の貝原佐内が隠居を口にするとは驚きだ。茶店の親父に収まった自分の暮らしがよほど安気な隠居仕事に見えているのだろうか。養女のお菊に茶店を手伝ってもらっているからこそやっていけるのだが。
茶店を出した当初、火除地の床店仲間には長兵衛が元岡っ引だと毛嫌いする者もいたが、今では地回りが悪さをしなくなったと喜んでいる。定廻同心が茶店に立ち寄るようになると、火除地の床店だけでなく橋袂界隈の商店までも安堵感を抱くようになった。
貝原佐内が御城下へと橋を渡って行くのを汐に、長兵衛は店仕舞をする。お菊も座敷や縁台をきれいに拭いて一日の仕事仕舞をする。長兵衛は釜の火を落とし、店の横の軒下に置いている戸板を敷居に嵌めて猿を落とす。
そうした手順で店仕舞をしている間に、お菊は縁台を拭き終わり駒下駄を鳴らして入って来ると、裏の石組みから雑巾がけの手桶から水を捨てる。撒かれた水は川面を吹き渡る風で飛沫となって、大川に雨音を立てた。
八朔の頃まで、お菊は時として往来を行く旅姿の男の後姿を目で追うようなことがあった。無意識のうちに平治の面影を追っているのだろう、と長兵衛は釜場の蔀から黙って見ていた。時がお菊を癒すまで待つしかないと心に決めていたが、盛夏の暑さが訪れた頃にはそうした素振りを見せなくなった。心の中に棲みついていた平治の影が消え去ったのだろうか、と長兵衛は釜場の蔀から見えるお菊の姿に秘かな安堵を覚えた。
八月半ばの富岡八幡宮の祭礼の人出は混雑を極めた。江戸の三大祭りの一つといわれ、長兵衛の茶店も一日中息つく暇もないほどだった。ことに元禄年間に材木商で財を成した紀伊国屋文左衛門が奉納した総金張りの宮神輿三基が繰り出すと祭りは一気に佳境に達する。そのため四十余年前の文化四年の祭礼では余りの人出に永代橋が崩落して千人以上もの死者を出したほどだ。余りの客の入りにくたくたに疲れ果てたが、それがかえってお菊に幸いしたのか、祭礼の日を境に長兵衛に対する遠慮がなくなった。
夏枯れといわれる暑い盛りも何事もなかったかのように乗り切り、涼風が川面を渡るようになると、朝から夕刻まで縁台にも客が途切れることはなかった。客足はそのまま師走に入ってもそれほど落ちなかった。
師走に入って間もなく、いつものように町廻りの帰途に立ち寄った貝原佐内が縁台に腰を下ろす前に釜場へ向かって手招きした。釜場から店先や往来は蔀を通して見渡せるが、店先から薄暗い釜場は見えない。長兵衛は貝原佐内が釜場の自分を呼んだのに怪訝な思いで店先へ出た。いつの間にか川面を渡る風が冬の到来を告げていた。
「街道筋を荒らし回っている盗人がいるそうだ。宿場役人が血相を変えて行方を追っているが、巧妙に逃げ回ってなかなか捕まらないという。当初は尾張近辺の宿場を荒らしていたが、次第に東海道を下っているようだ」
長兵の耳元でそれだけ言うと鋭い視線で一瞥してから、貝原佐内はのんびりとした口吻で「よいしょ」と掛け声をかけながら立ち上がった。
「江戸の御府内へ入るようなら拙者たちの出番となるが。さて、どうかな」
そう呟きながら、縁台に置いていた差料を手に取った。
長兵衛は曖昧に「そうですかい」と返答したが、鋭いまなざしで貝原佐内を見上げた。貝原佐内はお菊のことをどれほど知っているのだろうか、との疑問が長兵衛の心にさざ波のような波紋が広がった。
貝原佐内が無駄口を叩くためにわざわざ長兵衛を手招きしたとは思えない。そうでないとしたら、東海道の宿場を荒らしている盗人は平治なのだろう。貝原佐内はお菊と平治のことを知った上で、宿場荒らしのことを長兵衛の耳に入れたのだろう。
平治はお菊への止むに已まれぬ恋心から三年も経った今になって大阪本店を出奔したというのか。だとすれば、平治は商人としての道を自ら断って、お菊と一緒になりたいと恋い焦がれて東海道を下っていることになる。
遅すぎた決断を平治は下した。遅すぎた決断は周囲の者を不幸にするだけだ。それならなぜ江戸から上方へ発つその前夜にお菊を連れて店を出奔しなかったのだろうか。二十歳前後の若い娘を三年も放置すれば、お菊のみならず誰もが三年前とは別の道を歩んでいると考えるのが道理ではないか。
平治は分別を失って、しなくても良い決断をした。恋に狂った若い男は前後の見境がないから用心しろ、と貝原佐内は長兵衛に教えたのだろうか。そうしたことを漠然と考えながら長兵衛は永代橋を渡って行く貝原佐内主従の後姿を見送った。
それから三日後の黄昏時、貝原佐内はいつものように町廻りの帰途に立ち寄ると、縁台に腰を下ろす前に釜場の蔀へ向かって目配せした。長兵衛はなにか剣呑なものを感じつつ、お菊がお茶を運んで中へ入るのを待って、貝原佐内の傍らに立って腰を折った。
「件の宿場荒らしが二日前に保土ヶ谷宿でひと働きしたようだ。予てより手薬煉を挽いていた宿場役人が捕縛に向かったが、まんまと逃げられたという。保土ヶ谷といえば武蔵の国だ。いわば野郎は江戸と目と鼻の先までやって来たってことだ」
そう言うと不意に傍らの長兵衛を見上げて、
「どうやらその野郎はお菊と関わりがある者のようだぜ。つい数年前まで近江屋で手代をしていたという話だ。必ず野郎はお菊を捜して此処へやって来る」
そう言うと、貝原佐内は言葉を切って長兵衛の顔を覗き込んだ。
そして驚愕の色を浮かべる長兵衛の顔を見て、「そうとも」とでも言うかのように、微かに頷いた。
「お菊を守ろうと、初っからお前はそのつもりだったのだろう」
――何でもお見通しだ。八丁堀同心を舐めちゃいけないぜ、と貝原佐内は目顔で言った。
長兵衛が若い女を養女にした、と聞いて貝原佐内は前代未聞の天変地異が起こったと驚いたに違いない。長兵衛は親分と呼ばれた羽振りの良い時分ですら、恋女房以外に女を作ったことはない。その長兵衛がお重に先立たれ寡夫になった途端に老いらくの恋に血迷ったかと疑ったが、そうでもないようだ。と分かると、疑問を放置できないのが八丁堀の性分だ。おそらく長兵衛と暮らし始めた若い女の身元を、手先を使って洗ったのだろう。
町方役人がお菊の身元をさぐるのは何でもないことだ。人別を改めればその線から近江屋に繋がり、近江屋の口からお菊と平治の恋物語に繋がるのは一本道だ。おそらく貝原佐内はお菊の曰く因縁を余すことなく知っている。
「役人に追われ旅から旅への凶状持ちの暮らしがどんなものか、岡っ引だったお前なら分かっているはずだ。お菊を凶状旅の道連れにさせちゃならねえ。野郎は無理に捕縛しなくても、江戸から追い出すだけで良い。あとは宿場役人か八州廻りが始末してくれるさ」
そう呟くと貝原佐内は振り返り片手を口元に添えて「ヨッ、看板娘。拙者の十手術の師匠を助けておくれよ」と大向こうのように道化た声をかけた。そして差料を手にして立ち上がると、釜場で休んでいた手先の二人が店先に出てきた。それを汐に「それでは」と、貝原佐内は見送りに出てきたお菊と長兵衛に軽く頭を下げて、さっと踵を返して永代橋へと向かった。
陽が傾き、風が氷のように冷たくなった。お菊が聞いていなかったか探るようにお菊を覗き込んでから、長兵衛は安堵して二歩ばかり店先へ出た。川面を渡る風を避けるように、貝原佐内主従は背を丸めて橋を渡っていった。長兵衛はその姿が橋の頂に消えるまで、店先に立ったまま見送った。
平治は間違いなくお菊と会いに江戸へ帰って来る。なにがあっても、お菊を守らなければならない。長兵衛は十手を返上して以来、久し振りに総身が奮い立つのを感じた。
その夜、長兵衛は床下から油紙に包んで隠していた棒十手を取り出した。与力や同心の朱房の十手は御上から下される官給品だが、岡っ引や下っ引が持つ十手は自前で調達する決まりだ。その代わり、役目を解かれても返上する必要はない。
棒十手は長兵衛が岡っ引に取り立てられた折に鍛冶屋に頼んで作ったものだ。その一尺五寸の十手にはしみほどの錆も浮いてなかった。行燈の光に鈍い鉄の光を放つ、ズシリと重しのする十手は長兵衛に岡っ引の頃の気迫を甦らせた。
十手術は八丁堀の道場で正式に習った。十手持ちになる前、長吉と名乗っていた当時、長兵衛は川並人足だった。五尺五寸と大柄な体躯に恵まれ、力も強かったことから人足として力量を認められ、人より二年も早く二十歳過ぎには組の小頭になった。それで傲慢になったのか、若気の至りで酒の上で喧嘩をして相手に腕の骨を折る大怪我を負わせて、とどのつまり人足稼業をしくじった。あとはお定まりの転落人生で町方にお縄になって目が覚めた。しかし咎めは受けなければならず、寄場送りになると覚悟を決めた。しかし石川島に送られる寸前に、同心貝原又十郎が岡っ引になるのを条件に放免すると持ち掛けられ、長吉は一も二もなく貝原又十郎の岡っ引となった。
だが岡っ引になったものの、長吉は捕縛術はおろか、十手の扱い方も何も知らなかった。そもそも十手を手にしたのは岡っ引になってからが初めてで、喧嘩は腕に覚えがあるが十手術はズブの素人だった。一日も早く一人前の岡っ引になるため、長吉は早朝から永代橋を渡って八丁堀の道場の朝稽古に通って十手術を一から学んだ。
岡っ引は毎朝八丁堀の同心の家を訪れる決まりだ。それも座敷に上がるのではなく、旦那が髪結いに髷を結ってもらっている縁側の庭先に立って、事件探索の報告や指図を受ける。長吉は古参の岡っ引たちと庭先で指図を受け、その後で少年の貝原佐内からせがまれて十手術の手解きをした。もっとも同心は差料を帯びているから十手術は必要ないものでしかなかったが。
十手持ちになってから五年後、どうにか岡っ引家業に目鼻が付き始めたのを汐に惚れあっていた仲見世で働く小町と評判のお重と所帯を持ち、名を亡父の名の長兵衛に改めた。
三十年近く、長兵衛はこの棒十手を懐に差して町を見廻った。破落戸が振り回す長脇差や匕首を棒十手で払って取り押さえたことは何度もある。平治がどんな男か知らないが、決して後れを取ることがあってはならない。長兵衛は二度三度と上段からの鋭い素振りで空気を裂いた。お菊を守るために、まだ老け込んではいられないのだ。
翌朝から長兵衛は懐に棒十手を忍ばせた。街道筋で盗人を働く者なら懐に匕首を呑んでいると思わなければならない。
長兵衛は一日中、往来から目を離さなかった。
蔀から目を皿のようにして往来を見続けて、夕刻には肩が凝り固まった。
「とうとう落ちてきやがったか」
杮葺の軒先から掬い上げるように空を見上げて、長兵衛は呟いた。道理で冷えるはずだ。
店仕舞をするといっても敷居に雨戸を四枚ほど嵌め込んで紐で縛ればお終いだ。その雨戸も店横の軒下に押し込んでいるのを引き出せば良いだけだ。たったそれだけの簡単なことだが、少しばかり長兵衛には荷が重くなっている。晴れた日にはなんでもないことでも、風の強いときには思わず腰に構えをしてしまう。上背は五尺五寸で並の男より三寸ばかり高く肩幅も広く大柄な体躯に恵まれているが、その体力がモノをいうのも四十の声を聞くまでのことだった。今では足腰がすっかり弱って、饅頭泥棒の小僧を追いかけるのにさえ難儀する。お役目を返上したのは当然のことだったのだと、自分自身で得心がいった。
「お父っつあん、手伝うから無理しないで」
と、奥で拭き掃除をしていたお菊が小走りに出てきた。
お菊から「お父っつあん」と呼ばれると、長兵衛は鼻の奥がツンとする。お菊と暮らし始めた当初はどう呼ばせるか思い悩んだものだが、お菊はあっさりと「お父さん」と呼んでくれた。子宝に恵まれなかった長兵衛は少し照れて「なんでぇ」とぶっきら棒に応じたが、心底から嬉しかった。若い娘から父と呼ばれて誰も悪い気はしない。元岡っ引を父と呼ぶ娘に悪い虫は近寄らないからと、長兵衛はそのままお菊に父と呼ばせることにした。
「なんのこれしき、お菊の手を借りるほどのこともねえ」
とは言ったものの、長兵衛は粉雪の舞う空を見上げた。
若ければなんでもないのだろうが、風がある日に店の横から戸板を引き出して敷居に嵌めるのは一苦労だ。時として両手を広げて持った戸板ごめ大川へ吹き飛ばされそうになる。腰が浮いてよろけないようにするのも一苦労だが、そのことは誰にも知られたくない。いつまでも人々から「仏の長さん」と呼ばれ十手持ちの親分と畏怖されていた頃の自分でいたかった。
両手を広げて戸板に取りつき、長兵衛は腰を落として力を入れた。薄杉板を打ち付けただけの板戸そのものは重いものではない。しかし風を孕むと途端に扱いにくい代物に変わる。必死になって板戸と格闘して表の敷居に三枚の板戸を嵌め込んだ。一息つきながら釜場へ入った。あとは火の始末をして板戸を閉てて帰るだけだ。
釜に炭を消壺へ落としていると表がにわかに騒がしくなった。
首を伸ばして蔀越しに表を見ると、盆を持ったお菊が中へ入ろうとするのを中年男が立ち塞がってからかっていた。長兵衛は釜場から出ると男の背後へ近寄り「詰まらねえことをするな」と肩を掴んだ。振り返ったのは弥助で「怒ることはねえや」と口を尖らした。
長兵衛はお菊に弥助の肩越しに「中へ入れ」と目顔で言って、「儂に何の用だ」と聞いた。かつては同じ屋根の下で暮らしたこともあるが、とうの昔に親子の縁は切れていた。
「相変わらず堅物だな。御用があるから来たンだが」と、拗ねたような目つきをした。
「用とは何だ」と、長兵衛は突き放すような物言いをした。
「東海道の宿場町を片っ端から荒らしまわっていた胡麻の蠅が高輪の大木戸を破って江戸へ入ったということでさ。八丁堀が目の色を変えて追いかけてますぜ」
そう言って、弥助は背伸びして長兵衛の肩越しに奥へ入ったお菊を探すような目をした。
大木戸を破ったというのは力づくで高輪の木戸を壊して押し通ったということではない。東海道の高輪の関所を通らずに脇道から枝道を通って、役人の目をかいくぐって江戸へ入ったということだ。
お菊が釜場へ入ったので諦めたように視線を長兵衛に戻した。
「妙な話だぜ、東海道の胡麻の蠅が江戸の町へ入るなんざ。河童がわざわざ陸へ上がりやがったようなものだぜ」
と言って、弥助は首をひねって腕を組んだ。
弥助の疑問はもっともだ。宿場町を荒らすのは盗人でもあまり上等とはされていない。土地に不慣れな旅人相手に盗みを働くのと、江戸市中で盗むのとでは仕事のやり口がまるで異なる。従って、街道の胡麻の蠅は江戸の町へ入らないのが通り相場だ。長兵衛は胸が早鐘のように騒ぐのを感じた。
「なんでも日本橋は近江屋という上方に本店のある江戸店の手代だったとか。人相書きでは三度笠に手甲脚絆の旅姿、齢は二十と七、上背は五尺二寸で名は平治とかいう野郎でさ」
弥助はそう言って再び廊下の奥へお菊の姿を探すような視線を向けた。
その目つきはいかにも物欲しそうな下卑た眼差しだった。長兵衛の下っ引仲間が弥助を無類の女好きで呆れるほどだという話は本当のようだった。
「そうか。江戸に入ったというからには、誰かが野郎を見たということだな」
と、長兵衛は弥助に探りを入れた。
「日本橋は近江屋の裏通りで見かけた者がいるってことで。毎日この茶店の前を大勢の人が通るから、変な野郎を見かけたら報せてもらいたいってことでさ。なんなら乱暴に縛り上げても構わねえと。そいつはとっくの昔に凶状首になってるから、手加減はいらねえンでさ」
声を潜めてそれだけ言うと、弥助は火除地の入り小口に突っ立って待っていた小柄な下っ引に目配せして引き上げた。
盗人の刑罰は鞭打ちから打首と千差万別だが、盗んだ金子によって明確な線引きがある。盗人のこの世との分かれ道は十両と定められ、それ以上盗めば凶状首といって捕まれば打首とされていた。
長兵衛は弥助たちが土手道を下って、人込みに呑まれて見えなくなるまで後姿を見送った。
長兵衛の暮らす徳右衛門店は門前仲通の八幡橋詰め中島町にすっぽりと抱えられたような北川町飛地にあった。通りに面した表店には煙草や塩などを商う小店が並び、その中ほどに三尺路地が口を開け、中に入ると六尺路地を取り囲むように九尺二間が片側八軒の棟割長屋が建っている。その入り小口の家が長兵衛で、六尺路地を挟んだ斜向かいの三軒目にお米とお菊の住む家があった。
かつては門前仲町の親分として行灯建ての仕舞屋に暮らし、下っ引の居候なども二三人置いていたものだが、お米の誘いもあって思い出の詰まった家に暮らす苦しさから逃れるように引っ越した。どうせ昼間は橋袂の茶店で過ごし庭なぞ眺める暇はないだろうと、庭どころか窓すらもない九尺二間に移ってきた。しかし、こうしてお菊が一緒に暮らすと分かっていたら門前仲町の行灯建ての借家を越さなければ良かったか、と後悔しないでもなかった。しかし、そう思うのも長兵衛の気持ちがそれだけ落ち着いてきた証なのかも知れなかった。
この時代、高直な灯し油を無駄にしてはいけないと、残照の残っているうちに夕餉を済ましたものだ。そのため、秋口から冬場にかけて夕餉時が早くなる。日の長い時期なら五つ半時にお米の家で三人揃って夕餉の膳を囲み、後片付けを女たちに任せて町内の鶴ノ湯で冷え切った身体を温める。そしてやっと人心地がつき、長屋へ帰ると湯冷めする前に夜具に包まって寝てしまうのが長兵衛の暮らしだった。
長兵衛が長屋に戻って湯手を衣桁にかけるのを待っていたかのように、トントンと腰高油障子の桟を叩く者がいた。どうやら八幡橋の袂で長兵衛が湯屋から河岸道を帰ってくるのを待っていたようだ。
「だれでえ」
と、長兵衛は小声で鋭く問い掛けた。
「へい、黒江町は辰巳屋の善蔵で」
やはり小声で表の人影はこたえた。
辰巳屋は近江屋で長年奉公した善蔵が暖簾分けしてもらって深川で始めた呉服屋だった。長兵衛は弥助から東海道の宿場荒らしが江戸へ入ったと聞いた日の夜に辰巳屋へ出向いて、平治を見かけたら秘かに教えるように頼んでいた。
転ばぬ先の杖、という。江戸へ入った宿場荒らしが平治かどうかは分からないが、用心するに越したことはない。長兵衛は「ああ、これはこれは」と言いながら、腰高油障子に支っていた心張棒を外した。
「番頭が門前仲町のお得意様へお邪魔した帰りに、平治を見かけた、と言うものですからお報せに上がりました」
善蔵は腰をかがめ、声をひそめた。
「なに、平治を見かけたと。間違いないンだな。それで、それはいつ何処でだ」
と、長兵衛は身を乗り出した。
「今朝のこと、門前二ノ鳥居と仲見世の間の物陰に隠れて参拝客を見張っていた、と。辰巳屋の反物は店を始めた当初からすべて近江屋から仕入れています。近江屋から運んで来るのが手代たちの仕事で、荷受けの際に手前の番頭と平治は何度も顔を合わせていました。身形はくたびれた旅姿で、顔も頬が削げ日に灼けていましたが、あれは間違いなく平治だ、と」
それだけ言うと、善蔵は後難を恐れるようにそそくさと帰って行った。
広い江戸で早くも深川に姿を現したのは、近江屋の誰かからお菊が深川へ移って行ったと聞き込んだのだろう。この界隈に姿を見せたからには、早晩お菊が長兵衛の養女になったと聞き込むだろう。平治が長兵衛の目の前に姿を現すのに、それほど時間はかからない。
そう思いながら長兵衛は心張棒を支った。
大晦日まで間もないその日は朝から冷えた。
空で木枯らしがうなり、大川を疾風のように吹き渡った。
貝原佐内も夕刻前に姿を見せると、珍しく縁台に腰を下ろさなかった。
「この塩梅だと、今夜は大雪が降りそうだな。何事もなく眠りたいものだぜ」
空を見上げてそう言うと「長兵衛も早仕舞するこった」と付け足した。
貝原佐内は風に急き立てられるように三十基の橋脚で支えられる百二十八間もの長大な橋へと歩みを進めた。橋幅は三間半で、優美な曲線を見せる橋姿の最高は水面から八間半もある。橋の頂で姿が見えなくなった貝原主従からそのまま空を見上げた。
ついに白いものが舞い始めたようだ。「落ちてきやがったか」と思う間もなく、雪は幕を引くように激しくなり、簾となって辺りの景色を白一色に消した。長兵衛は橋袂から道具屋の前を通って急いで店へ入ろうとして、ふと足を止めた。
微かな臭いがした。遠い昔に嗅いだ憶えのある臭いだった。それは江戸へ流れ込んだ浮浪人たちの放つ垢と汗と体臭の入り交ざった異臭として長兵衛の記憶に甦った。
長兵衛はとっさにお菊を表に出してはならないと思った。
「お菊、今日は早仕舞とするぜ。奥座敷を片付けてくれないか」と店先から声をかけた。
「あいよ」と返事をして、お菊は奥座敷の仕舞に取り掛かりに奥へ入った。それを見届けてから、長兵衛は戸板を立てかけた隣の板壁との隙間へ足を進めると、
「出てきな。そこにいるのは分かっているぜ」と強く囁いた。
すると戸板の影が動いて、重なった戸板の陰から身の丈五尺二寸ばかり、三十前といった年恰好の頬の削げた薄汚れた痩せ男が姿を現した。人相書きにあった旅姿ではなく、どこで着替えたか震えるような薄木綿の着流しの上に江戸縞の綿の入った羽織を着ていた。その羽織の破れた襟元から汚れた綿がはみ出ていた。削げた頬や日に灼けた顔を隠すように頬っ被った手拭も物寂しく薄汚れていた。
「お前は近江屋の手代だった平治だな。承知のように八丁堀が目の色をかえてお前の兇状首を追っている。お菊と一目だけでも逢いたい気持ちは分かるが、会わせるわけにはいかねえ」と、声を殺して長兵衛は平治を睨んだ。
「お菊にとってお前は既に死んだ男だ。今更どの面下げて、のこのことお菊の前に出て、何と言うつもりだ。まさかお菊をお前の地獄への兇状旅の道連れにするつもりじゃねえだろうな」
と、長兵衛は情を殺して声を殺した。
この男に情をかけることはできない。心を鬼にしなければと、長兵衛は右手を棒十手の柄にかけて身構え、奥歯を噛み締めた。何があろうとお菊を守らなければならないとの鋭い眼差しで平治を睨んだ。
平治もさっと懐に手を入れて、目を吊り上げて憤怒の色を刷いた。が、それは一瞬のことだった。やがて哀しそうに目元を和ませると懐から手を出して小さく頷いた。そして何も言わずに身を翻すと横殴りに降りしきる雪の中を永代橋へと小走りに向かった。ものの十間と行かないうちに、平治の後姿は雪簾にかき消えた。
それを見届けると、長兵衛は何事もなかったかのように戸板を引き出しに掛かった。
「お父っつあん、誰かいたの。人の声がしたような気がしたけど」
と、お菊が店先に出て声を掛けた。
「いや、誰もいないぜ。おそらく空で唸る木枯らしだろうよ。八丁堀の旦那が帰ったきり、誰もいやしないぜ」
そう言って、雪簾に男が消えたあたりを見詰めた。
待ち続けた男はついに待ち続ける男として、お菊の胸の中に仕舞い込むしかないだろう。
平治には悪いが、お菊をいつまでも人待ち女にしておくわけにはいかない。大川河口に架かる永代橋をお菊の人待ち橋にしてはならない。これからのお菊の長い人生に思いを巡らし、一つ佐平の尻を叩いてみるとするか、と思いながら戸板を両手で抱えあげた。
終
平治は横殴りの簾雪の中に消えたきり、二度と江戸に姿を現さなかった。