有名無実化した「本格」
もはや半ば伝説化しているほどの傑作であるデビュー作『占星術殺人事件』とつづく『斜め屋敷の犯罪』などで最初期から実作においてもインパクトを与え、また綾辻行人、歌野晶午、法月綸太郎、我孫子武丸をはじめとするミステリーシーンにいまや欠かせない存在になる才能を世に放つのに一役買ったことでも有名な、いまだ創作にも新人発掘にも意欲的な作家島田荘司が、さらに後進に決定的な影響を与えることになる『本格ミステリー宣言』という挑発的な批評書を刊行したのは、時代の大きな変わり目であった1989年のことだ。
島田荘司の「本格ミステリー論」の核心的な部分への検討に入る前に、それが書かれた経緯、あるいは書かれなければならなかった当時の背景を、ある程度説明しておく必要がある。新本格ムーヴメントが勃興したその前後の事情をまったく知らない若い読者もいるだろうし、のちの議論にも関係する重要な問題をも含むので、以下に簡単にだがその当時の状況が多少なりとも把握できるよう、証言をいくつか拾ってみる。
まず近年、衰退傾向にあった「本格」ものが、欧米ではいまも変わらず希少なままだが、日本の推理文壇においてのみ復興の兆しがあると、島田が見たところから議論は始まる。
これは「本格」の文字だけはあるのに、これにあたる小説が先日まで見あたらなかったからである。日本の推理小説の現状に対する日本のマニアのフラストレーションは、まさしく「本格」の文字が存在するため、論理的根拠のあるものとなっている。
島田は前提に東洋、なかでも日本に独自の、漢字という表意文字からなる言霊文化があるとして、それを主な理由に本格の渇望と復活を語る。これをより広く一般的に解釈するなら、一度でも傑作に値する「本格」作品を知ってしまったがゆえに「本格」と銘打つ探偵小説をさがすのだが数あれど実際はなかなか見つからない、ということに読者の不満が長らくある──そんな現状を、ようするにわかりやすく説明しているのだ。
先に挙げたような当事者の作家たちをはじめ、新本格ムーヴメントを担った人物や関係者、そしてその機運を支持したファンが当時を振り返るとき、そこで再三にわたって一様に語られるのは、とにかく本格ものが枯渇していたという感慨である。毎月のように「本格」と銘打った新刊が出、海外ミステリーも早くに豊富に翻訳され、古典と称される名作も隠れた傑作も容易に手に入る──書店に行けば、あるいはネット上ですぐにでも本格もの関連の作品や話題を大量に目にすることができる現在のそんな状況を、あたりまえのものとしている我々からすればいまいち実感しづらいが、本格復興以前の80年代末頃までは、以降の本格の活況と安定はまったく予想もつかないことだった。あきらめていた、といってもいい。
本格を謳った新作はいちおう出るものの期待したようなものではなく、江戸川乱歩や横溝正史など、定期的に映像化されるような有名作家の有名作品なら店頭に置かれることはあるが、それ以外は名作ですら軒並み廃刊、国産もの・海外もの問わず本格ものは古本屋や図書館を何軒も回ったり、ファンの間やサークル内で貸し借りし合うしかない。本格ものを愛好する読者にはじつにたいへん厳しい時代だった。
また、作家側の事情もなかなか複雑で、きわめて厳しいものがあったようだ。たとえば前出の、戦後の代表的本格ミステリー作家である高木彬光について、島田荘司がその軌跡を評している文章がある。
子供が喜びそうな「探偵小説」という看板を降ろし、全員が急いで「推理小説」と文字を書き替え、タイトルは揃っていかめしく漢語ふうに、また書き手は社会派たるおとなの視線を持たないと、出版さえも危ぶまれる事態になった。以降高木も、こういう世の風潮を考慮して、砂糖汚職を描いた『人蟻』、詐欺事件を描いた『白昼の死角』、『破戒裁判』、『誘拐』、『検事霧島三郎』、『帝国の死角』、『裂けた視覚』、と順次社会派作品を発表するようになっていく。しかし多くの探偵小説作家は、高木のように巧みな転身は果たせず、時代に拒絶されるかたちで退場していった。
しかし高木は、社会派作品で読者を維持する一方、『成吉思汗の秘密』、『死を開く扉』、などといった本格作品も発表し、本格探偵小説の火も絶やすまいと奮闘する。
これより時代はくだるが、島田荘司らによって本格復興がおこなわれた時期に流行していた推理小説といえば、西村京太郎や赤川次郎を代表とするトラヴェルミステリーやユーモアミステリーだった。本格テイストの感じさせる作品もかろうじて少しはあったものの、大多数がシリーズ化した、おなじみの登場人物がいろんな場所へ行っては事件と遭遇するというサスペンスがメインで、本格どころか「推理」の要素さえあるのかどうかあやしい内容ばかりだった。詳しくは後述するが、出版をめぐる市場状況が激変し条件が著しく異なるにもかかわらず、いま現在のミステリーの流行傾向とも奇妙に一致していることに注意してほしい。おそらく消費者/ユーザーの多くが求めるものとは、過去も現在も変わらず「ライト」で「ポップ」なものなのだ。
探偵小説という翻訳語なる名称が日本に誕生したいきさつから、「本格」と「変格」という区別と原点回帰的な運動、「推理小説」という新たな概念の提唱および文学論争、漢字制限による「探偵」小説から「推理」小説へと代用語のなし崩し的な普及にいたるまで、歴史的変遷を俯瞰し解説するなかで島田は、過去の出版業界の悪習もまた混乱のおおもとになっていることを指摘する。
さてこの「探偵小説」であるが、一般に普及し、人気が増すにつれて、怪奇・幻想小説、空想科学小説、冒険・秘境小説などさまざまなエンターテインメント小説も、この新鮮な名称のただし書きを付して刊行されるようになってきた。ただし書きに「探偵小説」とあれば部数がいくらか伸びるという現象があるなら、これを抑制することはいつの時代もむずかしい。
つづけて、推理小説のおかれた現状況を説明する段でもこう綴る。
さてこうした「推理小説」であるが、歴史は繰り返すのたとえ通り、この名称が一般に流布し、新鮮な魅力を発散するにつれ、以前の「探偵小説」と同様に、非常に多くの小説が、この名のもとに同棲するようになった。
SFはひとりだちしていたが、冒険小説、ハードボイルド、風俗小説、社会派犯罪小説などのおびただしい小説群が、「推理小説」の名のもとに、大挙して出版されるようになった。そこで、ポーの流れをくむ思索と論理性、さらに言えば詩美性を内に抱く正統的な推理小説を、これらと分離、区別する必要が生じてきた。この目的のために、再び「本格」の文字が必要となったのである。
ここで議論されているのは、外側からのファクターにすぎないように思われる。読者が余暇を気軽に楽しむ目的でアトラクションやゲームを体験するようにエンターテインメントを嗜好する、それに合わせて探偵小説をさほど信奉してはいない書き手までもがプロ作家になるための手っ取り早い足掛かりとして、もしくは本を売るための商業的な手段として、ミステリーの名で簡便的にパッケージングし妥協しているといいたいのだ。そのせいで、似た物(ないしは偽物)と本物を見分けるために区別する必要性に駆られたのではないかと。
しかし事態はもう少し複雑化し錯綜している。本格ミステリー/推理小説をめぐるジャンル的アイデンティティの問題は、外部からだけでなく内側からも生じてきているからだ。ミステリー/推理小説を愛好しているはずのマニア的人間でさえも、探偵小説の定義や本格の意味をとらえそこね、曖昧に、あやふやになってしまうという事態にまで。
これらのことを端的に現している一例を挙げておこう。まさにこの本格復興時ただなかにあった1993年に、全作品アマチュアの応募短編で編まれるという画期的なアンソロジー『本格推理』が刊行された。その端書きと後書きのなかで、本格の大ヴェテランであり選者である鮎川哲也は思わず疑問の声を漏らしている。
本格短篇を募ったはずなのに、届けられた原稿はサスペンスであったり刑事物であったり、怪奇小説に幻想小説やSFであったりする。特に多いのは通俗ミステリーで、本格物は数が少なかった。粗忽屋はどこにもいるから、二篇や三篇ぐらいの非本格物が混っていたとてべつに驚くこともない。だが多くの作品が本格物でなかったということはどういうわけなのだろう?
「本格一筋」といわれ『黒いトランク』や『りら荘事件』など一貫して本格推理小説を書きつづけてきた鮎川哲也は、埋もれた古い過去の佳作や無名の素人作品をいくつも発掘し選出して、国産ミステリーの発展に尽力したことでも知られている。新本格勃興期には島田荘司とともに、古今の本格作品を集めた全5巻(最終巻はムーヴメントの主力作家たちを中心とした全編書き下ろし)からなる『ミステリーの愉しみ』という記念碑的アンソロジーも編んでいる。その鮎川が皮肉まじりに記すのは次のような、首をかしげてしまうような事態である。
用があって某社の新書版を机にのせた。何気なく巻末の出版リストを眺めると、推理小説の三分の一ほどに「本格」の肩書がつけられていることに気づいた。本格サスペンス、本格ハードボイルド、本格旅情ミステリーといった按配であった。どうやらこの刊行物案内をつくった人は、ミステリーにおける本格の意味が全く解っていないらしいのである。たぶんこの人の頭のなかの本格とは、作家が本腰をいれて執筆した「力作」を指しているもののようだった。わたしは再び出版物案内に目をおとす。本格伝奇、本格ユーモア、それに本格不倫といったものまで載っていた。
プロとして商売上、書籍の売り上げや一般読者の反応をビジネスライクに計算している編集者ですら、こういった曖昧で、でたらめな理解しかもたないのだから、書き手の意識がそれとほとんど同じようなものであったとしても不思議はない。「本格」と銘打って公募までしてさえ、集まった大半がただの、広義の意味でのミステリーだったところからも、一般的な理解の範疇では本格のなんたるかまでとうてい考えがおよばないだろうこともまた、容易に想像がつく。
ひるがえって現在はどうか。出版バブルであった80年代から90年代までと比し、ウェブ小説の拡散的躍進と、それとともに同時進行で出版不況と変革が訪れた2000年代になると、本格志向の作家たちの広範な活躍もあって少なくとも日本の推理文壇内においては──いまだに定義は曖昧なままながらも──「本格」の誤用や安易な濫用はあらためられた。反面もはや「本格」が、たんに人気のワードではなくなったという事実を示すだけなのかもしれないが。
とはいえやはり歴史は繰り返すのとおり、探偵小説“っぽい”雰囲気やサスペンス“系”の演出は相変わらず人気のようで、本格ミステリー/推理小説の重大要素を恋愛やホラーやファンタジーで薄めながら、既存のパターンや技術を利用して次々とそれらしい物語は紡がれていく。とくに最近はシリーズ・キャラクター先行型の、ご当地ミステリーやお仕事ミステリーといった「ライト」で「ポップ」なパッケージで売られるのが、もっぱら主流になっているらしい。
四半世紀以上も前に島田荘司が直面した本格不毛の時代とは違い、本格復興によるその後の発展と広がりは衰退の道をとりあえずは回避し、断絶なく継続しているところを見ると現在はいちおう本格豊穣の時代といえよう。ただし正反対の状況ながら、依然としてミステリー/推理小説の名を騙る作家・作品が絶えない状況はつづいている。ただ本格という冠をとっただけでは問題は解決されない。いまも常に、本格ミステリーとは何か、本格推理小説とは何かが問われているのだ。
それでは、島田荘司の見解はどうなのだろうか。当時発表するやすぐさま賛否両論のセンセーションを巻き起こし、ほかの作家にいまなおインスピレーションを与えつづける島田の「本格ミステリー論」に、次回は深く考察を加える。