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3.それだけの努力

 電車を三駅と乗り、寂れた駅前から十五分と坂道を上り、私は白く大きな建物の前へとやってきた。

 もう何度と訪れた広い敷地を持つ市民病院。背の高さから私を憶えてくれたのか、受付の人達も愛想良く、病棟に入るまではスムーズだった。


 ――『梢 進』


 入り口のプレートには(こずえ)(すすむ)―― 私の父の名前がある。以前は下にもう一人、別の人の名前があったが、父が言うにはもう退院したらしい。気の良さそうな青年だったが、六十八になる私の父と同室というのは、窮屈ではなかっただろうか。何はともあれ、回復したのなら喜ばしい限りだ。


「父さん」

「おお、弘道(ひろみち)。面倒かけて悪いな……」


 ベッド周りを仕切るカーテンを開けると、父が顔を向けた。顔色はすっかり良くなったが、少しやせたなと思う。家にいる時よりはマシな食事をしているのだ。心配は無いのだろうけど。


「入れとくよ?」

「ああ、頼む」


 肩掛けのカバンから父の着替えを取り出し、ベッド脇の、中央にテレビが設置された収納棚の下を開ける。ビニルに包まれた使用済みの着替えを新しいものへと取り替え、棚を閉めた。


「経過はどう?」

「一応真面目にやってるつもりだが…… (かんば)しくはないな」


 『やってる』というのは、リハビリテーションだ。

 父は二ヶ月前、脳出血に倒れ、後遺症から右半身が動かない状態になった。一命を取り留めたことは幸いであり、比較的早くに右手が回復を見せたことも幸いだったが、依然、足は立たない。


「……そっちは気長にやるしかないよ。頭の方」

「もう二ヶ月だぞ? さすがに問題無いって医者も言ってるよ」

「ならいいけど…… お茶飲む?」

「ああ、頼む……」


 父の水筒から、湯飲みへとお茶を注ぐ。看護師の人が入れてくれたのだろうお茶は、まだ温かかった。湯飲みを左手で受け取る父。進んで右手で持つ日は、来るのだろうか。


「なぁ、弘道」

「何?」

「仕事の方は、大丈夫なのか……?」

「……なんとか、理解はしてもらってるさ」


 私はその後、二、三、の会話を経て、父との十五分ほどの面会を終えた。


 以前は矍鑠(かくしゃく)とした印象のあった父。そんな父の今の姿を前にすると、強がりを言う他無かった。

 自分の本音を探れば、私は頭の経過よりも、リハビリの経過の良好を望んでいるのかもしれない。

 手術費用、入院費。日本の制度は優れていて、火急への様々な控除があることを思い知った。だがそれでも、様々な控除を駆使しても、その金額は私には大きな負担だった。同じ年代の、昭和の男からすれば「痛い」程度のはずの金額。たったそれだけの金額が、私には明日を脅かす金額だった。

 「早く良くなって欲しい」。そう思う私は、どういう意味でそれを思っているのか、あまり考えたくはなかった。





「じゃあ梢さん! お疲れ様っす!」

「ああ、また明日」


 夜の駅前。勤務地の工場から一緒に帰ってきた茶髪の若い同僚が、雑踏の中へと紛れ込んでいく。午前中を父の見舞いに費やした私に対し、朝から二時間の残業に至るまでを経たはずの彼の足取りは、比較にならないほどに軽い。

 それを羨ましく思いつつ、こちらは足取り重くバス停へと向かう。駅のダイヤに半端に合わせたバスは、すでに乗客を待っている状態だった。


(バスか…… 乗らなければ、交通費を少し浮かせられるか……)


 そのオレンジの車体へと歩みながら、吝嗇(りんしょく)な考えを巡らせる。


(だが、歩いて一時間…… いや、一時間じゃ、済まないよな……)


 そしてそのままに、いつものようにドアをくぐって、後部座席の窓際へと潜り込んだ。

 私が座り、約十五分の後、次の電車からの乗客を待ったバスは、座席が埋まらない程度の人数を乗せて震えとともに出発した。


 ――結局、私はいつもこうだ。

 たしかに父の工場が潰れ、早くに働かなければならなくなったことは事実で、その影響はこの歳になるまで続いていて、今のどうしようもない、無価値な私を作る要因にはなっているんだろう。

 だが、実際は違う。私は、努力が足りなかっただけだ。

 いくら借金を背負っていても、返しながらでもやり直す機会はいくらでもあったはずだ。私は身にかかった不幸に甘えていただけで、幸せを呼び込むことを放棄していた。

 バス代片道、三百二十円。この後に及んでたったそれだけの努力も、放棄したように。


 背もたれに頭の重さを預けた私の足元、作業服のズボンに入れた、携帯が鳴った。


「はい、梢です」

『……梢さん、事情はわかるけど、そろそろどう? 安定して仕事に入ってもらいたいんだけど』


 電話の内容はお小言らしい。月に二回ほど顔を合わせる、派遣会社の男だった。


「あ、いえ…… 申し訳無くは思っていますが……」

『先方からは苦情来てないからいいけどね。実際困るんだよねぇ…… うちは(タマ)―― 人に働いてもらってナンボだしさ。そっちの先方とは時間契約だから、相手がいいって言っても、穴空いた時間分こっちの収益にも穴空くんだよね』

「すみません……」


 さんざんに謝ったあと、電話を切った。近くの席の乗客の視線に、会釈をして謝る。

 ため息を吐いた後、改めて見た携帯の液晶は、今朝の事故でひびが入っていた。


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