6.たった一つ
四月――
市民病院を囲む桜並木の外周を、私は父の車椅子を押し、歩いていた。
「へぇ…… そいつは、不思議な話だな。臨死体験か、俺にはなかったな……」
「酷い夢さ、きっと若者向けの小説なんて読んだもんだから、夢に出ちゃったんだろう」
あの日、脳挫傷で死亡寸前だった私は、偶然夜中に家を訪ねてきた弟夫婦によって発見され、九死に一生を得た。
事故からの時間経過を考えれば奇跡。二週間ほどの入院を余儀なくされ、懐は完全に底をつく形になってしまったが、後遺症も残ることは無く、二ヶ月後の現在、仕事にも復帰している。
「甥っ子にも教えてやればよかったかな? あの世代なら喜んだかもしれない」
「あの孫はぬぼーっとしてやがるからな、反応薄いと思うぞ? なんか、あいつは俺よりも母方の爺さんに似てるな」
父を押しての久々の散策、今日はよく晴れている。桜も綺麗だ。
「なぁ…… 弘道」
「うん?」
難しい表情で振り向いた父に、私は少し顔を寄せた。
「お前その話…… 夢にしてもなんにしても、断ったんだろ?」
「……あれ? わかるの?」
父がため息混じりに、前方へと向き直る。
「なんとなくな。なんで断った?」
「ん~……」
答えを濁らせる。心情的に答え辛く、きちんと口に出すには、難しかった。父はオカルトは信じない、「忘れた」でもいいような気がする。
結局私は、黙って考えるふりをしながら、のんびりと車椅子を押し続けた。
「……こういうことを言っちゃ、親失格なんだろうけどよ。俺は正直、あの時お前、死んでくれないかなって思ったんだよ」
「っ……おいおい、息子としてはショックだよ?」
急な度が過ぎる発言に、五十を手前にして仰天しそうになった。
さすがに父も悪いとは思ったのだろう、首を向けて左手をぱたぱたと、釈明するような素振りを私に見せた。
「いや…… な? 俺が工場潰してしまったせいで、一緒に借金返すはめになったし…… 終わったら終わったで、これだろ? 数えてみれば俺はすでに、お前の人生を三十年以上潰してしまったわけだ。潰してしまった時間は戻しようがないし、今の日本だ…… 俺みたいな荷物抱えながら、お前の歳でやり直せるほど人生は甘くない」
ああ、と、私は納得した。
その考え方に、やはり親子なのだなと、そう思う。
「ぽっくりとよ、張り詰めた糸が切れたみたいに、楽になった方がお前にとってはいいんじゃないか…… ってな」
張り詰めた糸――
私はそれが緩んだ日のことを思い出し、舞い散る桜の花びらを眺めた。
「……どうして、ですか……?」
私の出した答えに、少女が茫然と、哀しげな目で見つめてくる。
「うん…… 考えてみたけど、未練がたっぷりなんだよ」
そんな経験はあったかなかったか思い出せないが、なんだか女性を振ってしまったようで申し訳無く、私は出来うる限り、元気そうな声を出しておいた。
「未練とは、いったい……?」
桜のような笑み。それを貰ったお礼を返すように、四十七のくたびれた笑みを返した。
「君のお察しの通り、私には未来なんて無いと思う。怠けた過去は戻らないし、現実は厳しい。私なんかと違って努力をしている人でも、簡単にくじけるし、行き詰まる。それが私の世界だ。父になんの問題もないのなら、私は私で君の厚意に甘えて、別の世界に幸せを探しに行くのが賢いのだろう」
混迷した心の中でも、彼女の声は聞こえていた。
私がいなくなったとしても、何も変わらない。もっと良くなるかもしれない私が住んでいた世界。残酷とも、救いとも思える現実。
それを私は、理解出来ている。
「でしたら……」
迷う必要はない。少女が与えてくれた機会に乗る。それを『賢い』と思うのは口に出した通り、心から思うことだ。私と同じ状況の誰かがそれを選択したと聞いても、私がその人を責めるようなことは無いだろう。
でも、私には――
「悔しいじゃないか……」
「え?」
何十年、忘れていた感覚。胸を締め付け、胃の腑を熱くする。心地良い感覚が体の奥底から湧き上がっていた。抗えない心に突き動かされた、口から出た言葉には、何十年、忘れていた芯のある音が入った。
語気の強さに、わずかに身を退いた少女に向けて、私は笑む。
「……私が働き出したのは、父の工場が危機にあり、人手不足に無理矢理駆り出された時だった。わりかし温厚な父がいつも不機嫌で、それが極まりながら倒産して、借金地獄…… わけもわからないままに、色んな大人に怒られながら無理矢理働いて、過ごしてきた……」
私の半生。おそらくと少女は知っているのだろう。
それでもいい、聞いてもらわなければならない。
「働いても、働いても、借金は返らない。ロクな勉強もなく社会に出た私は、まともな仕事も覚えられず、怒られるしか脳が無い。そんな状態で、そんな状況はこの歳まで続いて、気づいたら、私のこれまでなんて関係なかったかのように、偶然みたいな出来事で借金は無くなった」
――しっかりと口に出し、これまでの人生を聞いてもらう。
「嬉しいような、虚しいような…… そんな感覚。借金を返すためだけにあった人生は途端に終わり、普通の周りに溢れている人生がわからない私は、三十年経ってようやく目が覚めたように、空っぽになった。そこから、この先どうしようかと思った次の瞬間には、父が倒れて今度は医療費地獄だ…… わけがわからない」
――誰よりも、「自分自身」に。
少女は静かに、優しい目を向けて聞いてくれていた。
探す必要もなく、どこにでも転がっているような話。それを脱する気概すらもなかった、一人の怠け者の話を。
「わけのわからないことだらけの中に生き、でもただ一つ…… 私の人生で、私自身がわかっていることがある」
「……なんでしょう?」
語れ。心よ、もう落ちるな。
「私は、ただの一度も笑ったことが無い。取り繕いも無く、不安も無く、明日を考える必要も無く、心の底から、目の前の幸せに笑ったことが無い。心の底から幸せだと、感じたことが無い」
拳を握れ。
「悔しいじゃないか……! いくら理不尽で無茶苦茶でも、一回くらいは生まれた自分の世界で……! 私は今幸せだと! 心の底から笑ってやりたいじゃないか……! たった一瞬でもいい、生まれたからには一度くらい、そんな瞬間を自分の人生に見せつけてやりたいじゃないか……!」
体が、震えた。胸から首元までが、息苦しい律動を錯覚させ、絞り出すような声になった。
目の前が真っ白になるまでの、真っ正直な感情の吐露。間違っている間違っていない、そんなことを誰に指図される気もない、私の心からの声だった。
奮い立っていた心が役割を終え、急速に波を失っていく。
「……だからごめん。私も一応男で、馬鹿なんだ。この決着を付けるまで…… 私は自分の人生を降りられない。君のお願いを聞くことは、できない。呆れるだろう?」
気づけば目の敵のように、言葉をぶつける対象にしてしまっていた少女に、私は気まずさと羞恥を覚え、半端な笑いで誤魔化した。
見つめる私の前、やがて少女の表情が、驚きから、
「いいえ…… とても、かっこいいと思います」
桜のような笑みに変わった。
「……ははっ! 君みたいな若い子にかっこいいなんて言われるのは学生時代以来だな! それだけでも来た甲斐があったよ!」
年甲斐もなく、私はそれにときめきに似た喜びを覚え、本当に久しぶりに、笑った。
「ご足労いただいて、ありがとうございました。すぐに、お送りしますね……」
少女が両腕を広げ、空にかざす。
「うん、本当に死んじゃって、もしよかったら、君の好きなように使って?」
「そんなに簡単に死なないでください」
くすくすと笑う少女の顔は、見た目相応の子供のようで可愛らしく、私はついと軽口を重ねる。
「ああ、おじさんなりに、バタバタ足掻いてみるよ」
桜の笑顔とともに、世界は白く、ピントを外れたようにぼやけていく。
降り注いでいた無限の花びらが、体を打つ風に舞い上がる。
「あなたの未来に、幸多からんことを――」
桜吹雪の中、その光景は消えていった――
「弘道……?」
「ん? ああ……」
父の声に、ぼんやりとしていた意識が戻る。
「どうした…… やっぱ、怒ったのか?」
少し、長く白昼夢に耽ってしまっただろうか。
やせた父の顔が、心配そうに私に振り向いていた。
「そうだな……」
私は車椅子の持ち手を力任せに上から押し、前輪を浮かせ、勢いをつけて――
走りだした。
「ちょっ! ひろみちっ!」
「悪いね父さん! ちょっと走り出したい気分だ!」
がしゃがしゃと音を立て、車椅子の持ち手が振動に揺れ動く。
ぐっと、握りしめて押さえつけ、更に足を速めた。
――あれがただの夢だったのかどうかは、未だに私にはわからない。
それはどちらでも良いことだ。
「おおい! ひろみち~!」
父が情けない声を漏らし、私の足が早くも限界を見せてきた。
――でも私は、あの時から、
「たまには運動も楽しいでしょう!? 楽しいなぁ!」
「なにがだ!?」
――笑うことが、多くなったように思う。
ばたばたと走る私の背中を押し、一陣の心地良い風が凪いだ。
前には桜の花びらが舞う。
私は笑顔を浮かべ、花びらの中を―― 子供のように駆け抜けた。