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ハロー、ワンダー。  作者: 小木一寸
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第1節 -空へ-

 退職届を提出し、引継ぎや諸々の処理を済ませ、有休を消化し始めて3日。

「はぁ~~……」

 勢いで行動した後悔と、将来への漠然とした、しかし莫大な不安が押し寄せはじめ、俺は今日何度目かわからない溜息をついた。

 前の仕事に不満がなかったわけではない。むしろ不満しかなかったと言っていいレベルだ。もちろん自分に非がないと言い張るつもりはないが、それでも会社の体制だとか周囲との関係だとかひっくるめた現状にうんざりしていたことが、退職理由の一端(大部分)を担っていることは間違いない。

 しかしだからって、勢いで退職届を出すか。

 いくら前日に上司にネチネチと責められ、やけ酒をして、勢いで徹夜で退職届を書いちゃったからって、なぜ翌日の俺はそこで思いとどまらなかったのだ。初志貫徹は大事だけども、酔っ払いの初志なんて笑止千万だ。完徹してたってもう少しまともな思考をしろあの時の俺。

 ……いや、もう過ぎてしまったことをうだうだ言うのはやめよう。無意味だし無様だ。俺は21歳、まだ若いんだ。招来に目を向けて生きよう。勢いだって時には大事なのだ。

 さしあたっては次の仕事を探すことが第一か。退職届を出した日にここぞとばかりに会社のパソコンで転職サイトに登録しまくったから、求人広告を探すには困らない。

「スマホ一つありゃ退職届も書けるし仕事も探せるし、便利な世の中にったもんだよなぁ……」

 ベッドに寝そべりながらスマホをいじる。初心者歓迎やら土日休みやら、前途多難お先真っ暗の就活者には魅力的な言葉がズラリと並んでいるが、前の会社は雇用条件だけ見れば優良だったせいで、逆にこういった人を惹きつけるような広告が信用できなくなってしまった。

 どうやら俺は、退職した時に仕事だけでなく人を信じる心すら失ってしまったらしい。

 自己否定に浸りながら求人広告の群れに目を滑らせていると、ふと、一つの広告が目に留まった。

 会社名も所在地も業務内容も一切書かれておらず、しっかりと職を探している人が見たら求人に全く関係ないただのネット広告だと思うであろう広告。しかし求人広告の中に全く同じ形式で紛れ込んでいるし、これも求人広告なのだろうか。

 そこには、ただ一言、「救世主急募」とだけ書かれていた。

「……は、救世主て」

 ごろりと寝返りを打ち、仰向けに寝そべる。求人広告だとしたら誇大広告もいいところだし、ゲーム広告だとしたら情報が少なすぎる。もう少しましな売り文句を考えられなかったのか。

 自分も大していいキャッチコピーを考えられるわけでもないのに馬鹿にしながらその広告を眺める。本当にこれ以外に情報は書かれていないようだ。

 これをクリックする人なんているのだろうか。ほとんどいないだろう。いるとすれば……今の俺みたいに、「可哀想だから試しに見てやろう」と、謎の上から目線で意味不明なお節介をして悦に入ろうという人間だけだ。

 ともあれ、俺はその広告を開いた。まともな求人だったら内容を見ればいいし、ゲームの広告だったら始めてみてもいいし、スパムだったら無視すればいい。ウイルスが入ったらもう諦めてスマホ買い換えればいいかと、面白半分軽い気持ちでその広告をタップした。

 途端。

 視界いっぱいに青空が広がった。

「ッ!?」

 そこにあったはずの天井も壁も消え失せ、燦々と照りつける太陽が薄闇に慣れた網膜を焦がす。初夏にしては冷たすぎる風が全身を包む。

 そして。

 支えを失った体が、下へ向かい加速し始めた。

「う、うおおお、おおおおおおおおおおおおおおおお!?」

 口から零れ出る絶叫も、轟々と風を切る音に掻き消される。そして次の瞬間、視界が真っ白に染まり、全身を冷気が包み込んだ。

「うわああああああ!?」

 続けざまに起こる異常事態に、もはや叫ぶしかできない。何が起きているのか。自分が落下していることくらいしか理解できていない。いやそもそもなんで落下しているんだ。

 冷気と白い視界は数秒で収まり、そのさらに数秒後にその白い冷気の正体が見えた。

 飛行機には乗ったことがないのでこんなに近くで見るのは初めてだったが、それは間違いなく雲だった。俺は雲より高い位置に突如転移し、そして落下して雲を突っ切ったのだ。

 雲の冷気を突っ切ったからか、それとも訳が分からないことが起こりすぎて思考を諦めただけか、一周回って冷静になってきた。ゆっくりと体をひねり、体を仰向けからうつ伏せに変えて周囲を見回す。

 眼下には一面に霧が広がっていた。右を見ても左を見てもどこまでも真っ白い霧が絨毯のように広がり、ところどころに木々と思しき緑が霧から頭をのぞかせている。恐らく霧の中には広大な森があるのだろう。

 その中に一か所、ひと際目立つものがあった。

 それは、とてつもなく巨大な樹だった。かなり遠くにあるように見えるが、それでもその樹がとんでもない太さと高さを有していることが分かる。その幹は雲を貫いて上空へ伸び、頂点は霞んで見えない。

 例えるなら、世界樹か。よく漫画やゲームなんかで使われるモチーフの一つで、元ネタは確かギリシャだかどっかの神話に出てくる、ユグドラシルといういくつもの世界にその根を張っている巨木だったはず。漫画やらゲームで使われる際に共通しているのは、今まさに視界に捉えているあれのように、他の追随を許さないほど高く聳える大樹という点だ。

 少なくとも地球にあんなもの、数百メートルかそれ以上の太さの幹を持つ大樹があるなんて話は聞いたことがない。一体ここはどこなんだ……?

 十数秒その大樹に目を奪われてしまったが、はっと今自分がスカイダイビング(ただしパラシュート無し)の真っ只中だったということを思い出す。慌てて視線を下に戻すと、霧の森がさっき見たときよりも明らかに迫っていた。いや当然といえば当然なのだが、その様を目にしたことで改めて自分が落下しているのだということを実感してしまう。

 どうしたものか。いやどうしようもない。手ぶらの(スマホはどこかへ飛んで行った)草臥れたジャージ姿の無職に何ができるというのか。いや厳密にはまだ無職じゃないし。有給消化中だし。生きてるだけで給料出てるし。あれもしかしてこれ誰よりも勝ち組じゃね?

 等と現実逃避をしている間にも地面は迫る。現実からは逃げられないということか。

 ゴクリと唾を飲み込む。そろそろ覚悟を決めよう。

「すぅー……はぁ……。よし」

 空気抵抗という名の暴風に圧されながら、なんとか深呼吸をする。肺を少し冷たい新鮮な空気で満たして、眼下の森を一瞥して。

 手足を大きく伸ばし、目を閉じた。

 一見何もかも諦めて五体を放り出したように見えるが、別に死を覚悟した訳ではない。

 陸上生物である人間の俺に、空中でこれ以上できることはない。ならば極力空気抵抗を受けて速度を減らし、着地の衝撃を少しでも減らすように努めるのが最善だろう。

 人間万事塞翁が馬、人事を尽くして天命を待つ。後のことは神のみぞ知る。もし死んだとしても、無様に泣き叫びながら死ぬよりはこの方が気持ちよく死ねる。こんな時くらい、こんな時だからこそ、男らしく、潔くいきたいのだ。

 あとなんか、なんとかなる気がする。現状訳が分からなさすぎるし、逆に死なないんじゃねこれみたいな。そんな根拠のない、だけど確信に近い感情が胸の内にあるのだ。

 地上が近づいたのか、風の音が少し変わる。耳を澄ませると木々のざわめきまで聞こえてくるようだ。空気も先ほどより暖かくなり、目を閉じているせいか全身を森に包まれているようなぬくもりを覚える。

 自然の優しさを全身で感じて、今までの思い出が走馬灯のように脳内を巡って。

 人生初のスカイダイビングは、とうとう終わりの時間を迎えた。

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