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探偵小説と推理小説

 大坪砂男は高木彬光からの反論へ応えるかたちで、こう主張している。


 君の作品を読んで感じるものは、その挑戦的作風にも拘らず、本格探偵小説という原型に対する挑戦ではなくて、その基盤の上に立って既成トリックの組合せや解釈に新味を創作して行く改良派ではないのでしょうか。


 おそらくこの指摘は、大坪砂男が最初に書いた「推理小説とは」の中の、以下の探偵小説の比喩に対応する。


(中略)ポーは彼の大好きな軽気球のように精神を翔ばして探偵小説を創作し、ドイルあたりで探偵グラウンド形成と相成ると、選手も花々しく集った。

 この競技場が『探偵』と名附けられたことは重大な意味合いを含んでいて、この文字が人類に与える印象は、探偵であるから犯罪の場で働き、犯罪では何と云っても殺人事件。事件は犯人逮捕で終了だから犯人捜しは最重要で、簡単につかまったのでは面白くないから犯人は狡猾かつ巧妙なトリックを使い、でも犯人が上らなくては義理人情にそむくから、最後に名探偵が大演説をして見事なフィナーレ。拍手! と、これが本格探偵ものと称せられるのは至極合理的ではないか。読物の中でも相当な椅子を占め、読者百万を獲得する必然性に恵まれているのだから、選手たるもの大いに安心して努力すべきである。


 多少皮肉っている向きもあるものの、ようするに高木彬光のことを探偵小説というジャンルにおけるその優秀な選手のひとりと、大坪砂男はとらえているのだ。「挑戦的作風」とは、高木の最初期の長編『呪縛の家』や短編『妖婦の宿』などの、作中にいわゆる「読者への挑戦」が挿入されているようなゲーム的形式性のことを指すと思われる。

 その反面、推理小説については、そういった探偵小説というものとは違う新しい文学であると、「革新思想」「天動説を地動説にまで合理化したコペルニクス的旋回」とまで表現して再度、強調している。

 一方の高木彬光はどうであろうか。「推理小説とは、ある一つの事件に対する、解釈の論理と心理とを、主題にした小説である」と簡潔にことわったうえで、そこから敷衍した自身の見解をつづけて明記する。


 これが私の定義であり、私はこの意味に於て、推理小説と本格探偵小説とは、共通の地盤を持ちながらも、全然別個の存在意義を主張出来ると思うのだ。


 その具体例として、ポーの短編『盗まれた手紙』をはじめ、自作や志賀直哉などの作品名を挙げながら、共通点と相違点を詳述している。後々、本格ものが不遇と危機を迎える時代を、さまざまな作風の変化で乗り越えることになる高木彬光というプロ作家が、すでにこの時点でこういった独自の洞察を得ていたことは興味深い。


 推理小説、それもまた本格探偵小説と同じく、茨の道であると私は信ずる。本格探偵小説が謎とトリックに中心を置き、奇怪な事件を合理的に解き切ろうとする苦難の道ならば、推理小説は、たとえ平凡な事件であっても、それに異常な解釈を見出そうとする、心理と論理の争闘に違いないのだから。

 しかしその何れに於ても、その根底に横たわる物は優れた論理性、この強固な基盤の上に立ってこそ、初めて将来の輝かしい成果を期待出来るのではなかろうか。


 そう高木彬光は語り、のちに『成吉思汗の秘密』といった傑作へと結実するにつながるだろう推理小説に関してのメソッドを、最後に明言し結論づけている。

 議論のスタート地点として前提に、推理小説が探偵小説に含まれ、そこから派生したものであり、そして探偵小説から抽出した「推理」というエッセンスを最大限に拡大解釈した、あるいは先鋭化させたものである──という認識はおおむね、高木、大坪ともに共有しているように思われる。

 これは立場も時代も異にする我々にも、わりあい想像しやすく、同意もできる話ではないだろうか。端的にいって探偵小説は、ある程度定まった型に則って成立する。これが「推理」小説ならば、そこからできるかぎり自由に逸脱もしうるし、それゆえ約束事に拘束されず、さまざまな世界観や設定の、さまざまなストーリーを展開することも可能となる。最小限かつ最大公約数である「推理」という要素さえあれば、推理小説たりうるのだから。

 この「推理」という部分を「ミステリー」に置き換えれば、昨今のミステリードラマの隆盛にもあてはまることに気づく。何らかのミステリー=謎さえあれば、ある程度パターン的であっても、あるいはどんなパターンであっても、ミステリーを主題とした物語はつくることができる。そのため、持続的に量産することもまた可能となり、現に多くの小説やドラマ、マンガ、映画が「ミステリー」と謳いメディアをにぎわせている。

 高木彬光の見解は、よって妥当性が充分あるといえる。くわえてさらに重要なのが、本格ミステリー/推理小説の本質的なものとは何か──といったクリティカルな、いま現在もある微妙な問題ともけっして無関係ではない核心部分を、鋭く突いていることだろう。その意味では先見の明もたしかにあったといえる。

 しかしそれでも、大坪砂男は高木とは異なる見解を示すのだ。探偵小説から「推理」の要素だけを抽出し主題化したものを推理小説と呼べるという前提は見解を同じくしながら、間口は広くとりつつも実際に達成するには本格探偵小説同様の狭き門になるだろうと予見した高木論に比し、大坪は対極的ともいえる理論を述べる。


 僕は又も、推理という字面にこだわるようですが、探偵小説で最後に探偵が推理の結果を喋る(、、、、、、、)時に、ああも舞台的効果を上げているのに実際に推理する(、、、、、、、)時には申し合わせたように沈思黙考するようです。そうです。推理は静かに考えられなければならないと思います。

 静謐なる思惟──それは高く澄んだ秋の空や、清く湛えた冬の水のように、人間精神の郷愁なのですが、君は、従来の探偵小説からそうしたものを感じるでしょうか。僕には、むしろ狐の化ける宵の春や、蜥蜴の息づく繁茂の夏を想わせるのですが。

 もしも、感覚を刺戟しながら論理を遊戯する探偵小説が書き改められるとするならば、そこに現れる推理小説は、知性を冴えかえらせることによって情緒を昇華させるような新形態をとるのではありますまいか。


 大坪砂男のこの見解は理論というよりも、理想というべきものかもしれない。だとしても、高木彬光との意見の微妙な相違は、看過できない核心的問題をやはり孕んでいるのではないか。

 高木の主張が推理小説には探偵小説と同じ「論理性」という意味での「推理」の要素を必要不可欠としたところで大坪は、推理小説を探偵小説とは本質的にはまったくべつのもの、似て非なるものになると想定するのだ。

 繰り返すが、論理性を共通の基軸として、謎やトリックを合理的に解こうとする物語を探偵小説と、何か常識的な事柄に“必ずしも合理的でなくとも”心理的ないしは論理的にべつの可能性や新しい解釈を組み立てるならば推理小説になると、高木彬光は整理した。しかしその理解に対して大坪砂男は、探偵小説における「推理」とは本物の「推理」ではない、推理小説こそが真に文学的な「推理」を表現できる、極端にいってしまえば、そういわんばかりなのである。

 従来の探偵小説に否定的、新興の推理小説に過度に夢想的ともいえる大坪の理想論は、前提条件やスタート地点を高木と同じくしているかのように見えながら、着地点として推理小説を探偵小説の変貌、新たなる変革と極論で位置づけた。結果としてそれは、別ジャンルの文学として定義されるだろうと。

 この見解の対立、平行線を招いたのには、大坪砂男の文学観に一因がある。「小説と読物の差」として「精神が現在鎮座している常識の場から、いかに上下運動する」のが小説、「常識の場を平面的に運動して、その埒外に出ることをしない」のが読物と語る大坪は、むろん文学を小説に、探偵小説を読物として念頭におき論じている。さらにいえば、前者を上位に、後者を下位に価値判断しているふしすらある。「読物は常に常識のグラウンドで競技する」とも、「腕力・脚力衆に勝らなければ名を成し難いことスポーツ選手と同様の苦役」とまでいっているのだから、前出の高木彬光への評が、探偵小説を文学と見做していないスタンスでの発言だったことがうかがえる。

「純文畑からは、ともすれば通俗大衆的と軽蔑され易かった探偵小説界も、(中略)結局彼等にさえ指標する新文学の創造となって行く、とこんな夢を考えても見るのですが」と、ひきつづき綴る大坪砂男の胸中には、いったいどんな文学観が描かれていたのか。そこには自分の理想とし追求する文学、そして“そのひとつである探偵小説”と実際の、現実に出版され売れている探偵小説との、とうてい受け入れられない、埋めがたい断絶に引き裂かれるような想いやジレンマがあったのではないだろうか。

 それより先行して、そもそも「推理」という名称を初めてジャンル分けにもちいた甲賀三郎は、探偵小説を「本格」と「変格」とに分類することを提唱し、戦後「推理小説」という呼称を定着させた木々高太郎は、探偵小説が純文学たるかを問う論争を起こしている。だがその後、『点と線』『砂の器』に代表される松本清張の登場と、それ以降の社会派推理小説の確立により、大坪砂男が提起したような「小説と読物の差」は徹底して議論されないまま、不問に付され忘れ去られてしまう。

 それだけではない。時代の流れは探偵小説との微妙な差異の問題をなし崩し的に、無効にしてしまうかたちで、推理小説という名称と概念を曖昧なままで定着させ、そうしてミステリー小説、サスペンス、あるいは○○ミステリー等々、さまざまな呼び名が好き勝手に主張されながら混在する、現在の状況につながることにもなった。

 ところが昭和から平成へと時代が大きな変遷を迎えつつあったとき、新本格ブームを牽引した島田荘司が「本格ミステリー論」で、再び定義や本質をめぐる問題を喚起し、世間に賛否両論を巻き起こすことになる。

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