第3話
2013年12月18日
年始を目前に、そして聖夜を一週間後に控えた宵の刻。
つまりは真冬の季節。
義明は現在、未成年にあるまじきとあるモノを口に咥え、夜空を仰いでいた。
そのあるまじきモノの先端からは白い煙が漂い、夜空へと還っていく。
外観は煙草とよく似ているが、それにしては一回りも二回りも大きい。
色も病弱乙女の肌と同様の純白ではなく健康的な思春期少女特有の小麦色。
彼が口に含んでいる煙草によく似たそれは葉巻きだ。
日本人にとってあまり馴染みないそれも義明が今、
足をつけている土地では非常に馴染み深い。
目下、彼が足をつけている場所は母国に非ず。
彼は今、日本から海を渡り、世界で最も影響力のある
星条国アメリカの巨大都市ニューヨークにいた。
義明はニューヨークシティの広大な星空を眺めながら
これまでの自分の人生を振り返る。
例え後に残るものが後悔だけだと分かっていても。
彼はこの特殊な葉巻を吸った後、テンションが一時的に高まるのだが、
しばらく経つと陰鬱な気分へと盛り下がる。
そして陰鬱な気分の時は決まって自身の過去を振り返るのだが。
引き裂かれた家族のことを思い出し、自分が身売りに出されたことを思い出して
あの時、もっとこうしていれば、ああしていればと
後悔の念が積もるだけであった。
しかしながら、懺悔の時間もすぐに終わり、
彼はいつも決まって
〝自分が死んでいないから別に良いか〟
このような結論を出すのであった。
この男の価値観はこれに尽きる。
生きるが勝ちで死ぬが負け。
それ以外の事柄については執着を持たない。
彼はそのように造られて、そのように鍛えられた。
義明はまたしても怪しげな葉巻を口に咥え、
それをじっくり味わうように吸うと、
口に含んだ煙を空に向かって思い切り噴き出した。
彼がストリートチルドレンだった頃、
薬物に溺れていた時期があった。
彼がいたそこは生活感に乏しく、趣味というものがない。
趣味などに余力を回す暇があるのなら生き残る術、
あるいは殺人技法の上達に全力を注ぐべき。
彼はそんな場所で三年間もの月日を過ごした。
一秒でも気を抜いたら殺されてしまうその場所で
義明に娯楽という認識があるのならば〝これ〟が当てはまる。
〝これ〟はいいものだ。
一瞬で気分が良くなる。
嫌なことなどすぐに忘れられる。
自分の置かれている状況などどうでも良くなる。
彼はすぐに〝薬〟の虜になった。
故に、今でもこうして定期的に
〝吸わなければ生きていけない身体〟と化した。
彼を憂いたダニエルは年に数回、このように
任務と称し、ソフトドラッグに寛容な国に飛ばしては
彼に〝吸う機会〟を与えてやっていた。
〝任務と称し〟とは言ったものの今回は本当に任務として
義明はこの地に立っている。
彼は今、目の前に聳える五十階を優に超える
とあるビルの出入り口を見据えていた。
そこから見知った人物が出てきたのを視認すると
葉巻の吸い口をカットし、
本体をポケットへ仕舞い、その人物の下へ歩き始めた。
「やぁ、義明君、外は寒かっただろう。
すまなかったね、早くホテルに戻ろう。」
義明の目の前にいる人物は四人。
一人は今、義明に朗らかに語りかけてきた初老の男性、
もう一人は、先の人物の後ろで奥ゆかしく佇む年頃の綺麗な女性、
他二人は黒のスーツを着込んだガタイの良い彼らのボディガードだ。
義明はその初老の人物に促されるまま、
黒のベンツが駐車してある場所へ向かうとボディガードが運転席、
助手席に一人ずつ乗り、後方に義明、初老の男性、
年頃の女性が乗りこんだ。
全員が車に鎮座していることを確認した所でボディガードが車を発進させる。
車は現在、ベンツの後方に鎮座する二人の居住地である
ホテルへ真っ直ぐ向かった。
「選挙の方は順調ですか?」
誰も何も喋らないという気まずい沈黙を破ったのは
大統領候補の箱入り娘、リリィ・ウィルソンだった。
「今の所は……ね。
相手の立候補者もとても良い事を言っているから油断できないよ」
ジェームズは険しい表情でそう口にした。
まるで油断できない理由が他にもあるかのように。
今回の義明の護衛対象は大統領選を目前に控えた候補者の一人である
ジェームズ・ウィルソンとその娘であるリリィだ。
彼は現在、同じ大統領選の候補者であり、戦友でもあるトーマス・ブラウン
と二人のみでこの選挙戦を争っている。
トーマスが掲げる公約は〝アメリカの威光を世界に示す〟であり、
アメリカ合衆国を世界一、権力のある国にしよう、というマニフェストだ。
対してジェームズは〝誰もが平等で平和な優しい世界を目指す〟という
公約を掲げている。
平等な社会を目指すジェームズと世界ナンバー1を目指すトーマスは
真っ向から対峙しており、国民の意志が割れやすい。
つまり、彼らの総意がどちらにあるのか、結果次第で
簡単に判別できる選挙戦となっていた。
現状、下馬評において支持率はジェームズに軍配が上がっているが、
アメリカを世界一の国にする、という思想に賛成する者達の中には過激な
思想を持つ者も多く、ジェームズの寝首を掻こうとする輩がいることは
想像に難くない。
その為、こうして極秘裏に腕の立つ義明が護衛に雇われたのだ。
義明は知る人ぞ知る実力のあるボディガードとして狭い界隈にて名を知らしめていた。
今回のクライアントであるウィルソンはダニエルと古い友人でもあり、
彼から義明の存在を教えてもらっていた為、今回こうして
義明がこうして遠路はるばるアメリカの地に単身でやって来ることになったのだ。
温かい目で義明を見つめるウィリアムとは対照的に
非常に冷めた目で彼を睨みつける御令嬢リリィ。
義明はここへ来て二週間とちょっとになるが未だリリィとは仲良くなれておらず。
この短いとは言えない期間、クライアントを観察してきた義明の見解として。
ウィリアムは常に落ち着いており、何事にも冷静に対処できる温厚篤実な人物。
大統領選で高い支持を得ていてもおかしくはない、というもの。
一方、リリィはというと冷淡冷血、自分と身内だけの狭い世界を持っている。
パーソナルスペースが異様に広く近づき難い。
短期間で心を開くのは無理であり――――――
〝触らぬ神に祟りなし〟が義明の結論だった。
そんな彼女の視線を回避するように義明はとある事柄について思案する。
加木穴工学園体育祭の時に起きた宇都宮暴行未遂の件についてである。
あの時、義明は個人的に重人へ護衛の任を頼んでいた為、
初雪が保健室で襲われかけた時も彼女自身は怪我なくやり過ごせただけだ。
もし頼んでいなかったら……、とそのことを考えるだけでぞっとしてしまう。
まぁ、もしも、の話を持ち出した所で何の益にもならないのだが。
結局、あれ以降、初雪が賊に襲われることはなく。
義明とダニエルの〝また、襲いに来る〟という
予想は大きく外れてしまっていた。
〝早ければ学園祭にでも訪れるだろう〟
そう、睨んでいた二人だったが結局、空振り。
犯人の素姓を掴めるチャンスだっただけに義明的には
非常に面白くない状況が続いている。
体育祭の事件は間違いなく黒幕がいる。
義明もダニエルも証拠はないのだがそう睨んでいる。
そして、この黒幕はまだのうのうと青空の下を闊歩している、と
彼らは踏んでいた。
今回の事件で義明視的に不可解な点を挙げるとすれば二つ。
初雪を襲った加木穴工学園の男子学生達は皆一様に
彼女から振られた経歴を持つ者達で構成されており、
彼らが口を揃えて言うには
今回の件は振られた腹いせにからかってやろうと
思ったのだが、やり過ぎた、と供述している。
ようするに〝本件については私怨によるもので全て
自分の意志〟というのが彼らの弁らしい。
ここで一つ目の疑問が浮かび上がってくるのだが
彼らは何故、全員が冷静ではいられなかったのか、という
ことだ。
一人二人ならまだしも数十人が一斉に正気を失うなど
論外な出来事だ。
二つ目は我を失っている彼らの行動の統一性と
計画性の高さだ。
私怨で動いていた彼らが一個団体として行動したこと。
これはまぁ、事前に彼らの間でやり取りしていれば分からなくは
ないが――――――
初雪が一人になった所を狙うタイミングと個室で
襲撃するという、外へ情報が漏れることを嫌った危機管理能力。
この計画的犯行は正気を失っている彼らにはまず無理な話だ。
必然、この事件は第三者の存在が浮き彫りになってくる。
それが加木穴工学園内部の者の犯行なのか、それとも外部なのか。
いずれにせよ、証拠を残さず初雪を仕留める手口、かつ、もし犯行が
失敗に終わったとしても自分の存在は不明確なままというほぼ
完全犯罪的なやり方は見事としか言いようがない。
正直、現状の情報量の少なさでは義明達に手を打つ術がなかった。
当のホテルへ到着した一行は自室へ真っ直ぐ向かう。
義明を睨みつけるリリィの目は一向に変わらず。
思わず、溜息を洩らす義明。
〝妙に人見知りで世間知らずな子〟
彼女の人間性としてそれだけであれば問題なかったのだが。
エレベーターへ足を踏み入れる途中、義明を睨みつけることに
夢中になるあまり、ドアに顔を挟まれるリリィ。
ドアが思い切り直撃した頬を抑えながら
イタイ、イタイ、と泣き叫ぶリリィと
どうしたらいいものか、と慌てふためく世間一般の父親。
彼女、リリィはこの通り、天然というかドジッ子属性を持つ
お嬢様で少し目を離すとすぐに迷子になるような女の子であった。
正直、日本でも身近にこんな感じのトラブルメーカーがいる義明としては
アメリカまで来て同じような人種の警護を任されるなど御免被りたい所。
そして、懸念材料は他にも――――――
「大丈夫ですかぁああああ!!!
リリィ様―――――――!!!」
スーツに赤いハチマキを巻く、見るからに
暑苦しい男がリリィを心配して駆け寄ってきた。
何を隠そう、この男がリリィ直属の護衛である佐藤太郎。
純正の日本人だった。
「おい、お前ぇええええ!!!」
純朴かつ熱い視線が義明に向いた。
あー、また俺に突っかかって来た、嫌だなー、と
と義明はそれを冷たい目で眺めている。
「リリィ様がこんな状況に陥ったのはお前の
厭らしい視線が気になったからなんだぞ!!!
どう責任を取るつもりなんだよぉおおおおおお!!!」
まるで美人局のやり口を見ているような気分になる義明。
「えーと、これは自作自演か、何かか?」
「ふざけるなよ、お前ぇえええええええ!!!」
義明の返答がまずかったのか、より一層逆上する太郎。
彼は義明の胸倉を掴み、今にも殴りそうな勢いだ。
「こ、こら、や、止めなさい!」
日本語でやり取りしている義明達の話の内容は分からないが、
今の彼らの状況からあまり芳しくない、と判断したジェームズが
止めに入った。
ジェームズは義明から太郎を引き離す。
「お前、優秀なボディガードだかなんだか知らないが、
調子に乗るなよ!」
乱れた服装を整える義明にそのように忠告する太郎。
どうやら人間関係の先行きが暗いのはリリィだけではないらしい。
そんな風にこの先大丈夫か、と考えていた義明の前で
太郎はリリィと同じ過ちを犯す。
彼もまた義明を睨みつけるあまり、エレベーターの自動ドアに
顔を挟まれたのだ。
太郎も痛い、痛い、と地面をのた打ち回っているが、
当然の如く皆がスル―。
子は親に似るというが、
どうやらそれは主従関係の者にも当てはまるらしい。
義明がそんなやるせない現状に溜息を吐くと。
「あと二週間の辛抱だ。それまで頑張ってくれ。」
リリィと太郎が義明へ向ける視線に気づいていたのか。
ウィリアムは彼に温かい声を掛けた。
太郎、リリィとは別々にエレベーターへ乗り込み、
ようやく自室に辿り着いた義明は賊からどのような襲撃を受けても
動けるような状態を保持した。
はぁ、本当にトラブルメーカーは俺の身近に一人いて
定員オーバーなんだがな……、と自分の現状を心の奥底で憂いつつ、
義明は一時の休息に身を投じた。