神話の果ての「ミステリー」
島田荘司の「本格ミステリー論」が発表されてもうかれこれ四半世紀にもなる。当然その後、さまざまな立場やスタンスの人間から幾度となく議論、反論されてきた。なかには、文壇の保守勢力による意図的な無視や内外からのたんなる反発という議論の発展阻害もあったが、再論という形で島田も続編の批評『本格ミステリー宣言Ⅱ ハイブリッド・ヴィーナス論』や綾辻行人との対談本『本格ミステリー館にて』で、おもだった批判には真摯に応えていく。それは本格不遇の時代からようやく脱する機会と判断したためでもあったろうし、当時デビューした本格派の新人作家たちが厳しいバッシングにさらされていたのを援護射撃する必要性からであったに違いない。
そういった一連の騒動を歴史的に正確に、あるいはゴシップのごとくおもしろおかしく記録することが本稿の目的ではないので、論争の中身を丹念に追うことはしないでおく。島田の論は、批判に応答するうちにだんだん整理され、より理解しやすく、より洗練されていった面もあるものの、かたや定義論で当初あったものが、半ば本人の意図とはいえ、方法論・創作論へと変化したせいでわかりにくくなってしまったきらいもある。無用な誤解を生み、論争が建設的にならず混乱を招き平行線をたどったのには、保守的な価値観と衝突したということに起因するだけでなく、モティベーションの微妙な変動がその一因となっているのも間違いない。
重要なのは島田が「本格ミステリー論」で何を主張しているか、その大事な部分を、その革新的なエッセンスをできるかぎり真摯にくみとることであり、あらためてそこから問題点を浮き彫りにすることではないだろうか。議論はすでに尽くされたように見えても、「本格ミステリー論」をめぐる従来の批判的観点には重大な見落しがあったように筆者には思われる。おそらくそれは他の論者のみならず、島田荘司自身にも付きまとっている、いわば盲点のような核心的問題にほかならない。
そこへいたるまでに、前提とされるいくつかの周辺問題をクリアにしておこう。
まず、島田荘司の結論を先取りしていえば、本格ミステリーとは定義的に「幻想的謎と、高度な論理性を有する形式」である。
(中略)探偵小説には「ミステリー」と「推理小説」とがあり、「本格ミステリー」とは、ポー、ドイル、カーなどに見られた原点のスピリットを有するものをさす。
これを形式条件、あるいは数学的定義に似せて語るなら、「幻想的で、魅力ある謎を冒頭付近に有し、さらにこれの解明のための、高度な論理性を有す(形式の)小説」となる。
幻想的な謎と高度な論理性──このふたつの要素こそが、島田が論旨のなかで最も強調したいところであり、本格ミステリーの必須条件と考えていることなのだ。
第一の条件である「幻想的な謎」についてまずは検討してみる。その前段階の論として、「神話の系譜」に「ミステリー」が、「リアリズム小説」の流れのなかに「推理小説」が位置するという、独自の分類法と見解を島田は示している。
「推理小説」は、一方で「ミステリー」とも呼ばれる。「本格推理小説」という言葉が発生したと同様、「本格ミステリー」という表現も最近はしばしば行なわれる。この「ミステリー」とは何であるか。日本で今日行なわれる「推理小説」と完全な同意語であるのか否か。「本格推理小説」と「本格ミステリー」とは、完全に同種の小説形態をさすのか。
かつて大坪砂男と高木彬光の間で交わされたあの「探偵小説と推理小説」談義にも似たラディカルな疑問を投げ掛け、「単なる形式名と変化している可能性」があることも念頭におきながらその解答として持ち出されたのが、物語を空想的な傾向のものと現実的な傾向のものに分ける二元論である。島田によると「この世界に存在するあらゆる小説は、大きく分類して二つの系譜に属している」と考えられる。神話を出発点に脈々と継承されてきた幻想色の強い「今日のSFやホラー小説にいたるファンタジーの流れ」と、日記のような記録文学から近代の自然主義を経て私小説でひとつの完成を見たリアリズムという、対極の方向性や領域があると。
これは、いわゆる大衆文芸(エンターテインメント小説)と純文学という古い対立概念にも類比させられうる、感覚的だがなかなか鋭い分析かもしれない。末尾で「推理小説は文学たり得るか」論争に一歩踏みこんでいるところからも、言外にこの別問題も含みもたせていることは多分にあるだろう。しかし当面おさえておくべき点は、本格ミステリーの条件として設定された「幻想的な謎」に関係する文脈のニュアンスである。
このようなカテゴライゼーションが「きわめて乱暴であることは充分承知している」と断ったうえで、島田はつづけて述べている。
そもそも小説と銘打つ以上、多かれ少なかれ日記のレベルを超えなくてはならないと多くの作家は考えているはずであるし、この両者の厳密な境界線上に多くの分類不能の小説が存在していることも知っている。しかし小説を産み出そうとする時の作家の精神レベルにおいて、その姿勢はこの二種類のどちらかにたいてい属する。あるいは創造の経過につれ、絶えずこの両者を往ったり来たりするかもしれないが、作家の意識は常にこのどちらかの体制にくみしていると考える。
それでは島田の考える「神話の系譜」の物語における特性とは何であろうか。ユングの集団的無意識など深層心理の概念を引き合いに出しつつ、プリミティヴで宗教的な儀礼体験がその原型にあるとして、内実を以下のように語る。
神々から与えられたこれらのストーリーは、当然ながら超日常性、超常識性、そしてある種の幻想味をともなった。特殊な霊感を有する語り部の、“内なる夜”の世界が、神の声を聴き、物語として紡ぎ出すのである。彼の語る夜も、森も、街も、昼光のもとに確たる輪郭を持って存在する真実のそれらとは、大いに距離を保った。
こういった空想的な感性と表現で書かれたのがようするに、ジャンルでいえば幻想譚や怪談や冒険物語といったものであり、それらが近代以降ファンタジー、ホラー、アクション小説へと発展していく。その末裔として、エドガー・アラン・ポーの短編『モルグ街の殺人』は生まれた。
本格ミステリーの「ミステリー」という語はまさに明確に、それこそを示唆し、それこそを意味する。がゆえに、島田荘司にとって「本格ミステリー」とは、まずもって神話の果てに生まれたミステリー小説でしかありえない。リアリズムに根ざした小説は原理的に「ミステリー」ではない、「応用的推理小説」でしかないとまで明快に島田はほとんど断言している。
ミステリー小説がやがて広範に人気を博し、大衆文芸の一種として徐々に市民権を得ると、リアリズム志向の作家たちも「ミステリーに似た小説」を書き始めた。それが島田のいうところの、「幻想味よりも現実性を重んじ、不思議で幻想的な謎よりも、あえて現実的な難事件を冒頭に置き、天才型の探偵より、むしろ平凡な現職の警官を登場させる」犯罪小説の系列、すなわち「応用的」な推理小説である。
以上のように今日推理小説と総称されるもののうちには、幻想小説から新芽を出し、枝分かれしてきたポーの流れをくむ探偵小説と、これの影響で、リアリズムの系譜のうちから産まれ落ちた犯罪推理小説と、ルーツを異にする二つの平行した流れがあるというのが筆者の考えである。
ようは前者の、神話の果てに花咲いた探偵小説を「ミステリー」、いっぽう後者の、リアリズムの潮流に棹さした犯罪小説を「推理小説」と、あらためて概念を整理しなおし、便宜上ジャンル名だけでなく創作において意識も表現も使い分けることを提唱しているのだ。よって社会派もハードボイルドもサスペンスもユーモアミステリーも、すべて「応用的推理小説」にすぎないというのが島田の判断するところである。そして本格ミステリーとは、「応用的推理小説」ではなく、何よりもまず「ミステリー」でなければならない。
まず第一に、「幻想味のある、強烈な魅力を有する謎」を冒頭付近に示すこと。これは「詩美性のある謎」と言い換えてもよい。
本格ミステリーをミステリーたらしめんとするのは、いうまでもなくミステリーつまり謎の存在感いかんにかかっている。当然といえば当然のことだが、しかし島田が繰り返し主張しているのはただ謎があればいいということなのではない、「幻想的な謎」といった形で作中に出現しなければならないのだ。幻想的謎を演出するために仮に定番の「道具だて」や「雰囲気」を利用したとしても、あくまでもそれは結果的なレヴェルにとどまるものであって、作品の中心には魅力的で独創的な謎が存在しなければならない。
いずれにしても吸引力のある「美しい謎」が、初段階で必ず必要である。これは暗黙のうちの了解事項として、すべてのミステリー作家のうちに存在すべきである。作家にこの種の「美」を創造しようとする意欲およびセンスなしでは、その作品が「ミステリー」であることの資格を喪失する。「ミステリー」とは本来そういう意味の語である。このことが現在、見事なくらい完全に忘れ去られている。
島田荘司が「本格ミステリー論」においていちばんに訴えたかったこととは、まさしくこの一点にほかならない。論中、そしてその後の批判者との論争における問答でも、再三にわたって繰り返し発せられるのは「本格ミステリー」にはとかく魅力的で独創的な謎が必須条件なのだという見解である。この条件が満たされなければ、「本格ミステリー」にはとうていなりえないし、また作中なんらかのサスペンスやスリルがあり見事な推理があっても、いくらその小説が傑作に値するような歴史的作品であっても、おしなべてそれらは「応用的」でしかない。たとえ文学的才能や技術が、あるいはエンターテインメント性がいかに高いレヴェルであったとしても、根底に神話の果てのミステリーとしてのセンスと表現力がなければ。
探偵小説の創始者ポーから日本の江戸川乱歩にいたるまで、本格ミステリーの創作にたずさわる者とは総じて優れた幻想小説家でもあったと、そのことをひとつの証左として島田は指摘する。むろん幻想小説的センスと表現力だけでは「本格」とはなりえずそれはただの「ミステリー」でしかないのだが、第二条件の「高度な論理性」という要素がそこに加わることで「本格ミステリー」としての水準に達せられる。この「高度な論理性」については後述するとして、第一条件として挙げられた「幻想的な謎」こそが島田の論にとって最重要なキーであることは疑いえない。とにかく何度もしつこく頻出するのがこの「幻想的な謎」なるワードなのだ。
先述したとおり島田は、幻想的謎を演出するにはパターン的な「道具だて」や「雰囲気」のみでは不充分であると説明していた。それだけにとどまらず議論の先では、独創的で魅力的な謎さえあるなら、殺人などの犯罪もミステリー小説の代名詞である「結末の意外性」も、なんと「トリック」ですら不要であるとまでいいきるのだ。ここにいたって島田の議論はいよいよ特異性を増す。他の作家を戸惑わせながらも、想像力の幅と可能性を押し広げていく、そのエネルギー源となりえている理由はここにこそある。
しかし、それほどまでに強調される「本格ミステリー」の「謎」とはいったい何なのだろうか。