5.『未来』
鈴を鳴らすような声で、少女は自らを精霊だと言った。
それを裏付けるように、まるで少女を象徴するかのように後ろにそびえ立つ、桜の木。青く広がる空間に、止むこと無く降り続ける花びら達が踊っていた。
(なんだこれは…… これではまるで……)
眠りに落ちる前に読んでいた小説。そのものじゃないかと私は思った。
「驚かれているようですね…… 突然で、申し訳有りません」
あまりの非現実に思考が追いつかない私に、少女がぺこりと頭を下げる。
「え? ああ、いや…… こちらこそすみません」
非現実の中の私の反応は、悲しいくらいに私の反応だった。
「本日は、あなたにお願いしたいことがありまして…… こうしてあなたをお呼びした次第です」
「はぁ…… お願い、ですか……?」
そういえば、あの小説もお願いを受けていたような気がする。ここまで同じ展開であるとするならば、やはりここは夢の中なのだろうか。
お願い。お金の問題でなければ、聞いてあげたいところではある。
「実はあなたに、とある世界を救っていただければと思います。どうか、お力をお貸し願えませんか?」
「……は?」
ここに来てからもう何度目になるか、私の思考がぜんまいを詰まらせた。
「いやいやいや、残念ですけど、できません。私はただの、四十七歳のおじさんですし、派遣社員という…… 日雇いのバイトですし、背が高いだけが取り柄で……」
いくらなんでも、無理なお願いだった。聞き間違いでなければ、『世界を救え』とおっしゃった。
戦争、貧困、犯罪―― 何から救えとおっしゃるのか。
私には路頭に迷う子犬ですらも、救える自信は無い。
「いえ、あなたは素晴らしいお力をお持ちです。そしてその力こそが、世界を救う者に不可欠な、最大の力なのです」
「そ、そんな力あるわけが……」
両手を前に、非承認を貫く構えを取る。
小柄な少女は長い睫毛を伏せ、静かに首を振った。
「あなたの行いを、見ておりました。道に倒れたカエルに哀れみを向け、自らに重傷を負わせた女性に、思いやりを与えて立ち去る。あなたの力は、その大いなる優しさです」
「や、優しさ……? いやいや! それは私が俗にいうヘタレというだけで、事故を見逃してあげたことも、本人のためになるかわからないような犯罪ですし、そんな大それたものでは……」
「……親の借金を背負いながらも、弟さんの学費は自らが工面なさった」
「……!」
「そして、一般的な幸せを手に入れた弟さん夫妻。お二人が苦労に巻き込まれることの無いようにと、ご自分一人がお父様と借金を抱えて、長男としての意地を通してきた」
(そんなことまで…… どうして……)
それはもう、「見ていた」という話ではない。誰にも明かさなかった、心までもを見られていた。
今更に、目の前の少女を『精霊』という存在なのだと、特別に思う。
「私はあなたのような人こそが世界を救い、その自らが救った世界において、幸福を受け取るべきだと思うのです。どうか、やっていただけませんか?」
少女は全てを知っている。「私」を知っていて、今のお願いをしているのだ。では、私には本当に、この少女が言うような力があるのかもしれない。
だが、そのお願いを聞くには、さしあたっての問題がある。
「……そ、それは、本当に私に出来ることで、お困りでしたら手伝ってさし上げたいのですが…… 精霊さん? のお話を聞いてる限りでは、とある世界という、別の世界に行かなければいけないような……」
――父。
私には父という、入院中で、支えなければならない人がいる。
「ええ、ですので、これはあくまで『お願い』です」
少女は胸元で両手の指を合わせ、伏し目がちに言う。
「別の世界に赴かれた場合、あなたはもう二度と、今までの世界に戻ることは出来ません」
「は?」
いや、ちょっと待って。
「あなたの世界での『あなた』は、このまま、お亡くなりになられます」
「……は?」
は?
「覚えておられませんか? 今朝事故に遭われた時に、後頭部を強くぶつけられましたよね?」
たしかに、打っていた。思い返せばコブになっていなかったのが不思議なくらいに、強く打った感覚があの時にはあった。それが小説を読み始めてから、急激に痛み出すようになって――
「あなたはそれがもとで今、生死の境をさまよっていらっしゃるのです」
しばし、思考が急停止から、硬直を続け、
「…………は!?」
喉の奥から、私にしては珍しい、大声が飛び出ていった。
「今のあなたは脳から出血をしておりまして、大変に危険な状態なのです。ですので私はその今を機会に、ここにあなたを招き、選択をいただこうかと……」
合わせていた両手の指をきゅっと組み、少女が表情を曇らせる。哀れみを湛えたその顔に、私にとっての最悪の証明を見た。
しかし、今の話を踏まえると、少女の言う『お願い』は――
「あ、あの…… それって、あなたの『お願い』を聞かないと、私はこのまま……?」
「いえ、大丈夫です。境はあくまで境、まだ引き返せる状態です。もしお願いを聞いていただけないのだとしても、私にあなたのこれからの人生を妨げるつもりはありません」
「そ、そうですか……」
そもそもが一択ではないかと問おうとした私の思いを、少女は否定してくれた。
なるほど、これはいわゆる「臨死体験」というやつなのかもしれない。言わば私は、三途の川の際に立っているのだ。気弱な私としては、物語に聞くようなおどろおどろしい場所に呼ばなかった、この可愛らしい精霊さんに感謝すべきなのかもしれない。
「ですが……」
最悪の回避にほっとした私の前に、顔に憂いを強くした少女が歩み寄ってくる。
「あなたにとって、もとの世界に居続けることが良いことなのか、失礼ながら私には疑わしいのです……」
聞き心地の良い声。顔をうつむかせ、トーンを落としたその声に、私は首を傾げて彼女を見下ろした。
「あなたは自らを臆病だと、無価値だと追い詰めていますが、私はそうは思いません。あなたはとても優しい人なのです。ですがあの世界のシステムは複雑で…… カルマの作用が絶対的ではありません。あなたの優しさが、そこまで通じる世界ではないのです……」
聞いたことのある言葉だ、確か…… 因果応報みたいな話だったろうか。哀しそうな顔は、無力な私の心にひっかかるのでやめてもらいたかった。
「そうなの、ですか……? 私にはむつかしいことはわからないのですが……」
「……ご自分でよく、お考えになってみてください。あなたのこれまでの人生と、これから先、あなたの前に訪れる、あなたの世界での常識的な、あなたの――」
少女が、顔を上げ、私の瞳を覗き込む――
「『未来』を」
――未来。
赤い瞳に、私の目が釘付けにされる。
投げられたその単語に、不意に意識が途切れるような思いがした。
その単語を頭にした、今日の一件が思い出される。
赤い車で、私をはねてしまった女性。
彼女には、輝くような未来が見えた。私には――
「お父様のことは心配ありません。あなたがいなくなってしまった場合、あなたがいなくなった分だけの庇護が、大きな枠組みより受けられます。それはとても大きな庇護で、あなたが今まで通りお父様を支え、働くより大きいかもしれない」
私の未来には、何があるんだろう。この歳から、何をするんだろう。
今まで通り、不幸にすがって生き、いつか父がいなくなったら、私には何が残るのだろう。
誰かを支えているという「価値」すらも失った私に、何が――
「あなたを戻してさしあげることは可能ですが、私には過去を変えることはできません。お戻りになられた場合、あなたは自らとお父様、両方の療養に苛まされる状況になります。これまでの人生で得てきた資本は、ゼロ以下にもなるでしょう……」
今の人生の未来、その先にあるのは……
あの『ほの甘い』、布団のような誘惑だけじゃないのか……
「戻られたとして、険しい道です。覆せるかはわかりません。あなたの見てきたこれまでの現実は、これからも、現実のまま過ぎていくのですから……」
それを避けられたとして……!
これまで通り、過去から今までの通り、それが限界まで続いていくだけじゃないのか……?
「どう…… なさいますか?」
私の人生、未来とは―― なんだ!?