4.桜の笑み
父と二人暮らしの、2DKの文化住宅。
今は一人のこの部屋も、やはりそれなりには狭い。私はこたつの上に夕食を用意すると、背中から厚手の作業着を被って食事を始めた。
白米と、一つ十五円としない味噌汁が猛烈に湯気を立てる。梅干しと納豆をお供にした、いつもの献立だ。
子供の頃、数え切れないほど再放送されていた小坊主が出て来るアニメで、「よく働いたあとは大根飯でさえも最高に旨い」という話を、何度となく見た憶えがある。子供心に私は、そうだろうなと、それを信じたものだった。
でも現実では、よく働けば働くほど砂を噛むようというか、味は感じなくなる。おかげさまで、父の入院から二ヶ月とこんな食事だが、贅沢を考えずに過ごせている。夜中に空腹で目覚めない程度に腹を満たせれば、それ以上を求めることは無い。
食事の途中、こたつの上に置いてあった不動産屋のチラシが目に入った。こんな文化住宅の郵便受けにもポスティングをかける、熱心な営業さんの努力の結果だった。
「……市営住宅、当たらないかな」
チラシには、手の届くはずもない一戸建て住宅が載っているが、私が望むのはそれくらいだ。私と父の収入ならば、もし当選すれば相当に安く住めることだろう。引っ越し費用を、工面出来れば。
当面は、今の手狭な借家。では将来はどうか。父親ももういい歳だ、今から回復に向かっても、十年後はどうなってるかはわからない。少なくとも、自分よりは早くにいなくなるだろう。
いなくなったあとは支える必要もなくなるが、今の父の年金も途絶える。状況としては、あまり変わらないような気もする。
つまるところ、いつかはここで、誰に知られることもなく、私は――
「いかんいかん、先のことを考えると暗くなるばかりだな」
とんとんと、頭を叩いて考えを散らした。
「いた、いたた……!」
ズキリと、後頭部に響き、今朝の一件が頭を過ぎる。
思えば今日は、あまり良くないことばかりだったような気がする。そんな日だから、こんな考えばかりになってしまうのかもしれない。
(ん……? 『今日は』、か……?)
はたと、ここ最近の自分の考えごとの内容を思い出してみる。箸で梅干しをつまみ、口に含んで考えてみる。
『今日は』というよりも、『今日も』と言った方が正しくは無いだろうか。いつもいつも、暗くなるようなことばかり考えてはいなかっただろうか。
そういえば最近は、妙な、今までにはなかった感覚がある。
猛スピードで走る車がそばを横切ろうとする瞬間や、高い橋の上から見下ろす川底に、怖さと一緒に、何か布団を見るような、『ほの甘い』感覚を受けることがある。
そして今朝の、意識が途切れてしまうような事故――
(まさか私は…… はねられることを意識してわざと……)
背筋が寒くなり、犬のように首を振るわせた。
「本でも読もう、頭を切り換えるのが一番だ」
冗談では済まない嫌な考えを振りきるように、私は背中にある小さな本棚を向いた。雑誌だ漫画だ小説だのが乱雑に放り込まれた本棚は、テレビがアナログを停波して置物となった今、我が家きっての娯楽だった。
すでに隅々まで読み尽くした娯楽、そこに手を伸ばした時、ふと、思いついたことがあった。
「そうだ…… 試してみよう」
こたつの上、液晶にひびの入った携帯電話に手を伸ばす。
最近は小説も、インターネットでタダで読めると職場の若い子が言っていた。そういうことに明るくない私ではある。それでも、『検索』くらいならやり方はわかる。
幸か不幸か、この携帯を契約する時に、間違ってインターネットに繋いで何十万もの請求が来るという噂にびびってしまっていた私は、少し高くはあったがインターネットを定額にしていた。
なら、何も怖れることは無い。
「え~と、『小説』と……」
私は使い慣れないインターネット接続を始め、『検索』をかけてみる。
「へぇ……」
あっという間だった。何を悩むということもなく、本当に小説のサイトにたどり着けた。聞いたこともない作者ばかりだが、そこには間違い無く無料の小説が置かれていた。
しかし、どれもこれも妙に題名が長い。最近の流行なのだろうか。そんなことを考えながら、私はしばしボタンを操作して小説を読むという、未体験の遊びに興じてみることにした。
「ダメだ…… 頭に入らない」
三十分と経たない内に、携帯がこたつの上に帰る。
冒頭のみを辿ってみた数作、どれも内容は漫画のようで読みやすかったが、若い子ならばわかる専門用語なんだろうか、書いてあることがイマイチわからなかった。
MMOとか、VRとか…… 私は英語は苦手だし、なんの略なのかもわからない。それに対する解説的なことは書いてある。それでも、私には解説の解説が欲しいところだ。
「いたっ…… つつ……」
しかし何よりも、頭が痛い。
「……もう寝よう、無理がたたっているのかもしれない」
私は食器を片付け、歯を磨くと、消灯から倒れ込むようにして敷きっぱなしの布団にくるまった。
ひどい頭痛だった。軽い目眩というか、悪心も感じる。初めて読むような内容の小説だったことはたしかだが、頭に入らないのはきっとこのせいもあるのだろう。文字を追いかけていてもこちらに気をとられ、読み返すことすらも億劫になる。これではテレビでさえも、見られたとして見る気にはならない。
とにかく、今は無理でもタダで読める場所があるということはわかった。今日は休んで、また明日覗いてみることにしよう。
私はそんなことを考えながら、頭を苛む痛みに奥歯を噛みしめ、体の疲労を案内に眠りの世界へと落ちて行った――
真っ暗な所に、寝間着のまま私は立っていた。
辺りは田舎の森のように黒い闇が広がり、何も見えない。ただ見えるのは、足元に光る長い長い一本の白い道。
そうしなければならないと、まるで促されるように私は歩き始めた。白い道を踏みしめる感覚、歩みに合わせて軽く揺れる両腕の感覚。肌に感じる、空気。
現実的にはありえない光景の場所で、体の感覚には現実感があった。
私はただただ、道を歩み続ける。やがて道は丸く拓け、終わりを見せた。
「……!?」
円形の足場に踏み込んだ瞬間、激しい閃光に見舞われ、私は目を閉じる。
そして目を開くと、全ては変わっていた。
真っ暗だった世界にはどこまでも続く青空が広がり、どこからともなく無数に降り注ぐ、桜の花びらが舞う。清々しいまでの幻想の光景に、私は口を開けて立ち止まっているよりなかった。
「……? どうなってる……」
ようやく、そう呟いた私の前に光の柱が立ち、一本の桜の木が現れた。
そしてその前には少女が一人。透き通るような白く長い髪にわずかに桜の色を浮かせた、『神聖』な少女が立っていた。
「なん…… だ……?」
和とも洋ともつかない、儀式がかったひらひらとした白い衣服。人種すらもわからない、目を見張らずにはいられない美しさと愛らしさの同居した佇まい。
思わずと呆けてしまった私に、少女はニコリと微笑みかけた。何に例えることも出来ない、心を包み込まれるような笑み。強いて例えるものがあるならば、彼女の後ろに立つ一本の木。桜のような笑みだと、私は思った。
「ようこそおいでくださいました、梢弘道さん」
「え? は、はい……」
「私は世界樹の精霊、どうぞ、よろしくお願いいたします」
そうして彼女はまた、桜のように笑った――