定義をめぐる混乱
いまだ本格ミステリー/推理小説の定義をめぐって書く側にも読む側にも、曖昧な認識のせいか、その核心を問われる場面では混乱がつづいている。
たとえば「本格」抜きの、ミステリー/推理小説でもいい。その定義を問われて、迷いなくはっきりと答えられる実作者や読者が、はたしてどれほどいるだろうか。
Wikipediaなどのネット情報や数多くあるハウツー本に目を通して納得し、あるいはそれらを適度に模倣して説明してみるのも、選択肢としては間違いではない。教養的、一般的な知識としてはそれで充分だろう。ただ、それで「わかった」気になるだけではどこか満足できない者──作者、読者のべつなく──、すっきりとは納得できない人間も少なからずいるはずだ。少なくとも自分はそのひとりである。
ミステリー/推理小説の定義がわからなくともそれを書くことは別段できるし、読んで楽しむこともできる。むしろそれについてへたに難しく考えることは、形式に縛られ「自由」な創作を阻害することにもなりうるし、どこまでいっても各者各様で千差万別、作者と読者の数だけ考え方があるのだから、結局、深く考えるだけ無駄ではないか──。
あるいは上記のような意味でも、定義うんぬんを論議するより、具体的に名作を列挙していくほうが一目瞭然で話が早い。そういった声がいまにも聞こえてきそうだ。大多数がそういった見解かもしれない。
そんな楽観的にすぎる考えの人間に対しては、とくべつ反論することはない。ただし自分の知るところでは、その手の素朴で浅薄な主義主張の持ち主は本格ミステリー/推理小説を書こうとして見事に失敗し、他者の駄作凡作を傑作かのように勘違いし評価してしまう、そういうことが往々にしてあるとだけ指摘しておく。
筆者がいま問題にしたいのはそんなことのためではない。本格ミステリー/推理小説の定義について徹底して考えることで、その核心を掴み、議論の発展へ繋げていく、そしてこれから今日の傑作、新たな傑作を産む──それがためである。
これから、できるかぎり多くの作者ができるかぎり多く本格ミステリー/推理小説を書き、それをできるかぎり多くの読者が正当に評価する──そんな、これからの傑作を産むためだ。
かつて高木彬光は、「推理小説私見──大坪砂男氏にこたえて」という探偵作家クラブの会報に寄せた文章で、こう書いている。
推理小説という名称には、本当のことをいうと、私も面食らってしまった一人である。
探偵小説というならば、これは今まで多年研究して来た経験から、およその見当がつかないこともない。本格と変格との分類も、どうやら分りそうな気もするのだが、推理小説となってくると、ちょっと首を捻らずにはおられない。まして今日の通念に従うと、これは探偵小説より範囲が広く、アルセーヌ・ルパンもフィロヴンスも、フランケンシュタインもソロモンの洞窟も、すべてこれ推理小説である。ということになるのだから。
江戸川乱歩の登場により、大正期に日本において本格的な創作がスタートし、第二次世界大戦による深刻な中断を挟んだのち戦後ようやく横溝正史の『本陣殺人事件』を嚆矢として確立されはじめた「探偵小説」だったが、すでに根づいていたそのジャンル名が当時あった漢字制限のため「偵」の字が公的に使用できなくなるという事態になり、変更をよぎなくされることになった。
それであらたに「推理小説」という呼称が提唱されたわけだが、その新名称をめぐって文壇内や在野の探偵小説愛好家たちに広く困惑や混乱が引き起こされた。
先の高木彬光の嘆願は、その状況と、それをむしろ肯定的に捉えた大坪砂男の見識に対して述べられたものである。
また高木彬光はくわえて「何の為に屋上屋を架して、こんな名称を持って来なければならないのか、漢字制限以外には、さっぱり私には訳が分らない」と率直な疑問も漏らしている。
大坪砂男は短編『天狗』で、高木彬光は長編『刺青殺人事件』で、ともに昭和二十三年にデビューし早くから文壇で注目されていた。
『天狗』は江戸川乱歩にも絶賛されたものだし、『刺青殺人事件』は乱歩の推薦を得て公表された作品である。大坪砂男も高木彬光もともに、日本の本格探偵小説を担っていく逸材として、戦後すぐ江戸川乱歩に高評価されていた作家だった。
そればかりではない。長く時代を経た現在でも、『天狗』、『刺青殺人事件』の両作品ともが、日本ミステリー史に残る傑作として依然として高く評価されつづけている。乱歩の見識眼も、作品の真価も、正しく歴史的に証明されたものであることは間違いない。
そのたしかな実力をもつ鋭敏な作家ふたりが、「推理小説」という名称とその概念をめぐって、認識と意見をたがい戸惑っているのだ。
ミステリー小説や推理小説といった呼称が対立せず、疑問を感じないままにすっかり共存し定着している現在の状況下の我々からすると、このことはどうも理解しがたいし一見奇妙な議論に思える。なぜ「推理」小説では駄目なのだろうか。むしろ「探偵」小説よりは「推理」小説というジャンル名のほうが、我々現代人には自然でしっくりくる。
しかし当時の彼らの問題意識には、無関係として無視することはできない真剣な響きがあるようにも感じる。けっして一時代の当事者たちの間だけの、一過性の出来事だとは片付けられない、何か重大な意味合いが潜在している。
文脈からして当時の、大勢の正直な感慨や意見を代弁しているだろうことはそのやりとりの感触からうかがえるし、それどころか、問題はどこか、現在の本格ミステリー/推理小説の本質をめぐる曖昧性と混乱に、肝腎の部分で地続きに繋がってはいないか。
では、探偵小説と推理小説の違いとはいったい何なのか。本格ミステリー/推理小説の核心を問うために、まずその微妙な相違と変遷により生じた偏差を頼りにじっくり考えてみたい。