2.悪魔の囁き
目に、色の悪いミルクの空が映った。
前後の繋がりがよくわからない。路地を曲がろうと、そうしたはずだった。
「大丈夫ですか……! あの……!」
聞き覚えの無い、女性の声が耳を打つ。
ふわりと、花のような、洋菓子のような良い匂いが漂っていた。
(あれ……? 何が起こった……?)
手のひらと背中の冷たさに、自分の状態がわかってくる。
歩いていたはずの私は、どういったわけか仰向けに倒れ、空を見上げているようだった。
「いたっ……! いたた……!」
後頭部に、ズキリと痛みが走った。
「あ、あれ? 何? なんで、倒れてる……?」
わけがわからない。わけがわからないままに首を動かすと、知らない女性と目が合った。泣き顔で見下ろす若い女性からは、細く柔らかそうな長い髪が垂れ、先ほどあった匂いを自分に与えていた。
「すいません、私……! 初心者で、よ、避けられなくて……!」
泣いている。そういう顔はあまり見ていいものじゃないだろう。
多分…… 大学生か、もう少し上にも見える女性。私はとにかく、体を起こすことにした。
「う、ううん…… いたた……」
「え、あの……! 起き上がっちゃ……」
頭と右腕を中心に、体のあちこちが痛い。でも、いくらなんでも倒れたままはカッコ悪いだろう。私だって一応は社会人ではあるはずなのだ。痛みについと声が漏れることが、恥ずかしいくらいには。
「ん……?」
上半身を持ち上げ、座った形になった私の前に、ドアが開いたままになっている車があった。テカテカとした赤いボディと、あまり見られないセンスのある形。私の目から見ても、それが高級車であることはわかった。
それが目の前にあることと、醒めてきた意識が、今の状況を知らせた。
「あ、そうか…… はねられたのか、私は……」
「は、はい! すみません!」
打ったか擦りむいたか、よくわからない痛みを押して私は立ち上がる。高級車の前面の右隅に、不釣り合いな感じで若葉マークが置かれていた。
なるほど、と私は思う。
二車線とはいえ、見通しの悪い住宅街。細い路地から抜け出してきた私を、避けきれずにはねてしまったのだろう。こうして立ち上がって大した怪我も無いところを考えると、おそらくは充分に徐行していたんだとは思う。だがそれでも、ぼうっとして注意を無くしていた私だ。初心者には避けることが難しかったんだろう。
「あ、あの……! 立たない方が! あ、えっと……!」
可哀想に、すっかり気が動転してしまっている。私の背が高いせいで、ちょっと怖がらせてしまっているのかもしれない。
私はとりあえず、怒ってはいないことを示そうと――
(ん……? これは、チャンスじゃないのか……?)
そこで私は、考えた。
この歳の女の子で、こんな高級車に乗っている。見た目からも育ちの良さのうかがえる綺麗な子だ。どう考えたって、家がすごいお金持ちのお嬢さんなんだろう。
三十年と前、実家の工場が潰れた時に生まれた借金。払い続けて来たそれは去年の暮れ、弟の子供が私立のなんとかという学校にスカウトされたとか、なんだか妙な理由で強引に帳消しになった。個人的な納得はともかく、長年背負ってきたものがなくなったことは事実だ。
でも、今の私には、それとは別に降って湧いた、新たなお金の問題がある。
泣きはらした目に、更に涙を重ねる女性に、私は――
「じゃ、気をつけてね?」
「えっ……?」
片眉を上げる、中途半端な笑みでそう告げた。
「なんともないっぽいし、警察とか病院とか、いいよ」
「け、警察……!? でも……! そ、そういうわけには!」
よほど混乱していたんだろう。警察を呼ぶことも忘れていたようだ。それはよかった。
「だってさ、人ひいちゃったら免許なくなっちゃうかも知れないよ? とったばっかりなんでしょ? それにおじさんは今日忙しくて、そんな時間は無いんだ」
そう、時間は無い。ああいうのは長くなる、そんな話はよく聞く。
付き合っていたら仕事の時間が減ってしまう。
「で、でも……」
「いい歳してぼうっとしてた私が悪いんだ。君を犯罪者にして、君のお父さんお母さんを悲しませるような真似は私には出来ないよ。じゃ」
「あ……」
平行線を辿りそうな気配に、私は背を向け、強引に話を打ち切った。
足早に、逃げるように歩き、十数歩してチラと振り返ってみる。迷っているのかもしれないが、とりあえず追ってくる様子はなかった、
私は道を曲がると、ほっと一息ついた。
貧すれば、鈍する。まさにそういうことだと思う。
悪魔の囁き、というやつだろうか。あと一歩、もう少しでとんでもないロクデナシになるところだった。あそこから示談でゴネるとか、ずるずると医療費をせびり続けるとか…… 悪い人ならいっぱい考えるんだろう。
端から見れば情けなくとも、悪いことだけはしなかった人生だ。
ここでそんなことをしてしまったら…… 私は私を、「見限る」ことになる。そう思う。
悪いことと言えば、こういう時に勝手に許して、警察を呼ばないのは違法だ。それはわかっている。今やったことが彼女のためになるのか、自己満足ではないのか、それに答えられるほど私は賢くはない。
でも、略取であれ、通報であれ、出来ない。そんなことは、出来るわけがない。その答えは子供にだってわかることだ。
彼女のこれからの未来と、私の未来――
どう考えたって「価値」は、彼女の方にあるのだから。
「痛いな……」
私は痛む右腕をさすりながら、住宅街を歩いて行った。